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第一話 関係


 季節は夏。

 浅川 健一(あさかわ けんいち)は張り込み中の蒸せる車内で湿ったワイシャツをパタパタと引っ張り、僅かな空気を送りながらぼんやりとアパートを眺めている。


 ホシがいつ動くのか予想がつかない為油断はできないが、こうも暑くては気も抜けるというものだ。メガネにも汗がたまって気持ちが悪いと感じながらハンドタオルで軽く拭き取る。炎天下の中ですっかりぬるくなってしまった緑茶を飲み干し、買い出しに行った後輩を待つ。どうにも遅いと感じるがまだ5分もたっていなかった。


 今年で34歳になる健一は、若い頃にある事件がきっかけで出世コースも外れ、もはや仕事にそこまでの情熱も無く何となく日々を過ごしている。不満も無ければ楽しみも無い生活に慣れてから、何も感じなくなったのはいつからなのだろうか。…と健一は自分のつまらなさに笑うしかない。


「遅くなりました。」


 凛とした涼しい声を聞いて助手席側に顔を向ける。黒髪が艶やかな新米刑事の牧里紅雲が声と同じ涼しい顔をしたまま車に乗り込む所だった。


 紅雲が持ち帰ってきたビニール袋からはポタポタと水滴が落ち、健一の手にも水が付着する。それすらも心地よいと感じてしまう程に健一は車内の温度に慣れていた。


「いや、大丈夫。まだ10分もたってないから。」

「飲み物…緑茶が無かったので、ミネラルウォーターと麦茶買ってきたんですけど…どっちが良いですか?」

「麦茶だな。」

「どうぞ。あと、サンドイッチです。照り焼き玉子。」

「え!大好きなんだよこれ!やったね、ありがとう。」


 飲み物に脇目も振らずサンドイッチを食べ始める健一。この暑さでも冷たい飲み物より優先になってしまうほどに照り焼き玉子は健一の大好物であった。むしろ、これくらいしか喜ぶ事も無いのだが。


 紅雲は新米刑事ではあるが、仕事も出来るしかなり気が利く、そして何より美人だ。もちろんのこと課の者達からもかなり可愛がられているのだが、彼女はとにかく無表情で何を考えているのかわからない為、愛でる者はいるが深入りする者はいない。本人は周りから目付きが怖いから距離を置かれていると思っている様で、それが悩みらしい。


「ホシに何か動きは…?」

「無いなぁ。……しっかし、暑い。」

「そうですか…。」


 紅雲は学生時代誘拐された事があり、その時から警察官を目指していた。全てはあの日自分を助け出した『恩人』を見つけ出す為だ。思春期に起こった事件だから普通は顔も覚えられたのかもしれないが、ショックから紅雲はあの日の事をわずかにしか思い出すことが出来ないでいた。


 そんな紅雲は現在恋をしている。相手は10歳以上歳上でしかも結婚している。だけど他の人と違って、良い意味でも悪い意味でも紅雲を女性扱いせず、誰に対しても人当たりが良い。そして、時よりぼんやりと物思いに耽っている姿が心に残ったのだ。


 紅雲の視線の先には、健一の薬指でわずかに光を反射する指輪がある。どんなに想っても覆らない事実に、自然とため息が出てしまう。


「はぁ…。」


 また健一は物思いに耽っていたが、紅雲のため息にビクッと反応してしまう。何せ無表情だしもしかしたら気分を害してしまったのではないか?と不安に駆られてしまう。いくら色恋にあまり興味の無い既婚者の健一といっても、美人の後輩に嫌われるのは嫌だった。


「ど、どうかしたのか?」

「え…?…いえ、なんでもありません。」


 紅雲は相変わらずの無表情でそっぽを向いてしまった。なんだか気まずくなって健一も紅雲とは反対の窓側を向く。相変わらずホシに動きはない様だ。


 しばらく無言が続いている中で突然、コン、コン、コン、と車のガラスを軽く叩いている音がして驚く。


 二人が同時に顔を向けると、そこには少し背が高く、切れ長の目が印象的な女性が立っていた。顔立ちはクールな感じに見えるが、健一と目が合うと途端にニカッと笑みを浮かべる。


「汗だくじゃん。」

「いつホシが動くかわからないからな。燃料は節約しなきゃなんだよ。」

「まぁ、日差しガードできるだけラッキーなんじゃない?」

「そうだな。」

「ははは…相変わらず頑張り屋さんじゃん、健一は。」


 女性は助手席に座っている紅雲に気付くと目を見開き、嬉しそうにまた笑った。


「めっちゃ美人じゃーん!噂の後輩ちゃん?」

「はしゃぐな、声デカい。」

「どうも…。」

「私、浅川 楓(あさかわ かえで)です。いつも健一がお世話になってます!」

「牧里紅雲…です。」


 紅雲は少し複雑な心境になりながらも、軽く会釈した。名前を言うのが精一杯で、ほんの数分しか楓の事を見てないが紅雲にとっては心が折れそうなくらいの時間だった。たった少しの間でも、楓はコロコロと表情を変える。笑ったり驚いたり喜んだり。


 とにかく表情豊かな可愛らしい人だという印象だった。


 それは無表情な紅雲にとって羨ましくもあったが、自分が今表情豊かでなくて良かったという気持ちにもなった。もし無表情でなければ、この心情はきっと二人ともに駄々漏れであっただろうから。


 紅雲にあいさつをし終えると、また楓は健一の方を見て話始める。会話に入れない紅雲が緊張する上に、この空間に居辛さを感じているかもしれない。と思った健一は楓を連れて少し距離の離れた所で会話を再開し始めた。


 二人の会話を遠くから見つめる紅雲。楓は笑ったり照れたりとにかく嬉しそうに話をし、健一は楽しそうにそれを聞いて頷いている。その様子は本当に仲睦まじい夫婦であり、自分が間に入る隙など無いように思えた。


 

 


________________






「これからどっか行くの?随分めかし込んで。」

「えへへ…うん!ちょっとね!」

「デートか?」

「うん…!えへへへ…。」


 楓がめかし込んでる上に上機嫌であるのを見て、健一はちょっと嬉しそうにニヤニヤしてみる。健一にとって楓が幸せであることは一番嬉しい事だった。そして、楓をからかうのも大好きだ。


「さては水族館だな~?」

「やっぱバレた?…ずっと楽しみにしてたんだよね~!」

「待ち合わせは?何時?」

「えーと、12時に水族館の大水槽の前。」

「今11時40分だぞ。間に合うのか?」

「うそ!?本当に!?」

「嘘だよ。まだ11時半にもなってない。」

「…もーー心臓に悪いから…!」


 健一にからかわれるのはいつものことであり、毎度引っ掛かる楓は安心したように笑う。


「あ、今日は彼女泊まってくの?」

「うーん、どうだろ?明日は休みって言ってた。」

「じゃあ、泊まって貰いなよ。」

「今日のメインが終わってからだからえーと…あっ!あーーー!」


 楓は時計を確認してから少しだけ動きが止まり、今度は焦った様に鞄の中をまさぐって、イヤホンを健一に渡した。


「サンキュ。どうしたの?慌てて。」

「待ち合わせの前に買うものがあったの忘れてた!今日、誕生日だからプレゼント!」

「あ、そうなの?…なんかイヤホン持ってきてもらって悪いな?」

「うん、そう!!!いえいえ、健一はこれ無いと車で寝れないもんね!」

「わざわざありがとう!」

「良いの良いの!どーんと頼ってよ!妻なんだから!」

「いーから早く行けって!彼女待たせんなよ!!」


 健一に急かされ、ようやく楓は体の方向を変えて小走りで進み始める。健一はその後ろ姿に手を振る。


「俺、今日帰らないから!夕飯ゆっくり食べてね!」

「うん!ありがとう!!!」


 楓も振り返って大きく手を振り、道の奥へと消えていく。


 浅川健一と浅川楓は究極の仮面夫婦であり、大親友だ。

 妻の楓は同姓愛者で現在彼女持ち、健一は結婚5年目にして経験ゼロの童貞であった。




___________________



 薄暗い中でわずかに光る青い照明がまるで深海を思わせる建物の中、お洒落をした女性が一際大きい水槽のガラスに、そっと手を滑らせてぼんやりと水の中をたゆたう魚や海藻を眺めていた。


 彼女はいつもこの水槽の水中や水面上で魚やイルカ等の生物の世話をしている水族館の飼育員だが、今日はデートだ。


 このまま水中を眺めるのも悪くないが心が踊っているのはきっとデートだからだろう。綺麗にセットした髪型もメイクも、薄暗い館内で霞んでしまわない程にきちんと映えていた。


「天音。」

「楓ちゃん…!」

「遅くなってごめんね。」


 待ちわびた恋人の声にとびきりの笑顔で振り返る。元々恋愛に興味の無い彼女であったが、人を好きになるとここまで心が弾むのかと自分自身で不思議さを感じてしまう。

 錦原 天音(にしきはら あまね)は楓と中学生からの付き合いで、つい最近恋人同士になったところであった。


「ううん、大丈夫だよ。」

「ホントごめんね…!」

「待ってたけどね!なんか、楓ちゃんに会いた過ぎて!長く感じちゃっただけ。」

「天音ぇ~~!ホントっ…あんたって子は…可愛いなぁもう!!!」


 楓はずっと一途に天音だけを思い続けていた。天音自身それをよくわかっているし、今までに何度も告白されたが、その度に自分の気持ちが友情なのか愛情なのかわからなくなっていき、悩ましい日々を過ごしていた。


 ある時、楓が結婚したという話を聞いた。

 その瞬間からだろう、恋愛感情であったと自覚したのは。


「今日はどこに行く?」

「えっと…今日は隣の地区にある水族館に行こうかな。」

「わかった、じゃ、皆に行ってきますしよ。」

「うん、行ってくるね。」


 天音が水槽に向かって手を振ると、魚達がなんだか見送ってくれているような気がして少し嬉しくなる。天音にとってこの水槽の魚達は息子娘同然なのだ。



 そして楓もまた、天音にとって魚達が大切なことを理解しているからこそ、慈しむ様な眼差しで水槽の魚達を見ている。天音の大切なものは楓の大切なものだ。



「今日、夜ご飯はうちで食べよう。」

「うん、そのつもり。旦那さんは元気?」

「元気だよー!でも、張り込みの仕事とかで疲れてそうだったかも。」

「張り込みかぁ…大変そうだね。」


 自然に手を繋ぎ、近況報告や世間話をしながら二人は同じペースで歩く。昔はいつも楓が先に進み天音が後を付いていく感じだったのだが、今はまるで違う。二人はいつでも同じペース。楓が合わせているのか天音が合わせているのかはわからない。



 思えば自覚した時は後悔の涙を流し続けていた。何故もっとはやく楓ちゃんの手を握り返さなかったのか?何故もっと早く想いを自覚しなかったのか?と自問自答しては自己嫌悪に陥っていた。


 だけど楓と再会して。真実を伝えられてからは天音はもう迷わなかった。ずっと楓と生きていくと決めた。何があっても楓を幸せにしたいと誓った。それは楓も同じで。寄り添う度に甘く愛を囁いてくれるのだ。


 気恥ずかしくもあるけど、間違いなく今は幸せだ。


 こんな幸せがずっと続けば良いのに。と思うが、それは天音の妥協でしかない。この幸せは楓の夫である健一の協力の元に成り立っているものだ。


(もしも、健一さんに好きな人ができたら……また楓ちゃんは…。)



 また楓は見合いさせられる日々を送るのだろうか。


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