05:ミリアーナ
気がつくとそこはどこかも分からぬ深い森の中であった。木々を縫って走っていたせいか体の節々についた擦り傷も、胸の内から溢れて止まらない感情と比べれば些細な問題であった。
荒い呼吸を無理やり押さえ込みながら、シリルは木の根元に座り込んだ。
『なんで…』
あの災厄はどこまで自分を嘲笑えば気がすむのだろうか。希望を与えては、それを一瞬で刈り取っていく。残るのは悲惨な現実と負の感情のみだ。
抱きたくもない憎悪を心の内に募らせながらシリルは一人雨に打たれる。
彼は嬉しかったのだ。
声を奪われ、そして与えられたかと思えばそれはまた全てを奪っていった。そんな中現れた一筋の光。聞くだけで人を死に追いやるほど呪われた己の声に相槌を打ち、返事をしてくれる彼女達はシリルにとっての希望以外の何ものでもなかった。
彼女らは自分の声を聞いてくれた。誘惑の狂気に飲まれることなく平然と喋ってくれた。もうこの先ずっと誰とも話すことは叶わないと思っていたにも関わらずだ。
しかし彼女達が信じる道をシリルは信じることができなかった。それもそのはず、彼女らが信仰するのは彼が最も忌み嫌い憎悪する神だったからだ。
黒の六番目である恋人。
『ふざけるのもいい加減にしろよ!!』
ぬかるんだ土を乱暴に握りしめては力一杯に投げ捨てる。
今すぐにでも殺してやりたい。それほどまでにシリルは黒の恋人を憎んでいる。そして彼にとって唯一の希望となった彼女達もまた黒の恋人のことを思っている。信仰という形で、だ。
結果として彼女達の口から嬉々として語られる黒の恋人の話に耐えられなくなったシリルは、己のうちに湧き上がる憎悪に身を任せて彼女達から逃げ出した。
『母さんも父さんも村の人達も皆死んだ。あいつが、あいつさえいなければこんなことにはならなかったのに』
消え入りそうな声で呻きながら一人俯いては涙を零す。
途方も無いほどの孤独に押し潰されそうになるその時、自分の頭にふと影が落ちるのを感じて顔を上げた。
「君、大丈夫?」
目の前には心配そうな顔で自分を見つめている少女が一人。
「…」
ほっといてくれ。そう言いかけたシリルは開きかけたその口を固く結び、目の前の少女の問いかけに答えることもなく再び膝に顔を埋める。
その姿に腹が立ったのか、少女はシリルの頭を思い切りはたいてはその手を引っ張り上げてシリルを無理やり立たせて言った。
「私のことを無視するなんていい度胸じゃないの。人の心配無視してだんまり決め込むなんてね」
眉間にしわを寄せてはシリルを睨んで引きつった笑みを浮かべる彼女だが、鬱陶しいとばかりに顔を背けて黙りこくるシリル。
そんな彼のそっけない態度で堪忍袋の尾が切れた彼女は、彼の腕を掴んでは乱暴に引っ張って歩き始めた。
「付いて来なさい!こんな森の奥深くで子供一人なんて危ないじゃない。あんた、この前野盗に襲われて壊滅したっていう村の生き残りってところでしょ?とりあえずうちに連れてってあげるから」
ぶっきらぼうにそう言って、足早に森の奥を歩いていく少女。握られた手は異様に力強く、振り払うこともできずにシリルはされるがままで彼女の後ろをついていく。
放心状態のシリルは橙の髪を揺らして歩く彼女の後ろ姿を見て考えた。
この人は誰だろう。なぜこんなことを僕にするのだろうか。何のために。森の奥で泣いていた名前も知らない僕を助けて何になるというのだろう。
そんなことを考えているうちにいつのまにか学び舎での毎日を思い出していた。
自分に優しくしてくれる皆を前にして、最初は嬉しかった。どう頑張っても頭一つ劣る自分に嫌気がさした時でも皆は大丈夫と声をかけてくれた。でもそれが偽りのものだと気付いた時には激しく絶望した。友達だと思っていた皆はただの他人になり、それどころか気持ちが悪くなるほどに嫌いになった。
ならこの少女は何なのだろう。この少女が見せる優しさは一体何なのだろうか。
頭の中でぐるぐると巡る思考を遮るようにして彼女は「あ」と思い出したかのようにぼやいては、くるりと振り返って満面の笑みを浮かべていった。
「言い忘れてたけど、私はミリアーナ。ミリアって呼んでね」
瞬間、シリルの足が止まる。いきなり止まる彼のせいでバランスを崩し、ぎこちなく尻餅をつくミリアーナ。どこまで人をコケにすればいいのかとシリルに向かって苛立ちをぶつけようとしたが、彼の顔を見てその思考は消え去ってしまった。
「…あんた、また泣いてんの?」
シリルはミリアーナを見て泣いていた。
ミリアーナ。その名は彼の理想の未来にいた少女の名前と同じだった。
「愛を囁く」。彼の最も好きな物語である、あの本に登場する少女の名だ。
ミリアーナは深い森の奥を彷徨っていた主人公を見つけ出し、助けてくれた。
ミリアーナは深い森の奥で泣いていたシリルを見つけ出し、手を伸ばしてくれた。
同じだ。
その出会いは物語と同じだった。
「あんた、泣くのが趣味なの?そんなに泣いてると悲しいばかりでしょ」
砂を払い立ち上がりながら、ミリアーナはシリルの頬を両手で無理やり押さえて言った。
「笑いなさい。どれだけ悲しくても死ぬほど辛くても笑うのよ。うちの家訓なの。笑っていれば悲しみも辛さも裸足で逃げてくってもんよ」
そう言って太陽のように明るく笑う彼女を見て呆気にとられるシリルだったが、彼女の言葉を反芻してぎこちなくも涙で腫れた目で精一杯に笑ってみせた。
「あはは!変な顔!涙でぐちゃぐちゃじゃないのよ。さ、早く帰ってお風呂にでも入っちゃいなさいよ」
そう言ってミリアーナは手を差し出した。シリルは差し出された手を迷うことなく掴んで二人並んで走り出した。
□■□■□■□
この世界でも三本の指に入るほど栄えた国、ギルバート王国直下にある水の都クリミナ。西の山脈から流れる綺麗な川が枝分かれする場所にあるその街は今日も活気に満ち溢れている。
そんな街の端に立ち並ぶ家々の中の一つ。ミリアーナの住む小さな家の中でシリルは彼女の両親と向かい合っては肩をすくめて座っていた。
「いつもいつも森の中で動物を拾って来ては飼いたい飼いたいと喚いていたお前だが、遂に人間を連れてくるとはな…」
「やーねあなた違うわよ。彼氏よ彼氏。ほらちゃんとしてよ。未来のお婿さんの前なんだからきちんとしないとダメじゃないの」
「違っ!ママ違うってば!こいつはそんなんじゃなくて!」
「あらあら、そんなに顔を赤くしちゃってまぁ。お隣さんから聞いたわよ。二人手を繋いで来たんですってね。あんた、年頃の割に男勝りでそういう話全然聞かないからママ心配してたけど余計なお世話だったみたいね」
「だーかーらー!」
耳まで赤くなって母親に食ってかかるミリアーナを尻目に、彼女の父親は渋い顔でシリルに問いかける。
「で、君は本当にうちの娘の彼氏なのかね?」
先ほどとは打って変わってあからさまに高圧的な態度に変わった父親を相手に、もう消えてしまいたいと縮こまるシリルだったが、ミリアーナが机を叩いて事情を説明することによってその場は何とかすることができた。
「あらまあ、顔も幼くて可愛らしいのに残念ね。ミリアが付き合わないならママが貰っちゃおうかしら」
「母さん、冗談はもういい。それより君も大変だっただろう。君の住む村はこの街とも深い交流があった。助けてやれなくて申し訳ない」
そう言ってミリアーナの父親は深々と頭を下げる。
ミリアーナの父親ルグロは、シリルの父親と似たような性格だった。厳格でありながらも優しく、一家の柱として堂々とした立ち振る舞いだった。
それとは対照的に母親のミルスは明朗快活で、ルグロの倍以上喋る元気な人だった。
「ミリアと同じくらいの歳でしょうにね。辛かったわね」
そう言ってシリルの頭を撫でるミルス。しかしシリルは申し訳ない気持ちと共に、その手を優しく振り払った。
それも当然のことだ。彼女達は一つ勘違いをしている。
村が壊滅したのは野盗に襲われたからなんかじゃない。僕はたまたま助かった生き残りなんかじゃない。
僕があなた達の思う野盗だ。僕が、僕自身が村を…。
「見かけによらず強いのね」
振り払われ驚いたミルスだったが、それでもと彼女はシリルの頭を優しく撫でた。
そのぬくもりは自責の念に押しつぶされそうだったシリルの心を解きほぐした。
だが、それでも自分の犯した罪が消えるわけではない。知らなかったでは到底済まされないその罪とは、一生向き合っていかなくてはならないのだ。
「あ、そういえばあんた名前はなんていうの?」
不意に投げかけられた疑問に、はっと我に帰るシリル。思わず口を開こうとするが慌てて口元を押さえて黙り込む。
彼の異様な行動に不思議そうな顔を浮かべる一同を見てはさらに慌てるシリル。まずいと目を泳がせた先、机の端に置かれた紙とペンを仕方なく拝借すると、急いで文字を書いては誤魔化すようにして顔の前に掲げる。
「[僕はシリルといいます。僕は声が出せません]って、あんた喋れないの!?」
目を見開いて驚くミリアーナ。これには彼女の両親も面食らったようで、シリルを見つめたまま固まっていた。
驚き固まる彼女達を前に、紙で顔を隠しているその奥のシリルの表情は不安一色であった。
それもそのはず、彼は覚えている。同じ反応をされた学び舎での入学の時と、その後の顛末を。
外面は優しく接しつつも、その内は邪険にされ腫れ物のように扱われる毎日。
シリルは今回もそうなるのではないかと怯えていたのだ。
幸いにも紙に隠れて皆の表情は分からない。知りたくないといえば嘘になるが、それでも辛く苦しいあの日々を思い出すとその反応を見たくはなかった。
そんな彼の思いなど露知らず、ルグロは真剣な顔つきで小さく呟く。
「シリル」
びくりと肩を震わせて、もう逃げることはできないと仕方なく紙を下ろす。しかし無駄なあがきとばかりに顔を下に向けテーブルと向かい合う彼に「こっちを見なさい」とルグロがたしなめ、シリルは恐る恐る顔を上げる。
シリルの目線の先、そこには優しげな笑顔があった。
「笑いなさい、シリル」
ルグロも、その隣に座るミルスも、笑っていた。
「その顔を見れば君がどんな思いで打ち明けてくれたのか分かる。辛かったんだろう?声が出せないという周りとは明らかに違う欠点に怯えて苦しい思いをしてきたんだろう」
まるで心を読まれているかのようだった。それほどまでにルグロの言っていることは正しかった。そしてそれに驚くよりも先にミルスは小さく笑ってシリルに告げる。
「シリル、あなた自分ただ一人が劣っていると思っているでしょう?」
この家族は人の心が読めるのか。シリルがずっと胸に秘めていた思いをこの二人は難なく言い当ててみせた。驚き目を見開くシリルを前に二人は優しい声色で続ける。
「それは間違った考えだ。誰しも何かしらの欠点がある。私だって料理ができるわけじゃないし、妻だって力が強いわけじゃないんだ。声が出せないことはそんな小さな欠点とは格が違うなんて思っているかも知れんがそうじゃない。無いものは無い。持っていないものを手に入れようとするのは大変なことだ。なら、誰かに補って貰えばいい。理解して貰えばいい。私は料理ができない。それを妻は理解して補ってくれるし、妻の力が弱いことを私は知っているから力仕事は私がやっている。そんなものなんだよ」
「それに声が出せないのが大きな欠点で苦しい思いをしてるならおかしな話だわ。だってうちの娘なんか女の子なのに女の子らしさをどこかに捨ててきちゃってるもの。こんな大きな欠点、本当ならミリアは今頃ベットに篭って出てこられないはずなんだもの」
「あらやだママそれは困ったわね。それなら誰かに補ってもらわないと。…そう!ママから女の子らしさ根こそぎ奪ってやるわよ!」
そう言ってミルスに掴みかかるミリアーナ。真面目な話をしているにも関わらず、ふざけてじゃれつく二人を見て苦笑いを浮かべるルグロ。
誰しも何かしらの欠点を持っている。目の前のこの人達もそうだと言う。
しかし皆一様に笑っていた。
そんなことなど気にするものかと心の底から笑っているようだった。
「なんだ、あんたもちゃんと笑えるんじゃないの」
目の前の暖かな家族の笑顔に感化されたかどうかは分からないが、シリルは彼女達に負けず劣らずの満面の笑みを浮かべてその光景を眺めていた。