この箸は軽すぎた
始め見たときは、長さといい、柄といい、使い古しのそれの代わりにちょうどいいと思っていた。ところがいざ、使ってみると軽い。いや、買うときは違った。いま初めて軽いのだ。
どうした事か。今となってはこの箸を通して何か大切なものが、どんどん吸い寄せられるかのように感じた。鋭利な刃物を首筋に突きつけられているような、不愉快な・かゆいような、輪ゴムを思いっきり引っ張ったときのような、明らかな不愉快・危機感があった。それはしばらく続いた。
私は考えた、なぜこんな気分になったか。その次の瞬間まで、私は何にも気づいていなかったのだ。
そして私は気がついた、箸は軽くなっていない、大地がすべて消えたのだ、と。そうだったのか、地球はもうなくなっていたか、なら、もう戸惑うことはない。大地がなければ空だって羽なしで飛べる。
窓を開けてみると、やはり大地はなかった。すべて青い空だった。不思議なことに、どの方向をみても、宇宙が迫ってくるような黒い青さはなかった。でもちゃんと雲はあった。
今しかないと思った。飛ぼう。私は空に飛び込んだ。私を包み込むような、歓迎するような音楽が一瞬聞こえた。その音楽は知ってたものだが、名前もメロディも思え出せなくて、づっと探していたものだった。とても美しいメロディの全てを思い出した、それはこの音楽を初めて聞いたときのうれしさに似て、私は満たされながらも、空っぽになったように気だるさを感じ無いようになった。
次に聞こえてきたのはどうやら会話のようだ。どんな人が話しているか、また、どんな言葉を話しているかは解らない。でもとても理知的な内容であるとわかった。そう、私にはその内容がわかったのだ、まるで、言いたいことが言葉に表せないとき、その言いたいことが脳裏にべったりくっついるように。しかし、今のこれは心地よかった。頭に風穴があいたように会話は流れていき、決して回らなかった歯車がぐるぐる回った。愉快であった、かつて私が望んだ通りの快感があった。
箸の軽さに気がつかなければ、私はこれを見逃していたに違いない。未だ気づかぬ哀れな人々よ、せいぜい地に足がついた生活を送るがよい。
ずっとずっと過ぎた頃、空が黒ずんだ。宇宙だ。