06:家族
「シリル、ウチの子にならないか?」
ルグロの口から出てきた言葉に唖然としたシリルは、会話のために握っていたメモとペンを手から滑らせた。
「いやなに、身寄りがないのならウチで預かろうと思ってね」
「いい考えじゃない。ミリアも喜ぶんじゃないかしら?」
「べ、別に嬉しいとかそんなの…」
唐突な提案に驚きつつも、どこか恥ずかしいようなむず痒そうな顔を浮かべて口ごもるミリアーナを見かねたミルスは彼女の耳元で小さく囁く。
「ほら、チャンスよチャンス。一つ屋根の下で一緒に暮らすことになればその分アタックする機会も増えるし良かったわね」
「ちがっ!だからこいつはそんなんじゃないって!」
耳まで真っ赤になったミリアは、年甲斐もなくはしゃぐミルスを追って部屋の奥へと走って行った。
ルグロはやれやれと苦笑いを浮かべつつもシリルにソファーの隣に座るよう言い、彼の頭を優しく撫でた。
「ミリアは昔からずっと姉妹が欲しいと言っているんだよ。だから私は君にその代わりを期待しているんだ。本音はこんなところさ。私はミリアに父親らしいことの一つもしてやれなくてね。それどころは私は…」
ルグロはそう言いかけたところで押し黙ってしまう。しかし、何かあったのかと不安げな顔を浮かべるシリルを見ては小さく笑ってソファーから立ち上がる。
「何にせよ、君にとっても私達にとってもいいこと尽くめなはずの提案だ。どうだいシリル。私達の家族になってくれるかい?」
「…」
そう言って手を伸ばすルグロを見てシリルは考えた。
この手は握るべきではない。頭では理解できてはいた。
自分には家族がいた。何よりも大事で自分に生きる希望をくれた両親がいた。
母さんがいたから耐えてこれた。父さんがいたから希望を持てた。これは揺るぎない事実であり、そしてそれを自らの手で壊したのもまた事実だ。
変な言い方になってしまうが差し伸ばされたこの手を取ってしまうということは、両親への裏切りになってしまうのではないか。自分一人勝手に全部投げ出して幸せになるのは、あまりにも都合が良すぎるのではないか。
ぐるぐると思考が巡り、正解が遠のいていく。
「…まぁ、急すぎるというのは分かっている。ゆっくりでいいから考えてみてくれ」
シリルの心中を察してか否か、ルグロは差し出した手でシリルの頭を軽く撫でては、はしゃぎ倒している二人を叱りつけるためにリビングを後にする。
少し経って、頭を押さえて戻ってきた二人を見るやシリルは笑顔を浮かべて自分の胸に刻まれた楔を無理にでも忘れようとした。
ゆっくりでいい。ルグロのその言葉を逃げ道にして、今はとりあえずと先送りにする。
「ところでさ、シリルの部屋はどうするの?うちに空き部屋はないしリビングで寝るってのもね」
ルグロの制裁に頭を押さえながらもミリアーナはふとした疑問を口にする。至極真っ当な疑問だというにも関わらず、ミルスは彼女を見てキョトンとした顔を浮かべて言い放つ。
「ミリアの部屋で寝るに決まってるじゃない」
「…へ?」
「ミリアの言う通りうちに空き部屋はないわ。さらに言えば余ってるベッドもないわね。ふふ、つまり一緒の部屋で一緒のベッドで寝てもらうしかないってことよ」
したり顔でとんでもないことを言い放つミルスに流石のルグロも再び制裁を下そうとしたが、一枚の紙によってそれは遮られた。
[ミリアがいいなら僕はそれで構いません]
シリルは顔を赤らめつつも三人にそう伝えた。
決してやましい気持ちがあるわけではない。ルグロの言葉に寄り添ってみようという彼なりの気持ちだった。
家族にはなれない。しかしこの家族に受けた恩は返したいと思っただけのこと。ミリアーナの望みを叶えるためにもと一人っ子の彼が考えた結果がこれである。
「あああああんた何言って」
「あらあら!シリルがそういうなら決まりね!」
目を輝かせるミルスはそのまま二人を引っ張っては二階にあるミリアーナの部屋へと押し込んでしまう。
「ふふふ、良い夢を♡」
ぱたり。
ドアは閉まり小さな部屋には二人きり。ミリアーナは黙ったまま動かずシリルの額には汗が滴る。
もしかして間違ってしまったのかと慌てるシリルだったがミリアーナは黙ったままベッドへと入ってしまった。
これ絶対やっちゃったやつだと、ミリアーナに謝るためにメモとペンを取り出そうとするが彼女の小さな呟きでそれすらも止まってしまう。
「こっち来なさいよ」
そっぽを向いたままもぞもぞとベッドの端へと体を寄せてはシリルに同衾を命ずるミリアーナ。焦りで我を失いかけているシリルは命じられるままゆっくりと布団を持ち上げベッドへと腰を下ろす。
(え、どういう状況?)
なんとシリル、ここで冷静さを取り戻す。
自らが引き起こしたこの状況に疑問を浮かべつつも考える。年の近い女の子と一緒のベッドで寝るなんて経験あるはずもなく、布団の下から覗く水色の寝間着…の間から見える白いナニガシに目が止まる。無防備な状態で背を向ける彼女の腰部分から覗く白いソレを見るや彼の思考は暴れ始める。
仮にも男。性に頓着がないにしても、そういうものには名状しがたい気持ちを抱くことは自明の理。
そんな混迷極める彼の思考を嗜めるようにしてミリアーナがチラリとこっちを向く。
「寒いんですけど」
もう訳が分からず布団の中に入り込む。
静まり返った部屋のせいで、ビートを刻む心音がいやにうるさく聞こえる。背中に感じる彼女の体温がやけに生々しく、シリルは微動だにせず固まっていた。
五分、十分と経っても眠気どころかピクリとも動けずに、鼓動が落ち着く様子もない。これはまずいとトイレを装って部屋を出ようとしたその時、ミリアが小さく口を開いた。
「あんた、今悲しい?」
その問いかけにシリルは答えない。
至極当然、声を出すわけにはいかないからだ。しかし、ミリアーナ返事はいらないと話を続ける。
「正直な話、あんたの気持ちを私は分からない。分かってあげられない。嫌味じゃないわよ?だって私は両親を失ったことなんてないんだもの」
「…」
「でも私なりに考えみたの。ある日突然パパとママがいなくなってしまったらって。でもすぐにやめちゃった」
淡々とそう話す彼女の声色はどこか震えているような気がした。今にでも泣き出してしまいそうなその声に、シリルは黙ったまま耳を傾けていた。
「考え始めたらさ、悲しくなっちゃうの。朝起きるとママが朝ご飯を作って待ってくれてる。パパは仕事の用意で忙しそうだけど、おはようって言ってくれる。それが私の当たり前で、どうしようもないくらいに幸せなの。その当たり前が消えた時のことなんてとてもじゃないけど考えられないわ」
彼女の当たり前、その幸せはシリルにとってもそうであった。
いつも通りに朝起きると両親がそこにいる。家に帰るとそこにいる。ほとんどの人にとっての当たり前が、ある日突然消えてしまうなんて考える人はそういない。事実、シリル自身考えたことなどなかった話だ。
「それに、あんたは声が出せない。なんで声が出せないかは知らないけど、不便だと…思う。わ、私がじゃないわよ!?あんたが今まで不便してきたんじゃないかなってそういうつもりで!」
背中越しにでも分かるほどに動揺してフォローを入れる彼女にシリルは笑みを溢す。
彼女のこの正直さというか、素直さは彼女らしさを感じる良い部分だと理解している。シリルにとっても学び舎の皆の様に本心を隠されるよりもよっぽど良いし安心できると、彼女のことは会ったばかりにも関わらず信用できた。
「何が言いたいかっていうとさ、あんたは強いよ。私なんかじゃ想像もつかないほどの悲しさを背負っても、泣くだけ泣いたら後はちゃんとしてる。そうそうできることじゃないと私は思うな」
強い。出会ってすぐのミルスにも言われた言葉だ。
彼女らはこの絶望に耐えている自分を強いと思っているのだろう。肉親を亡くし、村を襲った野盗からたった一人で逃げ延びたと思っているのだろう。
この誤解のおかげで今彼は救われている。
しかし、本当の意味で救われることはない。
彼女らは自分を強いと言ったが、そんなことはないのだ。
自分が今見出している唯一の生きる理由は復讐。その復讐に縋ることで今を生きていられる。全ては黒の恋人を殺すため、そのためだけに生きている。
「あのさ、シリル。一つだけ約束して欲しいことがあるの」
ミリアーナがえらく改まった様子で問いかけてきたかと思えば、彼女の細く柔らかな腕が背中から回り込んでシリルを優しく抱き寄せる。突然の状況にどうしていいか分からず三度固まるシリルをよそにミリアーナは続ける。
「恨んだらダメだよ」
本当にこの家族は人の心を見透かした様に喋る。
「あんたのこと何もかもを知らないで言える立場じゃないのは分かってる。でも人を恨むことはやめて欲しい。憎しみは何も生まないし、シリルまで人を簡単に殺す様な奴らと同じになって欲しくない」
そう言ってミリアーナはシリルの腕をギュッと掴む。それはきっと心の底からの願いなのだろう。
(…僕は)
僕はもう戻れないんだ。
自分の気持ちを押し殺して、シリルはミリアーナの手を握り返す。
この人は本当に優しい人だ。僕が知りうる一番優しくしてくれた人と同じ言葉を言ってくれるんだ。
「えへへ。ねぇ、シリル。これからはきっと楽しいこと尽くしだわ。なんせ私がいるんだもの。退屈なんてさせないわ。ずっとずっとずーっと、私が、あんたを…笑顔に…」
眠気に限界が来たのか、ミリアーナはそのまま寝息を立て始める。
再び訪れる静寂。
これからどうなるのかなんてことは見当もつかない。復讐をするなという二人の願いにも応えられるかどうか分からない。
(僕はどうすればいいのかな、父さん、母さん)
背中から伝わるミリアーナの暖かさに身を委ねたまま、シリルは目を瞑った。