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クトゥルー神話ケータイ小説『プールの扉』

作者: ジンベイ

クトゥルフ神話ケータイ小説 プールの扉


■序

 誰もやらないと聞いたから、やりたくなった。

 

 校舎は明かりが消え、校門も閉じている。

 夜の十時だった。外灯にはりついたセミが時間もわきまえずに鳴いている。


 ――面白そうって顔してるね。


 プールは暗くて底も見えず、昼の授業中なら波打つ水面には、月だけが浮かんでいた。


(入るぞ)


 先輩は、誰もやらない、と言っていた。


 ――だって、無駄じゃないか。門をよじ登って、校舎に忍び込んで、泳いで濡れて


 馬鹿馬鹿しいよ、夜中にプールに飛び込むなんて、と先輩は言ったんだ。


 ――古いよ、昭和の頭さ。いまは誰もやらない。


 僕はプールサイドから助走をつけて走り出す。

 服も着たまま、底なし沼みたいなプールへとダイブした。


 ――話さない方が良かったかな。


 浮遊。

 着水と共に風景は一変した。水中の映像、そして飛沫をあげなから浮き上がると空には月。

 気持ちよかった。ただプールに入っただけなのに、なんとはいえない解放感があった。


 ――キミ、あんまりバカはしないでくれよ。私がするなと言うと、すぐするんだから。


 僕は、先輩が困ったように「バカ」と叱ってくれる瞬間が好きだった。

 その夜も、動機は同じ。先輩がするなと言ったから、した。それだけのことだったと思う。


「月が……」

 

 違ったのは、その結末だけ。

 空に浮かんでいた丸い月。雲もないのに、その時は影が差したように見えた。

 思い浮かんだのは昔見た月食。

 その影は徐々に広がり、やがて輪郭がはっきりしてくる。


「う」


 白いから、雪かと思った。

 赤いから、花かと思った。

 けれどそれは、よくよく見てみれば。


 それは、白い肌をした、赤い血を流した、女性なのだと分かった。




――あの破風の部屋の曇りガラスが他の次元へ通じる戸口であった

            ラヴクラフト&ダーレス『破風の窓』 大瀧啓裕訳――


■本章

・1-1

「怪談は、そりゃあ風物詩であっただろうさ」


 部室にはクーラーがついていない。年代物の扇風機が唸りを上げていた。

 先輩はあまり汗をかかない。扇風機の風が切り揃えた髪を揺らしている様は涼しげである。


「でも、陳腐化しかけていると思うんだ。例えばVHSや和式便器は、もう題材として相当に古いだろう」


 細身の人だった。切れ長の目はきついのに文系の魅力と言うか、おっとりとした雰囲気があった。

 白い、という印象がある。無垢とは違う。清純とも違う。清冽、は近いと思う。

 初めて会った時、その白さに僕は引き寄せられた。


「ほら、見て。過去の校内新聞はコピペでね。一昨年でも和式便器から手が、なんて書いてある」


 見てくれはよい。成績も悪くない。

 あまり人と話すのは見たことがない。物静かで、進んで交流はしないタイプ。

 一見すると普通のようだが、僕は先輩を変人だと思っていた。


「怪談を調べて発表、なんて隔年でやってそうなことを先生は言っていたけれど、陳腐だね」


 先輩が新聞部という今時どこか郷愁さえ覚える部活に入っているのは一つの異常である。

 理由は知らないけれど、僕は先輩がいるから、この旧態依然とした幽霊部員の住処である部活に入った。

 

「怪談といえば、先輩」

「なにかな、後輩」

「プールに降る赤い雪って、知ってますか」

「綺麗は汚い、汚いは綺麗みたいなことだろう?」

「違います」

「そうか? 夏と冬、赤と白、と逆のものを並べることで意味深にする怪談手法だろう?」

「いえ手法のことではなく」


 あの日、降ってくる女性の死体を見た、と僕は思った。

 でも、ぶつかったと思った瞬間に意識が飛び、小一時間の記憶がない。

 気づいた時にはプールにはびしょ濡れの自分がいるだけだった。


「するなと言ったのに」

「そこはいいじゃないですか。僕の経験した部分について語りましょうよ」

「するなと言ったのに」

「謝ります、すいませんでした。今後は気を付けます」


 あれは何だったのか。


「まあ、見間違いだろう」

「にべもないですね」

「私はキミの目を信じていないから」

「ひどすぎません?」

「いや、私は私の目も信じてないよ。だって、この目というやつは、すぐに見間違いをするじゃないか」

「そうですか?」

「マンガを見るたびに思う。線の集合を見て、男、女、近い、遠い、速い、遅い、それを理解するだろう」

「そういう技術ですから」

「それなら、木々の枝や伸びた影、壁のしみがたまたま似た特徴を持ってるだけで、目はお化けと誤認すると思うんだ」

「マンガとは違うでしょう」

「そうかな。錯視というものもある。私は私の目が現実を見ていると思うけど、それが真実かは自信がない」


 僕はそのとき違和感を覚えたけれど、深く問いはしなかった。


「でも、なにを見間違えたのかは気になるね」

「そこは僕も気になるんです。見間違えとは思えないですし」

「どんな見間違いをしたのか、ちょうどよいし調べてみようか」

「見間違いかどうかを調べてみましょう」

「キミ、なかなか譲らないね」


 本当のところ、僕は自分の見たものがなんであったかなど、あまり気にしていなかった。

 あれが死体や怪我人ならば、とうに大騒ぎになっている。そうでないということは、見間違いなのだろう。

 この部活動の夏の活動を例年のコピペにさせたくなかった。

 そうしてしまうと、先輩とは新学期まで会えなくなるから。


「まあ、ちょうどよい。夏休みだしね。部活動に取り組むのもよい」


 そう言ってくれたことが、とても嬉しかった。


・2-1

 蛆は湧くものだ、と先輩は言っていた。

 親から産まれるのではない、卵から孵るのでもない。


「自然発生説というあれだよ。虫とかネズミとか、やつらは無生物から発生するんだね」


 科学の授業を受けているのか怪しいセリフだった。

 

「もちろん現実的ではない。単に、文章上の話さ。蛆は蠅の卵から生まれるのではなく、文語では湧くという」

「なにを言いたいのか」

「うーん、つまりね、文章というのはフィクション。いやさ、言葉というものが幻想を伴うということかな」


 蝉が音を立てて窓ガラスから飛び立つ。

 学校の廊下はリノリウムが溶けだしそうに暑かった。開けてある窓から入るぬるい風が先輩の頬を過ぎる。

 前を行く先輩の足音はなく、風とともに流れてくる運動部の掛け声ばかりが響いていた。

 夏だった。夏休みだった。


「だからさ、言葉の上では、死体が急に現れて消えるなんて、よくあることじゃないかな」

「いえ、僕が見たのは現実です」

「私にした説明は言葉だろう? たとえばキミが瞬間移動のマジックを見て、それを私に話すとどうなる」

「……目の前で人が消えて、別のところに現れた、とか?」

「だろう。プールの話と似たり寄ったりだ。人の言葉を真実とするなら、世界に幻想はありふれている」

「ええと、僕が言いたいのはなんというか」


 水音がした。しかし水泳部は休みなのか、プールに人はいない。

 太陽の強い日差しはゆらめく水面を照らし、てらてらと目を射すような眩い反射を作っていた。


「あれは、キミの知り合いではなかったかな」


 プールを仕切る金網の外に、見覚えのある横顔がある。

 幼馴染だった。付き合いはあるが、このところは疎遠である。


「ただの知り合いです」

「人との繋がりというものは、大事だね」

「どういう意味ですか?」

「私には親しい仲の相手は、いないから」

「僕がいるじゃないですか」

「ははは」

「どういう笑いですか?」


 プールの方を向いていると、幼馴染が顔をあげた。

 目が赤い。まるで泣きはらしたかのように。


「声をかけないのかい?」


 夏の風は強く、気温は高い。

 泣いたとしても、すぐにはれるだろう。

 

・1-2

「暇なの、あんた」


 幼馴染からは、かすかに塩素のにおいがした。


「失礼な、部活動中だ。お前が水泳部で泳ぐのと変わらないだろ」

「一緒にされたくないんだけど」

「で、プールでなんか変なものを見たことはあるか?」

「たとえば?」

「幽霊とか化物とか」


 夏だというのに幼馴染の目は氷点下に達する。


「あんたいつからムーの記者になったの?」

「いや新聞部だけれども」

「あのね、変な噂流さないでよね。あとあたしに話しかけるのもやめなさいよね」

「なんだその自意識過剰。好きで話しかけてんじゃないよ。思春期かお前」


 ため息をつき、幼馴染は歩き出す。


「プールに夜中忍び込むやつがいるらしいってホラーは知ってる」


 自販機の前で止まる幼馴染。


「あと、昼にプールをじっと見てるやつってのもホラーだし」

「いや、私は知りませんよ? そんな話」

「あんたが同年代に敬語使うときは嘘つくときよ」

「そんなことありませんよ」


 指でコイン投入口を幼馴染は示した。


「なにそのジェスチャ」

「ジュースが飲みたい」

「飲みなさいよそんなものは勝手に」

「口止め料」


 おいしそうにスポーツ飲料を流し込む幼馴染を眺める羽目になった。


「あんた、なんで運動部入らなかったの?」

「お前、雑談したいだけなら帰れよ」

「失礼ね」


 中学生までは、仲が良かった気がする。

 あまり話さなくなったのは、部活をやめてからだろうか。

 

「部内の噂話なら、話してやろうと思ったんだけど?」


・2-2

「こんな校舎にも、フェンスはつくものだね」


 屋上には風が吹いている。

 先輩は汗をかいておらず、真新しいフェンスの手前からプールを眺めていた。


「この辺は港町だから、海なんていくらでもあるのにプールがあるなんて、不思議じゃないかな」

「理由があるんですか?」

「昔の部誌に書かれていたけれど、この辺りは海流が特殊でね、世界中から土座衛門が流れ着いたらしい」


 吹く風に、潮と、なんとはない生臭さが香った気がする。


「泳ぐには危険なんだ。ただ貿易や漁には良く、昔からずいぶんと栄えていたようだよ」

「……先輩は、どうして」

「水泳部の噂話、夜にプールを見ると、水面に自分の死に顔が映る、だったか」

「僕は、あれから先輩の言ったことを考えたんです」

「合わせ鏡の怪談の変形だね。合わせ鏡だと、単に未来を見る、という話もある」

「先輩は自分の見たものが真実とは思わないって言ってましたけど」


 屋上にはフェンスのほか影とてなく、アスファルトは隙間なく日光に焼かれている。

 

「それって、かなり気持ち悪くないですか?」

「なぜだい」

「だって、それじゃジュースを飲むのも泥水を啜るのも同じようなことじゃないですか。何かを口にするたび想像で吐き気がしますよ」

「当たってる。でも、それは多数が保証してくれるから大丈夫だった」

「いまは違うんですね」


 夏の日光はいよいよ強く、照りつけはいよいよ強く、影はいよいよ濃くなっていく。


「昭和まで、ここには赤い城館があった。破風に埋め込まれた舶来の窓が、それは見事だったそうだよ」

「なんの話ですか?」

「破風の窓には噂があった。そこに幽霊が映る、妖怪が映る、未来が、過去が、異国が映る」

「そんなもの」

「その館の持ち主はね、ある日を境に忽然と消えてしまったらしいよ」


 正午なのだろうか。

 足元には影が伸びていない。


「いまの私のようにね」


・1-3

 一年生の夏だった。

 先輩と怪談を調べているうち、一片のガラスを見つける。

 曇ったガラスだった。猫の額ほどの大きさで、曇っているせいか透かしても向こうが見えない。


「部室にも似合わない金庫に仕舞われていたのだから、なにかあるのかもしれないね」


 先輩はそう言って、そのガラスを持ち帰る。

 古い部誌を探ると、俱璽ぐじ家という元々は藩家老の家が明治期に手に入れた宝らしい。

 薄汚れたガラスが、どうして宝なのか。

 

「先輩、このところ顔色が悪いですよ」

「……少しね」

「その眼鏡、急につけましたけど度が合ってないんじゃないですか?」


 このころ、先輩は伏し目がちになった。何も直視したくないというように。


「そんなことは、ないさ。暑さにやられたんだろう」


 この年はまた、蝉のよく鳴く暑い夏だった。

 先輩は部室にもあまり来なくなる。来たところで、目が泳いでいた。

 

「たとえばだ、キミは、自分の見ているものをどこまで信じられる」

「見たものならば、たいていは信じられます」

「そうか。私は、そうではないと言ったね。自分の目を信じていないと」


 先輩は、度の強い眼鏡に守られてさえ目をつむっていた。


「これまで、それは理屈の上だった。理屈としてそう考えていた。しかし」

「なにかあったんですか?」

「なにかあったのではなく、実際には、最初からそうなのではないか」

「そうとは」

「つまるところ、私たちの見ているものというのは、間違いではないか」


 眼鏡をとって僕を見る先輩の目は、焦点が合っていなかった。

 

「皮膚を裏返したあとに赤黒い血肉が踊るように、この現実という皮膚の裏には」

「先輩、横になったほうがいいですよ」

「私は、あ、あのガラス片を、み、み、見てしまったのだ」


 憔悴しきった先輩を、部室で休ませた日を覚えている。

 開けた窓からは緩やかに風が吹き、年代物のソファに寝る先輩を撫でていた。

 暑苦しい夏だった。額から汗を流す先輩を、うちわで扇いだ。


「先輩、僕にできることがあれば」


 いつになく弱っている姿を見て、僕はたまらなく、助けてあげたくなった。


「大丈夫だ。ねえ、キミ、普通に生きる、普通の感性を持つ、それはなかなかに難儀だね」

「先輩は普通に見えましたよ」

「そうあろうとした。けれど、どうにも、性分が抑えられなかった」

「性分?」

「知ろうとしてしまう。本当のことを」

「本当のことって、なんですか」


 先輩は答えない。僕にできることは、流れる汗をタオルで吸うことくらいだった。

 あの事件が起きたのは、その三日後のことだった。


・2-3

「しかし、なんということだ。キミはここに来る必要がなかったのに!」


 日に焼けていない白い肌を向けて、先輩は言う。


「知りたかったんです」

「いったい、なにを」

「先輩が、どうして屋上から飛び降りたのかを」


 一年前、あの夏休みの一日、僕は先輩が落ちるのを見た。


「あのガラスを、先輩が調べたノートを読みました」

「廃棄するべきだったね」

「一年使って、ようやく同じことができました。先輩を理解できました」

「……違うよ」


 二回見た。


「先輩は、ガラスを通してみた、あれに心をやられたんでしょう」

「ねえ、キミ」

「わかります。僕も、少し見ました。確かにあれは」

「違うんだ、そこがずれている」


 僕が見たのは、プールの夜と同じく、降ってくる白い女性。


「そう思うなら、キミの感性は普通だよ。現実を生きていられる。違うんだ」

「先輩、なにが違うんですか」

「ねえ、あの映像が真実ならば、じゃあ私たちの見ている現実ってなんだい。人の営みってなんだ。我々が社会を築き、日々まっとうに生きている、その意味ってなんだ。すべてが何者かの一時の夢にすぎない、我々の時間も空間も、たわいもない欠伸の一瞬にすぎないとしたら、そちらが真実で、この現実が虚構だとしたら」


 夏休みの一日、先輩が部室で震えるのを見た三日後、血を撒きながら屋上から降ってくる先輩の姿を見た。


「そうしたら、そんな裏切りにあってしまったら、私はあの現実を、一つたりとも信用できない」


 あのガラスには様々な噂がある。

 幽霊が映る、化物が映る、未来が映る、過去が映る。

 先輩は、そこに映るものがなんであるか、自分の目で確かめた。

 それらを総じて、このガラス自体が空間と時間を超越する一種のワームホールではないか、と先輩は書いていた。


「赤い城館が取り壊された時、破風の窓がどうなったか、キミは知っているかな」

「……先輩」

「知っているだろうね。城館の跡地にこの学校は建った。とりわけ、プールはほぼ同じ位置らしい」

「解体時に砕けたガラスのほとんどは、埋まったままになっている、と」

「そうとも。もっとも、普段はどうということはない。ただし」


 先輩が空を指さす。晴れ渡った夏の空は高く、雲一つない。


「星の、ある並びを水面が映したとき、扉は開く」


 プールの噂と、僕が見たもの、そして先輩が調べたことから、そう仮定すると書いてあった。


「私はね、あの現実に耐えられなかった。どうしても精神が保てなかった。ただ、私は死のうとはしていない」

「なにがあったんですか」

「つまり、あれは扉だ。扉だから、こちらからだけでなく、あちらからも移動ができたということだ」


 風に揺れるプールの水面に、照り返す太陽の光ではなく別のものが映ったように見える。


「あの日、あの夜、扉を通って現れるものがあった。私はそれに追われ……」


 俱璽家の破風の窓、そのガラスから幽霊や化け物が見えた、という話があったと先輩は言っていた。

 窓がある種の扉であり、映るものが真実であるのなら、幽霊や化け物もまた、実在するのではないか。

 そして、それが窓ではなく、扉であるのなら、そこを通ることもまた。


「落ちたのではなく、落とされたのだ」


・1-4

 僕はきっと、先輩のことが好きだったんだと思う。

 俗っぽさのない、高原で見つけた花のように綺麗な印象のある人だった。

 色で言えば、白。

 見ているだけで、ほっとして、心が落ち着くような気がした。


「あんた、大丈夫なの?」


 一年生の夏休み、空から落ちる姿を見てしばらくした日。

 ぼうっとプールを眺めていた時、幼馴染に声をかけられる。


「真っ青な顔してプールを見てるとか、ホラーにもほどがあるわよ」

「悪い……すぐどく」


 頬に冷やっとした感触があった。


「缶ジュースでも飲んで休みなさい。別にどけってんじゃないの」

「いま金は……」

「前に奢ってもらった分、返しただけよ」


 校舎を背にして座り込み、僕は貰った缶ジュースを口にする。


「落ち着いた?」

「……聞いてもいいか」

「前置きはいいから聞きなさいよ」

「お前は、目で見たものが現実だと信じられるか」


 幼馴染は明らかに眉を寄せ、不可解そうな顔をする。


「なにそのペダンチックな質問。似合わないわよ」

「聞いただけだ。答えないなら、それでいい」

「ますます気取った感じ。あのね、あたしはそういうのが嫌いだから言いますけど」


 幼馴染は立ち上がり、僕に正面から向き直った。


「目の前の現実が正解よ。裏があるなんてのは妄想」


 夏の日差しが幼馴染にかかり、校舎の日影が僕にはかかっていた。


「運動してたら分かるでしょ。秘められたとか隠されたとか、そんなものはなくて、現実が全てなのよ」

「なんか差別的じゃないですかね」

「現実は事実よ。いい、事実なの。事実ってのは何かというと、つまり本当ってことよ」


 蝉のいよいよ盛んに鳴く季節だった。

 部室は唸るように暑く、もうそこには誰も寄り付かない。


「いつまで新聞部なんて夢見てんのよ」


 立ち上がって缶を捨てる。その後の手には、一片のガラスだけがあった。


・2-4

 中庭のベンチで涼んでいると、男が一人こちらへ歩いてきた。


「暑いなか、ご苦労様ですね」


 先生、と男は声をかけられ、二言三言会話してから向き直る。


「なにか?」

「いえ、あの人のことで話を聞かせて貰えたら、と」

「話といっても……」


 もう八月を半ばは過ぎ、日陰にいれば休まる時節だった。

 男は隣に座り、缶ジュースを渡してくる。


「離人症というものがあります。自分の体で実際に体験しているのに、まるで自分が傍観者のように感じることがある」

「病気なんですか」

「昔は多重人格だとか色々疾病として扱いましたが、いまは疾病とは捉えません」

「病気ではない?」

「ええ。思春期には多かれ少なかれあることです。頻度と程度の問題ですよ」


 病院の中庭には、自分たちの他はいなかった。


「多重人格も、病気ではないんですか」

「そもそもビリー・ミリガンのような症例はほぼありません。小説のような多重人格者は皆無と言ってよいでしょう」

「でも、それが病気でないならなんなんですか?」

「例えば子供が一人でおままごとをします。架空の家族を設定します。それぞれに名前と役割を割り振ります」

「それが?」

「そのとき、子供は多数の人格を一人で演じています。子供は、遊びの上で必要だからそうしています」

「でも、患者は遊んでいるわけではないでしょう」

「必要性から行うという点で同じです。例えばネグレクトを受けた子供が、防衛手段として役割の振り分けを行うことがあります」


 ジジ、ジジジ、とベンチのほど近くでひっくり返っている蝉が鳴く。


「先生、でも、おかしいじゃないですか」

「それはいったい、なにがです」

「そりゃ、あいつは見た目こそおっとりして大人しそうですけど、前は運動部にも入ってたし、家にも学校にも大して問題なんて抱えてません。そうなる理由がないですよ」

「そういえば、あなたは、幼馴染でしたか」

「先輩ってあいつは言ってましたけど、そんな人、あたしは見たことがない。新聞部なんて、あの学校にはない。何をどう狂えば、そんなおままごとをし始めるというんですか」


 空を見上げる。雲のまばらな空はまだ高く、夏が終わっていないことを示していた。


「それに、何を考えて、屋上から飛び降りなんて……」


 男は立ち上がった。その拍子に、ポケットから何かが落ちる。


「とにかく、ゆっくり構えましょう。急いでもよいことはない」


 俱璽先生、と呼ばれて男は院内へと返事をした。

 足元に落ちたものへと目をこらす。

 それはガラスだった。曇ったガラス。


「後で、また話しましょう」


 俱璽という男はそのガラス片を拾い上げ、ハンカチで包む。

 彼が立ち去ってから、ガラスの落ちた所に奇妙なものがあることを発見する。

 物自体は、一冊のノートに過ぎない。けれどガラスが落ちたとき、そこにそれがあったら気づくはずだった。まるでガラスと入れ違いに、そこに現れたかのようだ。


「プールに現れる扉について……?」 


 ノートには、そんな一文が書かれていた。

参考

H・Pラヴクラフト他(1988) 『クトゥルー 1』大瀧啓裕訳、青心社

森瀬綾(2006) 「夜刀浦綺譚」、『ROLL&ROLL』Vol.20 朝松健監修、新紀元社

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