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遺跡の記憶

作者: 篠崎春菜

 ばあちゃんを残してじいちゃんが死んで、俺の両親はばあちゃんに「一緒に暮らそう」と言ったけれど、彼女は頑として聞き入れなかった。いつもじいちゃんの横で柔らかい笑みを浮かべていたばあちゃんの、真剣で真っ直ぐで頑固な様をそのとき俺は初めて見たんだ。




 静かに眠っているその表情は、本当にただ寝ているだけに思えた。だけど手を触れれば今までのような温かみはなく、口元に手を当てても息を吸って吐くことはない。

 じいちゃんが死んで何年も経って、俺は社会人になった。あのとき大学受験生だった俺は、今は既に社会人になっている。社会に出て、目まぐるしい日々を経て、いつの間にか部下を持って、いつの間にかその扱いにも慣れて。酒が飲めるようになってからは父さんと一緒に飲んだりもした。最初すぐに酔っていた俺は、もう父さんよりも酒に強い。当初涙をボロボロ流し、悲しんでいたじいちゃんの死による傷は、今はもうチクリと痛むだけに留まって、俺はいつの間にか涙の抑え方を学んだ。


「ばあちゃん、今までありがとう」


 だけど学んだはずのそれを使えない場面もあるわけで。親類が葬式やらの準備をしにいっても未だ、俺は横たわる彼女の横を離れられないでいた。姉は「アンタ、おばあちゃん子だったもんね。いいよ、好きなだけそこにいな」といつにないくらい優しくて少し気持ち悪かった。母も父も、無理せずここにいることを許してくれて、叔母さんも文句一つ言わなかった。このしんみりした空気が余計、ばあちゃんの死を俺の中に確実に刻み付けて少し、怖いと思う。


『なあ、ばあちゃん』

『なんや?』

『ばあちゃん、俺等と暮らすの嫌なのか?』

『そうやないんよ』


 今の俺から見るとまだまだ子供だったあのときの俺が、ばあちゃんに聞いたことがある。『何で俺達と暮らさないんだ?』と。ばあちゃんは苦笑して俺の頭を撫でた。真剣に「ここで暮らす」と言い切った彼女とは違う、いつもの優しい笑顔が俺の顔を覗き込んで、語るように言い聞かせるように言葉を紡いだ。


『ここはね、遺跡なんよ』

『遺跡?』

『じいちゃんの思い出とか、そういうもんがいっぱいつまっとる。じいちゃんが残してくれた、じいちゃんと家族の場所なんよ』


 そのとき俺は、“遺跡”と表するには大袈裟すぎるのではないだろうかと思った。それが顔に出ていたのだろう。ばあちゃんは『大ちゃんにもそのうちわかるかもしらんねえ』とほっこり笑った。


「……今なら、少しはわかるかもな」


 ばあちゃんがあの家を離れたがらなかった理由が。そう思うとまた涙が出そうになって、袖でごしっと目元を拭う。


「大輝、あんたもそろそろ寝なさいよ」

「……うん」


 呼びに来た姉ちゃんはさっさと客間へ行った。この家に泊まる他の親類や姉ちゃんは、客間や居間に布団を敷く。しょっちゅうきていた俺は例外で、一階の自分の部屋へ向かった。ばあちゃんがいつも閉めていた雨戸は、大人連中が不精なのか忙しかったのか、開けっ放しのままだった。そこから見える月は真ん丸で、十五夜にばあちゃんと月見をしたことを思い出す。庭に咲いている梅の花は、彼女が毎年のように念入りに手入れをし、「じいちゃんが好きやった」と笑った大切な木だった。




 葬式が終わって、でも親類はいつまでもしんみりしていられない。遺産だとかなんだとか、今絶対に聞きたくないような汚い言葉の群れが耳に入っては嫌なものを残して出て行った。気持ちが悪い。ばあちゃんが死んだばかりなのに、何でそんな話。感情論だとわかっていても、そう思わずにはいられないのだ。


「で、この家どうする?」


 まるであえて最後に残しておいたかのように、俺のあまり会ったことのない親戚が言った。どうするって、何だ? どうするもこうするも、誰か住むんじゃないのか。俺の怪訝そうな視線に大人達は気づかない。


「もう古いしなあ……誰か住む?」

「住まないなら取り壊して何か建てるとか……いっそ売るってのも」


 俺が今まで考えたこともなかったようなことを次々と口にする。何だそれ、何だそれ、何だそれ! 今になってばあちゃんがここに残っていたことに物理的な意味があったのだと知る。ばあちゃんがもし、俺達と一緒に暮らしていたら。もし俺達と一緒に都会へ移っていたら。この家は――――


(ああ、そうか)


 ばあちゃんはやっぱ凄いな。

 俺は、ばあちゃんが死んだのが悲しくて、苦しくて、寂しくて、そんなところまで頭は回っていなかったけど、ばあちゃんはじいちゃんが死んで悲しくて、苦しくて、寂しかったけど、ちゃんと考えて家を守っていたんだな。

 瞼を閉じると、視界が真っ暗になった。目に何も入らないだけで大分落ち着くのは、昔ばあちゃんが教えてくれた気持ちの落ち着かせ方だった。


「俺が住むよ」


 それ以外にないじゃないか。


 ばあちゃんがじいちゃんを愛した場所。じいちゃんがばあちゃんを愛した場所。二人の好きが、思い出が、たくさん詰まった“遺跡”を他の誰かに渡してなんかやるもんか。ばあちゃんが長生きしたのはこのためだったんじゃないかと思うほど、この場にこの家を守ろうとしている奴なんて俺以外にいなくて、俺が社会人になるまで待ってたのかもしれないとすら思ってしまう。

 親類からの驚きの視線なんて気にもならなかった。「大輝、それ本気で言ってんの!?」と姉ちゃんが慌てたように俺を止めようとしたけど、俺は息を吐いて真剣な顔で、「俺が住む」ともう一度言った。大人達は眉をひそめ、俺を品定めするかのように見ている。


「……そこまで言うならやってみなさい」


 やがて一番にそれを口にしたのは父さんだった。「お父さん!?」と止めてくれると思っていたらしい姉ちゃんが驚いたような声を上げたけれど、母さんが「そうね、途中で投げ出すこともできないわけじゃないもの」と言ったのを聞いて口を噤む。内心で投げ出したりなんかしねーよと呟いてから、俺は一度小さくお辞儀をしてその気持ち悪いドロドロの空間を抜け出した。


「大輝! ちょっとアンタ、何考えてんの!?」

「……」

「アンタにできるはずないでしょ。会社だって随分遠くで、」

「うちの社長、人情家だから、話したら多分こっちの会社に異動させてくれると思う」

「維持費とかどうすんのよ! アンタこれからお嫁さんだってもらって子供だって出来るでしょう!?」

「そんなん予定じゃん」

「……今の子は、こんな古い家嫌がるわ」


 「おばあちゃんの物を後生大事にしてるアンタもね」。姉ちゃんは、あそこに居た親戚とは違って、本気で俺を心配してくれているんだとわかる。だけどこれは譲れないと、俺は本気で言った。姉ちゃんならわかってくれるはずだとも、思っていた。小さい頃からよく両親に連れられてきたこの家は、俺達にとって思い出が多すぎる。厳格だけど笑い上戸なじいちゃんと、その横でいつも微笑んでいた料理の上手いばあちゃん。ここにはいつも柔らかな空気だけが流れていた。俺達のことをひたすらに可愛がって、あの二人が父さんに「甘やかしすぎだ」と言われていたのを遠い記憶がしっかりと覚えている。


「俺は、この家を好きになってくれる奴と結婚するよ」

「どうしてそこまで」


 心底不思議なのだろう。きっと、姉ちゃんもこの家を手放したくはないとは思っていると思う。ただ、現実と理想とを掲げ天秤にかけて、ここに住むのは無理だと判断した。姉ちゃんは今の現実を壊さない、変えない決断をしたのだと思う。ただ、俺は姉ちゃんが聞いていない話を、ばあちゃんから聞いていた。それがきっと大きな差を生む。


「ここは“遺跡”なんだって」

「え?」

「じいちゃんの思い出とか、そういうものが詰まった“遺跡”なんだって」

「……ばあちゃんが? いつそんなこと」

「じいちゃんが死んで、父さんが一緒に住まないかって言って、断った一週間後くらい? 俺一人でここまできたんだよ」


 姉ちゃんはしばらく黙っていた。二人してあてもなく歩き、結局はあの梅の木が見える縁側に落ち着く。この場所は、俺達姉弟のお気に入りの場所だった。昔から、ここで食べるばあちゃん特性のみたらし団子は格別に美味かった。「アンタ等は花より団子やねえ」と、彼女はよく笑っていた。「花も楽しんどる!」と食べるのをやめないじいちゃんに、ばあちゃんが「ほどほどにしいや」と言っていた。


「これから忙しくなるよ」

「わかってる」

「しばらくは彼女作る暇もないかもよ」

「そもそも出会いなんかなかっただろ」

「後悔とか、絶対しないよね」

「うん」

「投げ出したり、しないって約束できる?」


 「うん」。梅を眺める姉ちゃんに、力強く頷いた俺が見えたかどうかはわからないけど、姉ちゃんははあ、と息をついた。まだ反対する気なのか、と俺は思ったけれど。


「……障子とか、貼りかえるの日曜日にしなさいよ。手伝いにくるから」

「え、でも旦那……」

「いいのよそんなの。手伝わせるわ」

「義兄さんに悪ぃよ」

「悪かないわよ」


 「この家は私達のばあちゃんの家よ。ここを好きにならない奴なんて離婚してやる」。そんな風にやけに強気に言うものだから、俺は思わず噴出した。それにつられたようにクスクス笑っていた姉ちゃんは、やがてはははっと声を出して笑う。


「アンタ、やっぱりばあちゃんに似てるわ」

「え」

「いざとなったら凄い真っ直ぐで、頑固なの。そっくりよ」


 そう言われてみると、と思い当たる節がいくつかあって、「そうかも」と呟くと、姉ちゃんはまた笑った。


「そういう姉ちゃんこそ、その笑い上戸なとこ、じいちゃんにそっくり」

「あら、光栄だわ」

「あれ、嫌がるかと思ってた」

「私、じいちゃんもばあちゃんも大っ好きだもの」


 ああ、そうだな。心の中で頷いて、俺はネクタイを緩めた。温く、ドロドロした何かが引っかかっていた喉が、呼吸をするごとに正常に戻っていく。「これだからああいう大人は嫌いなんだ」とあの場所でのことをぼやくと、姉ちゃんは「私も、殴りそうになったからずっと机の影で手押さえてたのよ」と何かを殴る真似事をする。


「二人とも、お茶持ってきたわよ」

「母さん……ありがと」

「いえいえ」


 話し合いが終わったのか、両親がこちらへ歩いてくる。他の親戚の姿はまだ見えない。もしかしたら、悪口か何か言われているのかもしれないが、自分の悪口なら別に構わないとも思う。俺達のじいちゃんとばあちゃんのことをわからない奴に、何を言われたってこの家を渡してなんかやらないと、姉ちゃんと二人で笑った。

 ポンポンと頭を撫でる感触がして、上を見上げると父さんが俺と姉ちゃんを撫でていた。その表情は珍しく柔らかい。


「ばあちゃんの遺書にな、家のことは一言も書いてなかったんだよ」

「は? 遺書とかあったのか」

「アンタ話聞いてなかったもんね。家のことになったとたんハッて」

「だって気持ち悪くて……」

「わからんでもない」


 父さんが苦虫を噛み潰したような顔をする。母さんを見ると、うんうんと頷いていた。なんだ、うちの一家はそう思っていたのか。ふわっと気持ちが軽くなる。大切だと思っていることに変わりはなかったのだと思うと、とても嬉しい。


「でだ。さっき気づいたんだがな、俺が思うに、ばあちゃんは大輝がこの家を守ってくれると思ってたんだろう」

「……父さんも思った?」

「ああ」

「正直、俺も思った」


 生意気! と横から姉ちゃんが小突く。母さんはその様子を見て楽しそうに笑い、止めようとはしない。姉ちゃんの腕が首に回り、グリグリと頭を攻撃するので、「や、やめろって!」と俺は慌てて声を上げた。


「うちのおばあちゃん子は強いなあ」

「これでやっと安心できるわね」

「ちょっと! 父さんも母さんも最初からわかってたの!?」

「でも、私達が相談する前に大輝が住むって言っちゃったじゃない。おばあちゃんのこと、一番理解してるのはやっぱり大輝だわねえ」


 呆気にとられ、姉弟二人して顔を見合わせる。それに両親は一層笑みを深くした。俺達は皆、じいちゃんとばあちゃんが大好きだ。それはきっと死んでからも変わらない。

 ああ、この家族でよかったなあ、と思う。あんなに辛かったのが、今はほんの少し楽になった。未だチクチクと痛む心臓は、きっとこの中にいれば少しずつ、カメの歩みだとしても癒えていくだろう。周りの親戚がどれだけ悲しんでいなくても、俺達家族はひたすらにあの二人の存在を惜しんでいる。二人の影がいつ見えてもおかしくないようなこの家を、居心地がいいと感じている。じいちゃんが好いて、ばあちゃんが楽しそうに手入れをしていた梅の木は、今年もたくさん実をつけるだろう。毎年彼女が作っていた梅干は、容赦なくすっぱくて、死ぬほど美味しかった。


「毎年、二人のお葬式は皆でいきましょうね」


 母さんの言葉に、皆揃って頷いた。

 お盆には間に合わないから、来年の墓参りには今年できた実で作る、俺の初めての梅干を持っていこうか。余裕があるならじいちゃんが好きだった梅酒だって作ったらいいさ。きっと二人は喜んでくれるだろう。

 そして世界一の俺の家族が、絶対それを手伝ってくれるから、とりあえず梅の実ができたらその収穫を、彼等と一緒にやろうと思うのだ。

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