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二、リボンタワーの娘

「こちらのフォームが分娩予約、もう一枚は産後院の仮予約フォームになります」

「ありがとうございます」

事務員が去ったところで、隣の母が嘆息する。

「今日、妊娠が分かったのに、随分色々と手続きさせられるのね」

チェリーブラウンに染めて巻いたばかりの髪の先がお気に入りのパープルピンクのニットワンピースの肩で微かに揺れる。

同世代の一般区の女性と比べると、「俗悪」「若作り」と揶揄される類の出で立ちかもしれない。

しかし、私は飽くまで自然に好きなものを身に着けて楽しんでいる母が好きだし、そうした母を目にするとほっとする。

「ここ、人気高くて予約が埋まりやすいからね」

女性自治区の産院は無痛分娩がデフォルトでこの産院のように産後のケアにも重点を置いている施設が多いので、私のように普段は一般区に住んでいても出産にはそちらを利用する女性も少なくない。

「私たちの頃も少子化で分娩予約は大変だったけど、無痛分娩やってる所なんて近場に無かったし、昔はアフターケアなんて聞いたことも無かった」

というより、一般区の産院は未だに無痛分娩を実施する施設は限られ、また、産後すぐに退院させるアフターケア不十分な施設が多いので人気が無い。

待合室の窓からはちょっと斜めの角度に見えるピンクリボンが打ちつける雨にも負けず煌々と輝いている。

二十年前、六歳の私が母とあのピンクリボンを目指して一目散に走った日にもやっぱりこんな風に氷雨が降っていた。

いや、あの時は氷雨というよりみぞれだった。

母の髪に白く柔らかい氷の一片が落ちては滲んでいくのを隣で見ていたから。

――こんな雨の中にいたら、ママの髪がますます白くなっちゃう。

それが心配で仕方なかった。

あの時の母は確か三十歳になるかならないかだったが、幼い娘の手を引く横顔はやつれ、本来真っ直ぐだった黒髪には所々白いものが目立つ状態だった。

――子供生んだらもう女じゃない、レッカババアが。

元父親は私が見てる前でもよくそう嘲った。

当時は「レッカ」が何を意味するのか知らなかったが、恐らくは「劣化」と言っていたのだろう。

自分より年下(去年の春に死亡通知が来て知ったが、元父は母より五歳も上だった)の妻によくそんな侮辱が出来たと思う。

家事育児一切を母に押し付けて、自分はいい格好をしていたが、それだって母がまめに服を手入れして整髪料なども買い揃えていたからだ。

――これは違う。

一度、元父お気に入りの整髪料が店で売り切れていて代わりに別のを母が買ってきたら、いたく機嫌を損ねて母の顔に叩き付けた。

――店にないならネットで前もって探すなり頭使え、このバカ女。

元父は私には手を上げなかったが、同じ家の中に彼がいるといつも怖かった記憶しかない。

――出ていきたきゃ出てけ。お前みたいな何も出来ないババアは悲惨だって世間の現実が良く分かるから。

いざ出て行くと勘付かれればまたボカスカ殴られて謝らせられるので、着の身着のまま、近くのスーパーに買い物に行く振りをして私を連れ、母はあの家を出た。

ピンクリボンタワーを目指して幼い娘の手を引いて走っていった母の横顔には怒りや恨みよりも、むしろ疲れたやりきれなさが漂っていた。

「記入終わりました」

今は元父でもパートナーの彼でもなく、母の姓を名乗る私。

あの時、母が女性自治区のシェルターに駆け込んで元父を完全に遮断していなければ、子持ちで未経験者の女性でも職を得やすい女性自治区に住まなければ、私が大学まで行けて大手企業に就職出来たとは思えない。

「ありがとうございます」

私より若い受付の事務員は微笑む。

「お会計まで今しばらくお待ちください」


窓の外では打ち付ける雨の向きが変わったらしく、ガラス越しに見えるリボンタワーはまるで脱ぎ捨てた羽衣のようだ。

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