02:プレゼント
「どうぞ、座って」
親切に椅子を引いてくれる青年の言うままにシリルは椅子へと腰掛ける。
「紅茶を淹れるから少し待っててね」
彼はそう言うと小袋をテーブルに置いてキッチンへと向かった。
見渡したところ、家の中もいたってシンプルだった。
外壁と同じ真っ白な空間の中に木で作られたテーブルと二つの椅子。その他は必要最低限の収納と窓際に花が一輪置かれているだけだった。
「見てて面白いものでもないだろう?」
そう言ってはにかむ青年はお洒落なティーカップをシリルの前に置いては香り高い透き通った紅茶をカップへと注ぐ。
「知り合いからの貰い物でね。一人じゃ飲みきれないから助かるよ」
そう言って青年はシリルの対面の椅子へと座り、どうぞと紅茶をご馳走する。シリルはぺこりと頭を下げてカップに口をつけた。独特な匂いの紅茶は包み込むような優しい甘さで今まで飲んだことない味だった。
「どうかな。口に合うと嬉しいんだけどね」
彼の言葉に口を開こうとするシリルだが、思い出したように一瞬戸惑いながらもぎこちなく笑って返した。
それを見かねた青年は申し訳なさそうに笑って言った。
「あぁ、ごめんよ。君は声が出せないようだったね」
青年はシリルの声のことにはすぐに気付いたようで、配慮が足りずに申し訳ないと頭を下げた。これにはシリルも面食らってしまい、慌ててジェスチャーでそんなことないと伝えようとするも青年は吹き出したように笑った。
「ふふ、どうやら君はとても優しいみたいだね。でも君の気持ちは伝わったよ」
青年はラブリスと名乗った。
【ラブリス・アーカード】。シリルの最も愛する「愛を囁く」の著者その人である。
誰よりも見慣れた名前で、誰よりも会ってみたかった人を前にして喜びが抑えきれないシリル。
この時ばかりは自分が喋れないことを呪った。
自分が本当に本当に大好きな本を書いた人が目の前にいるのだ。言い切れないほどの感想と、溢れんばかりの感謝を伝えたかったにも関わらず、彼の口からはありがとうのたった五文字すら出てくることはない。
そんな悲しみに苛まれるシリルを他所にラブリスはあっけらかんとした様子で口を開いた。
「へぇ、君は僕の本のファンなのか。それは嬉しいな。こんな辺境じゃぁ本を書いててもそれがどれだけの人に読まれてどんなことを思ってくれているのか分からなくてね」
「…?」
驚きよりも先に疑問が来た。
喋れないシリルは今、心の中で何回もの感謝を唱えてはそれをどうにかして伝えようと身振り手振りのジェスチャーをしただけにも関わらず、ラブリスはまるで会話しているかのように答えたのだった。
頭にクエスチョンマークを浮かべるシリルを前にラブリスは自分に人差し指を向ける。
「実は僕、魔法使いなんだ」
ラブリスはそう言うと自分に向けた人差し指でそのままカップの淵をなぞった。するとたちまちカップは宙へと浮き、中の紅茶がぐにゃりと飛び上がってはハートの形を作り上げた。
「君の心を僕は読める。君の声を僕は聞いてあげられるよ」
ラブリスは笑みを深めながら紅茶を元の位置へと戻した。
眼前で繰り広げられた魔法に呆気にとられるも、彼のその言葉を聞いたシリルの目からは一筋の涙が頬を伝う。その涙を皮切りに溢れるように大粒の涙がこぼれ落ちていく。
嬉しかった。自分の思いが初めて人に届いた感覚は今まで味わってきたどんなことよりも嬉しく満たされていくようだった。
どれだけ大きく口を開こうとシリルの泣く声は誰にも聞こえることはない。それはラブリスだってそうだ。
しかし彼は、心の声を聞くことができる。
シリルの泣き叫ぶ声に、ラブリスは何も言わずに落ち着くまで彼の頭を撫で続けた。
(…ごめんなさい。もう大丈夫です)
「本当かい?僕はいつまでだって君の声を聞くよ?」
(本当に大丈夫です。あまり長居しちゃうとラブリスさんに迷惑がかかります。ぼくはそろそろこれで)
ひとしきり泣いて落ち着いたシリルは彼の優しさに甘えすぎてはいけないと椅子から立ち上がる。「そんなことないけどね」とどこか寂しそうに笑みを浮かべるラブリスだが、これ以上遅くなると両親が心配するからと伝えた。
今まで生きてきた中で最も幸せな時間を手放すのは惜しいと少し悲しい気持ちになるが、また来れば良いと思いながらも扉を開けようとするシリルに向かってラブリスは待ってくれと声をかけた。
「確かに君の声を僕は聞くことができる。でもそれができるのは僕だけだ。申し訳ないけど君の過去を見せてもらったよ。ただの一つ声が出せないだけで君がそこまで貶められるのは間違っていると僕は思うんだ」
(…)
「そこでだ。お話ししてくれたお礼にと言ってはなんだけど、僕は君に声をプレゼントしたい」
(…え?)
彼が一体何を言っているのか、シリルはすぐに理解することができなかった。聞き違えじゃなければ声をプレゼントと言ったようだが、真っ白になった頭ではその言葉の意味を理解することはできなかった。
こっちにおいでと誘われ、言われるがまま彼の前へ立つシリル。顎を上に向けられ淡い光が灯った指先で、彼の喉元へと桃色で歪なハートマークのような刻印を刻み込むラブリス。むず痒いような感覚の後、はっきりしてきたシリルの意識が捉えたのは嬉しそうに笑うラブリスの顔だった。
「さぁ、口を開けてごらん」
波打つ心臓の脈動、手の平にはじわりと汗が滲む。彼の言葉を鵜呑みにするわけではないが彼が嘘をつくような人ではないということは分かっていた。
大きく息を吸い込み、吸い込まれた空気は喉を揺らして吐き出された。
『 』
その声は自分が思っていたものよりほんの少し低い音だった。何度も心の中で繰り返した、五文字の感謝の言葉。ありがとうのその言葉にラブリスは笑顔で答える。
「どういたしまして。本当はお礼を言いたいのはこっちなんだけどね。時間を持て余した僕の話し相手になってくれてありがとう。もう少し話していたいってのが本音だけど、ふふ、君もやりたいことがあるんだろう?早く行ってあげるといい。僕はこの日を忘れないよ。シリル・チップチェイス君」
彼の言葉を皮切りにシリルは家を飛び出した。
薄暗い森の中に声が響く。
誰の声でもない、自分の声がだ。
嬉しいなんて言葉じゃ足りないくらいの感情と共にシリルは全力で森を走り抜ける。
(あぁ、あぁ!夢みたいだ!僕の声だ。間違いなく僕の声。母さん、父さん。待っててね、言いたいことがあるんだ)
倒れた大木の横を駆け抜け、道行く人の間を縫っては家へと走る。視界の端でアクスとベルが何か喚いているような姿が見えた気がしたが、今はそんなことは心底どうでもよかった。
通りを走り抜け、村の端の茶色い家。両親と暮らす我が家が眼前に迫ると、シリルは玄関の前で立ち止まった。
目を閉じては思い出す。
声が出せない僕の言いたいことを分かろうとしてくれた母さん。いつもいつも励ましてくれて、どれだけ支えになってくれたか分からない。周りからどれだけ避難されようとも必死になって僕を守ってくれて辛い思いをさせてしまった。
声が出せない僕のことをどうにかしようと色んなところを走り回ってくれた父さん。寡黙だけど優しくて友達のいない僕の遊び相手をしてくれた。毎日のようにお前はいつか喋れるようになると言ってくれていた。
二人がいたから今僕はこうしてここにいる。
でも僕がいたから二人は苦しい思いをしてきたはずだ。でもそれも今日で終わり。
ありがとう、ごめんなさい、大丈夫、ありがとう、ありがとう!!
伝えたいことは沢山あるが、今言うべき言葉はまずこれだなとシリルは二人の笑い声のする家の扉を開いては大きく息を吸い込んだ。
『母さん!父さん!ただいま!!』
家の中、母さんはキッチンで料理をしていて、父さんはソファにもたれて本を読んでいた。声につられ、二人共同じタイミングでシリルの方を向くや否や驚いたように口を開けてピタリと止まってしまった。
どうやら驚きのあまり声も出ないのだろうとシリルはにやけ面で家の中へと入った。
『母さんも父さんも聞こえなかった?ただいまだよ?ただいまに返す言葉、忘れちゃった?』
よほどのことだという自覚はあったがそこまでかと二人は固まったままピクリとも動かない。
『あれ、もしもーし聞こえてますかー』
片手に野菜、もう片方に包丁を持ったまま固まる母親の前で手を振ってみるも全く反応がない。
流石におかしいと思ったシリルが彼女の身につけた緑のエプロンを引っ張った瞬間、劈くような悲鳴が家の中に響き渡った。
「キャァァァァァァァァァァァァァ!!」
思わず目を伏せ耳を塞ぐシリルだったが、次の瞬間それすらも忘れるような光景が目の前に広がった。