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月に願えば

作者:斯波
「雄馬さん、お茶が入りました」
「……ああ」

 お夏がこの家に嫁いで来てからもう3年もの時が経つ。
 お夏は田舎の農家から陶器を作ることを生業とする伊波家に嫁いできたこともあり、今でも覚えなければいけないことは多い。
 覚えが悪いお夏に姑のお江は何度も何度も小言を交えながら手順を教えてくれる。夫の雄馬は舅の辰馬と同様、無口で考えていることが顔に出づらい人であるが、何かとお夏のことを気にかけてくれていた。

 田舎娘の、何の取り柄もない私を受け入れてくださった伊波家に恩返しが出来ればいいと思いながらお夏は日々忙しなく働いている。

 だがお夏は何事もなく過ぎて行く日々はもう永くは続かないだろうと怯えていた。

 一年ほど前に隣の家に嫁いできたお春のお腹についに子どもができたのだ。
 だが三年も前にこの村へ越してきたお夏のお腹には一向に雄馬との子は出来ないままだ。

 お夏が伊波家へと嫁いできた日、太陽さえも寝静まった時刻になっても雄馬は一度だって彼女を受け入れようとはしなかった。
 衝立の向こう側で日が顔を出すまで待ち続けたお夏の目に入ったのは夫の大きな身体などではなく、衝立と障子が陽の光を浴びながら少しずつ作っていく影だった。

 あくる日も、またあくる日も夫を待つお夏の胸の高鳴りは無駄になっていった。

 それは三年が経った今も同じだ。

 今では期待してしまう自分が恥ずかしい娘のように思えて仕方がなくなり、邪念を払うためにお夏は日が昇っている間中、仕事を求めて歩き回るのだった。
 そうすれば夜は夢を見る間もなく、深い眠りにつけるのだ。

 だが一月に一度、月が完全に満ちた時だけは少しだけ目を閉じる前に月を眺める。
 それは幼い頃、お夏が母に聞かされたかぐや姫のお話を思い出してのことだった。

 月の姫君のように美しい娘だったら雄馬さんは私を愛してくださっただろうか?

 話の中のそれはもう美しいのだという姫君をお夏はその度に羨んだ。

 指先はひび割れて、髪は毎朝櫛を通しているものの、かの姫のように絹のようにはならない。
 お夏の母親似の顔を彼女の父はいたく気に入ってくれていた。だが年に数度、納品のために町へ出ては綺麗な女性を見慣れている夫にはただの田舎娘にしか見えないのだろうと、お夏は自身の顔を覆ってしまいたい衝動に駆られる。
 そう思うと平等な柔らかな光すらも当たっているのが申し訳なくなり、顔まで布団を被ってはいつものように夢も見ずに眠るのだった。

 ある日、今日もいつもと同じように働く気でいたお夏の肩をお江はポンと叩いた。
「あんた、今日は何もしなくていいよ。ゆっくり休んでな」
 それだけ告げて去って行ったお江の背中はお夏の目には妙に遠いものに見えた。
 そして彼女は終わりを察した。

 何もしなくていいと言われた手前、一日という長い時間を持て余したお夏は部屋に戻り、身近なものの整理を始めることにした。

 これは村から持ってきたもの、これはお江に貸していただいたもの、そしてこれは雄馬に贈っていただいたもの。
 棚から一つ一つ出して並べるものは、量こそそう多くはなかったが思い出はたくさん詰まっていた。

 一昨年、雄馬に贈ってもらった紅い蜻蛉玉の光る簪は自分の髪に飾ることがとても勿体なく思え、数度だけ着けてからお夏は木箱の中へと寝かせてしまった。

 これは実家に持って帰っても構わないかしら?
 簪の眠る木箱を胸に抱きながら、お夏の頬には二筋の涙が伝った。

 彼女にはずっとここに居させて欲しいと我儘を言うことなど出来なかった。
 もし自分と雄馬の間に一人でも子が居たのならば置いて欲しいと乞うことができたのだろうと今更ながらにお夏の中に涙と共に後悔が押し寄せるのだった。

「お夏?」
 障子越しに聞こえる雄馬の声に弾かれ、お夏はとっさに袖で涙を拭った。

「はい、何でしょう?」
「今宵は共に月でも見ないか?」
「……ええ」

 今宵はひどく綺麗な満月だった。
 かぐや姫が月に帰ったと言われる日と同じだ。
 月を見るにはまだ早い時刻、お夏は雄馬の好きな熱めのお茶を用意して、先に縁側へと腰を下ろした彼の斜め後ろで腰を下ろした。

 告げられるだろう、別れを待って。

 雄馬は夜空を照らす月を眺めて、月を見ようともせずに木の節目を追うお夏に声をかけた。

「見てみろ、今日はいい月が出ている」
「……ええ、とても綺麗なお月様ですね」
 お夏は空に身を置く月に目を向けることなく、庭の池に落ちる、揺れた月に目を奪われながら雄馬の言葉に賛同する。

 今宵の月はこの家に嫁いできてから一番綺麗な月だと涙で目を濡らしながら。

 お夏に背を向ける雄馬はそれからお夏に何と声をかけることなく、彼女の用意したお茶を啜りながら月を眺めた。

 ***
 雄馬は月の光を浴びながらいつか来るだろう好機を伺っていた。
 彼の懐には今日で19を迎えるという、妻、お夏に渡すための櫛が出番をいつかいつかと待っている。
 それは二月ほど前に、頼まれた品を届けるために町へと出向いた時に主人に唆されて購入したもので、雄馬自身もひどく気に入っているものでもあった。
 お夏が使っている櫛は歯こぼれこそしていないものの、彼女が嫁に来る前から使っているものらしく、相当に年季の入ったものだった。
 だがそれを気に入って使っているのではないかと、思い出の品なのではないかと思うとせっかく彼女のためを思って買った品ですら気軽に贈ることはできないのだ。それは二年ほど前の出来事を思い返してのことだった。

 こんなひと回りも歳の離れた男の元へせっかく嫁に来てくれたというのに贅沢もさせてやれないことを申し訳なく思った雄馬はやはり町へ出向いた際に色の白い彼女によく似合いそうな紅い蜻蛉玉のついた簪を買った。そして土産だと言ってお夏に贈ったのだ。
 初めこそ着けて見せたものだがそれは本当に初めのうちだけで、日が経てば彼女の髪に町で雄馬の目を奪った紅が光ることはなくなった。
 おそらくは気に入らなかったのだろうそれをお夏はきっと贈った雄馬に気を使って数度身につけてくれたに違いないと彼は自分の見る目のなさを悔やんだ。
 何せ彼は昔からとんと女には興味がなく、周りが結婚していくのを、ついには5つ年の離れた弟が父の知り合いの人の娘の元へと婿に行くのさえも見送っていたのだ。
 そしてそれを心配したらしい父がどこからか紹介してもらったらしいお夏が嫁に来る頃には16の盛りの娘のひと回りも歳上の男となってしまっていたのである。

 お夏は年だけは人並みに食った雄馬には勿体無い女であった。
 口下手な彼の話をお夏は嫌な顔せずにいつまでも耳を傾けてくれる。
 まだ年若く、遊びたい盛りだというのに、五人兄弟の長女として産まれたお夏は元来働き者の気質であるようで、朝から晩まで嫌な顔一つせずに働いた。
 それに何と言っても彼女の作る飯は美味かった。
 雄馬と同じく口下手な父が初めて彼女の飯を口にしてすぐ「美味いなぁ」と漏らしてしまうほどに。

 雄馬の母、お江は彼が幼い頃から何に対しても口うるさく、慣れている彼でさえ嫌気が指すことがあったが、お江はそれを嬉しそうに聞き入れた。
 雄馬は何度かそんな母を止めようとしたが、父はそれを何も言わずに、薄っすらと目尻にシワを刻んで二人を見守った。
「あの子がうちに来てくれてから、ずっと楽しそうじゃ」と。
 どうやら父の目から見れば母はようやく念願の娘が出来たようではしゃいでいるようだった。
 そんな母はいつしか再び雄馬の背を叩きながら小言を言うようになった。
「お春ちゃんのお腹に子どもができたみたいなんよ。お夏ちゃんの子はいつできるんかねぇ」と。
 一緒に暮らしている母はいつまでも嫁に手を出さない雄馬を責めているのだ。
 というのもお夏はその気立ての良さから村の男衆の間でも評判がいいのだ。
 母はそのことを耳にしていつかお夏は甲斐性のない雄馬の元を離れて、もっと若い男の元へと行ってしまうのではないかと心配になったのだ。そうでなくともお夏はこの村から遠く離れた産まれで、実家にでも帰られてしまったら……と考えると気が気ではなかった。

 子は鎹とよく言ったもので、真面目なお夏は子さえ生まれてしまえば郷里に帰るなどとは言い出さないだろうというのだ。

 だが雄馬にはまだ幼いお夏を抱くことはできなかった。
 身体の大きな自分の影が被さったら彼女は闇に溶けてどこかへいなくなってしまうのではないかと思ったのだ。
 お夏は満月になると決まって月を眺めた。
 その姿はさしずめ月の姫君といったところだろうか。その姿はひどく朧げで、彼女の手さえ握ってやることはできなかった。

「今宵は共に月を見ないか?」と誘ったのは、贈り物をしたいという魂胆とは別に彼女が隣にいてくれる確証が欲しいという理由もあった。
 ひどく子どもじみた考えでお夏はもちろんのこと、父や母にも言うのは憚られた。
 だがもう長い付き合いとなる母にはそんな雄馬の気持ちはお見通しだったらしく、誕生日の彼女を台所から遠ざけ、せっせとお夏の好物のみたらし団子を拵えていた。

「お月様にお願いすれば孫の顔が見れるのかしらねぇ」というお小言もバッチリ乗せて。

 縁側で待つ雄馬の元にお夏は雄馬好みの熱めの緑茶を用意してきてくれる。
 当たり前のようにそうしてくれるところも彼には心地いいものだった。

「見てみろ、今日はいい月が出ている」
 雄馬は母が言ったように月に願えば子を成すことは出来るだろうかと月を見る。
 柔らかな光は雄馬には少し眩しくてついついその隣にかかる雲ばかり見てしまう。

「……ええ、とても綺麗なお月様ですね」
 後ろに控えるお夏はきっと雄馬には眩し過ぎる月の光を浴びて、一層美しい娘になっていることだろうと思いながらやはり彼の目に映るのは月に寄り添う雲だった。

 やはりお夏は自分には勿体無い女なのだと今日も今日とて雄馬はそう結論づける。
 だが彼の中にはそんな妻を手放そうという気はさらさらない。未だ幼いお夏にすっかり心も胃袋も掴まれてしまっているのだ。

 雄馬はまだ熱いお茶を啜りながら、数年前に結婚した仲睦まじい弟夫婦がついに5人目の子を成したと聞いたことを思い出す。

 いっそのことそのうちの一人を自分たちの子にでもできないものかと考えながら雄馬は今度こそ月を仰ぎ見るのだった。

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