03:黒の恋人
眼前に広がったのは吸い込まれそうなほど深い赤色だった。
それは弾けるように辺りへ飛び散ると同時に、シリルの身体を濡らした。
ぬるりと頬を垂れるそれを拭い取り目を向ける。それを認識すると同時に生々しい鉄の匂いが鼻腔を貫いた。
「キャハ、キャハハハハハハハ!」
母親は、右手に握った包丁で自らの左手首を乱暴に切りつけていた。そして、そこから溢れる血飛沫をうっとりした表情で見つめては狂気にも似た笑い声をあげて立ち尽くしていた。
突然の出来事に思考が追いつかないシリルは、そんな彼女の赤く染まったエプロンの端を握って放心状態のまま立っていた。
『母さん?母さん…、母さ…ぐっ!?』
シリルの肩を掴んでは押しのけ、二人の間に割って入るのは彼の父親。血走った目で母親の首を両手で締め上げては、まな板の上に押し付けて高らかに笑い声を上げた。首を締め上げられる母親はというと、半分白目を剥いたまま父親の胸元に何度も何度も包丁を突き立てては笑い続けていた。父親は胸元から溢れ出る大量の血を気にすることなく首を握った腕に力を入れていく。
「ハハハハハハハハハハ!!」
「キャハ、キャハ…ハハ、ハハハ」
シリルは押しのけられた痛みも忘れて、目の前の悍ましい光景に目を奪われていた。
飛び散る血飛沫と木霊する狂気の笑い声。気が動転したかのように異質な行動を取っていた二人はやがてその動きを緩め、最後には抱き合うようにして床に倒れては動かなくなった。
訪れる静寂。我に返ったシリルは弾けるようにして家の外へと走り出した。
『父さんが!母さんが!血がいっぱい出て、助けないと…。誰か呼んでこないと!』
走り抜けるシリルの視界の端に映ったのはアクスとベルの二人だった。誰でも良いと、藁にも縋る思いでシリルはアクスに掴みかかっては声を荒らげる。
『アクス!助けてくれ!母さん達が血をいっぱい流して、倒れて。誰でもいいから人を呼んできてくれ!』
鬼気迫る顔でそう言う彼に不思議そうな表情を浮かべる二人だが、ふと思い出したかのように目を見開いたかと思えばシリルを突き飛ばして不気味な笑みを浮かべた。
『アクス!僕は冗談を言ってるんじゃない!誰か早く人…を…』
ボグッ
身の毛もよだつような何かが潰れる音と共に、ベルが力なく地面に倒れる姿がシリルの目に映る。かと思えば、倒れたベルに馬乗りになったアクスが彼の顔を力一杯に殴りつける。
『ひっ…』
見てはいけないものを見たかのように小さく悲鳴をあげては逃げ去るようにして再び走り出すシリル。
声を上げた。
皆に聞こえるように叫んだ。
『両親を助けてくれ』『怪我をしているんだ』『誰でもいいから助けてくれ』と。
走り抜けた家々からは必死に走る彼を嘲笑うような笑い声が響き渡り、あちこちで真っ赤な血が噴き上がっていった。
『何が起きてるんだよ…誰か、父さんと母さんを…。そ、そうだ!ラブリスさんなら…!』
あの人ならどうにかしてくれる。きっと助けてくれると希望を抱き、シリルは森へ向けて走り出した。
木々の隙間を潜り抜け、破裂しそうな肺の痛みに耐えながらも足を止めずに走り続ける。背中に突き刺さる笑い声も徐々に聞こえなくなり、風を切る音だけが彼の耳を通り抜けていく。
もうすぐ、もうすぐ着くはずだ。
森を抜け開けた場所に白い家が建っているはずだ。道は分からないが、必ずたどり着けると信じて疑わないシリルはひたすら走り続ける。
そんな彼の願いに応えるかのようにシリルはあの場所へと飛び出した。
しかし、
『家が…ない……』
ぽっかりと空いた穴のような場所。その中央にあるはずの白い家は嘘のように消えており、ただただ何もない場所に変わっていた。
最後の希望も遂には絶たれ、絶望するかのように膝から崩れ落ちるシリル。涙を浮かべもうどうしようもないと諦めかけたその時、彼の後ろから声が聞こえた。
「やぁ、シリル。こんなすぐに会えるなんて嬉しいよ」
振り返るとそこにはラブリスが立っていた。
彼はそう言うとシリルの頭をポンと叩いてはゆっくりとしゃがみ込む。
『ラブリスさん!聞いてください、母さんと父さんが倒れて…血が……』
「あぁ、知ってるよ」
『僕の家まで来てください!ラブリスさんなら治せますよね?早く行きましょう!』
「うーん、それはできないかな。それにそもそも」
彼のその言葉にシリルは耳を疑った。
ラブリスは、手を掴んで引っ張ろうとするシリルに不思議そうな表情を浮かべて言う。
「君の両親は君が殺しただろう?」
脳味噌を直接殴り飛ばされたような感覚だった。
割れるような頭痛と吐き気に倒れ込み、ラブリスの放った言葉がぐるぐると頭の中を巡る。
「く…くくく、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!その顔!その表情!いいね!イイ!」
力なく体を起こし息を荒らげるシリルを見下ろしながらラブリスは声を上げて笑う。その顔には今まで見てきた優しげな笑みなどなく、薄汚く口角を釣り上げては下卑た笑い声を上げていた。
『何を言って…』
「いい加減現実を見たまえよシリル・チップチェイス。君が見た光景、君が聞いた狂気。そして君が発するその声をよーく聞いてごらんよ」
醜い笑みを浮かべたラブリスは、シリルの耳元でそう呟いては再び高らかに笑う。
シリルは声を出そうと口を開いたが、それ以上先に進むと戻れなくなるような感覚に襲われ、口を押さえて黙り込む。
自分は何か重大な思い違いをしているのではないかという疑念が胸の内に湧き上がる。
「どうしたんだい?喋ってごらんよ。今まで声を出したくてたまらなかったんだろう?知っているとも、よく知っている。せっかく声を与えてあげたのに使ってくれないと困るな。ま、というかそもそも君から声を奪ったのは僕なんだけどね」
ラブリスの口から出たのは思いもしない言葉だった。
目を見開いては嘘だと横に首を振るシリルを前に、ラブリスは慈悲などないとばかりに続けていく。
「まずは一つ謝ろう。僕の名前はラブリス・アーカードじゃない。僕の本当の名前は【恋人】。それも黒神とされる逆位置のね。君も聞いたことくらいあるだろう?この世界に存在する二十二対の神の中の一人がこの僕ってわけさ」
理解を超えた話を立て続けに話す黒の恋人に、シリルはついていくこともできずただ呆然と彼の話を聞いていた。
「君を僕の"暇潰し"に選んだのは、本当に偶々の気まぐれなんだ。恋人たる僕は愛に生きる。世界によってそう定められている。確かに僕はこの世界の全てを愛しているよ。そんな中、ある日ふと思ったんだ。愛されないという感覚は果たしてどんなものかってね。そこでちょっとした実験を行った。作為的に誰からの愛も受けなかった人間がどういう行動に出るのか、そしてその人間に対して周りはどういう行動に出るのか。映えある僕の暇潰しの相手として選んだのが君、シリル・チップチェイスというわけだ」
恋人?実験?愛?僕が選ばれた?
理解できないまま端々の単語だけ咀嚼するシリル。しかし、現状まともな思考ができるはずもなく、次々と湧き出てくる様々な感情も相まって頭の中はぐちゃぐちゃに混乱する。
「初めての実験だったからとりあえず手始めに君の声を奪ってみた。会話もできず何を考えているのかもわからない人間を作ってみた。結果は良好、他者を見下し排斥しようとする有象無象は見事だった。そして僕の思惑通り君は世界に愛されなかった。初めての作品だというにも関わらず君は僕の最高傑作となった」
黒の恋人はそう言って、座り込んだシリルの髪を愛おしそうに、大事そうに優しく撫でる。まとわりつく彼の手をシリルは力任せに振り払う。絡まった思考もまとまり始め、目の前のこの男が諸悪の根源だということを認識しては目に涙を浮かべて睨みつける。
「あぁ、そんな顔をしないでおくれよ。例え世界に嫌われようとも僕は君を愛しているんだよ。そう、君は愛されている。ただの実験体のはずだった君を、僕は何よりも愛してしまった。これじゃ本末転倒だ。だからこの実験はもうおしまい。これからの君には別のことを任せることにするよ。その内僕の愛する、僕を愛する信徒達が君を迎えにくるはずだ。シリル・チップチェイス。君には神の最愛の眷属である"死徒"になってもらうよ」
手前勝手に話を進める黒の恋人は、掴みかかろうとするシリルを軽々と躱して最後に言った。
「君は世界に嫌われている。でもまだ足りない。もう実験がどうだとかそんなのはどうでもいい。まぁ言って仕舞えば、愛を知らない人間なんてこの世界にごまんといる。でも全部全部どうだっていい。君は特別なんだ。君は僕だけが愛していたい。独占したい。だから君にその声を与えた。これからも君は他の人間とは違って、絶対に愛されてはならない。嫌われ、避けられ、疎まれ、蔑まれ、熟しに熟した時また会おう。その時には君を本当の意味で壊してあげるよ」
黒の恋人は霧のようにして跡形もなく消えた。
残されたシリルは脱力したままゆっくりと立ち上がって歩き始めた。
何も考えない。何も考えられない。自分の来た道も自分が行く道も、何も思い出せないし何も見通せない。
引きずるようにしてシリルは村へと戻った。
とうに日は落ち、辺りは薄暗く、そして不気味なまでに静かだった。
虫のさざめきも、小鳥のさえずりも、村人達の半狂乱な笑い声も聞こえない。ピチャリ、ピチャリと赤黒く変色を始めている血溜まりを意にも返さずシリルは真っ直ぐ歩く。壁にぬりたくられた血の手形も、無残に散らばった内臓も、自分をいじめていた彼らの目玉が抉られた頭部にも何の感情もなかった。
村の端の茶色い家、チップチェイスと書かれた家の扉を開け、中へ入る。薄暗い明りは部屋の中をぼんやりと照らし、暖かだったそこには倒れて動かなくなった冷たい二つの肉塊がそこにあるだけだった。
認識し、理解し、納得したところで、シリルは腹の底から湧き出る憎悪を小さく、そして力強く吐き出した。
『wyjhk<kp"td#5jaa/p^6キk4』
もし仮に声というものを音の羅列とするならばそれは声と呼べるだろう。
彼の口から出た音はこの世界のどこにも属さない言語で、ドス黒く、這いずり回るような汚らしいものだった。
そしてその音はラブリス、いや、黒の恋人の発していたものと全く同じものだった。
黒の恋人の体現する意味の一つである『誘惑』。
その声は聞いた相手を惑わせ、狂わせる力を持っている。
そう、シリルは最初から言葉なんて発していなかった。
言葉を喋っていると勝手に思い込み、黒の恋人の声を発しているだけ。彼は声が出せた喜びのあまりそれが狂気の音だと気付くことができなかった。
それに気付くことができた時にはもう全てが取り返しのつかないまでに終わっていた。
(これさえなければ…!!)
痛みに顔を歪めつつも、構うものかとシリルは自分の首を引っ掻き回した。黒の恋人に刻まれた呪いの刻印を、消えろと願うように削ろうとする。血が滲み、爪の間に皮がねじれこむ。それでも爪を立てては消えろ消えろと強く念じる。
意識の遠くなりそうな痛みの中で、こんなことをしてもどうせ無駄だということをわかった上で、彼はひたすらに喉を掻き毟る。
そんな彼の後ろから不意に声が聞こえた。
「ダメですよ、そんなにしては。もっと自分を愛してあげてください」
この部屋、ひいて言えばこの村にはもう誰もいない。にも関わらず、ふわりと花のような香りに包まれたかと思えば後ろからするりと白い手が伸びてきてシリルを優しく抱きとめた。
痛みも悲しみも丸ごと包まれるようなその柔らかな腕に抱かれて、シリルは眠るようにして意識を失った。