十六
宿に帰った二人は、各々風呂に入って冷えた体を温め、布団に入って寝た。ひなたは昨日のように会話をせがんだりせず、有馬も彼女に家に帰るよう説得することもなく、ただ「おやすみ」と言い合って、部屋は静かに暗闇に沈んだ。
有馬は、先程まで眺めていたエリダヌス座を思い出しながら、これまでと、これからを考えていた。
高校を卒業してからも、有馬はずっと咲々を想っていた。それは確かなのだが、しかし同時に、その感情を持ち続けることは果たして正しいのだろうか、そして、この感情は本当に現在の有馬の本心なのだろうかという疑問を持っていた。
過去は記憶として彼の脳に留まり、やがて思い出となる。咲々と過ごした全ての過去は今、思い出として有馬の中にあり、それらの中心には咲々への気持ちがある。だが、それは当時抱いていたものであって、今はどうであろう。過去にすがって、記憶に囚われて、思い出に縛られているだけなのではないだろうか。かつての感情の為に、他の誰かを好きになるだとか、そういった可能性を無理に捨ててはいないだろうか。有馬はそういう、自分に対する疑心を否定しきれず、かといって受け入れることも出来ずにこれまで生きていた。
だから、川を見たかった。咲々を忘れるにしろ、想い続けるにしろ、何かの切っ掛けを求めた。今のまま、ずるずると過去を引きずっていたとして、彼女が現れたとき、あの時と同じように好きだと言えない気がしていた。あの日の約束は、守られないという予感があった。だから有馬は、鹿児島に来た。エリダヌス座を見る為に。咲々への感情の曖昧さを払拭する為に。
彼は星座に、彼の思いを託した。例えばこの気持ちが偽りであるならば、それを認識したいと願って。例えば今でも変わらず咲々を想っているのなら、それを自覚したいと祈って。星の描く、大きな、曲がりくねった川に、彼は彼の祈りを捧げたかった。
結果として、有馬は答えを出せなかった。咲々を好きだという気持ちも、その想いを疑う気持ちも、まだ彼の心に残ってた。しかし、彼は一種の満足感を覚えていた。
ああ、星が綺麗だった。
声に出さずに、口を動かさずに、心の中だけで思う。隣に咲々がいなくとも、彼は彼女の好んだものを綺麗だと思えた。彼女の口癖だった、好き、という言葉を、きちんと言えた。自然に口から溢れた。それは彼にとってとても喜ばしいことだった。
咲々を、もう一度、改めて好きになろう、と有馬は思った。咲々は、もしかしたらもう二度と帰ってくることはないのかも知れない。向こうで多くの友人に囲まれて幸福であったり、誰か別の人間を好きになっているのかも知れない。しかし、それでも構わない。有馬自身の感情も、咲々の感情も関係ない。彼女との思い出と、彼女が好きだと言った世界を見て、彼女にまた恋をしよう、今度は疑いの余地も無いほどに、それによって別の誰かとの出逢いが失われてもいいと思えるくらいに。そう考えて、有馬は安心したように眠った。
気が付くと部屋はいつの間にか明るい。カーテンをすり抜けた光は柔らかく、有馬は欠伸を噛み殺して顔を横に向けるとひなたが彼を見つめていた。二人は向き合ったまま、互いに「おはよう」と言い合って、ひなたは少し微笑み、有馬は瞬きを二度した。
服を着替え、朝食を取った二人は早々に荷物をまとめると部屋を後にした。宿泊代を有馬が払い、従業員に礼をする。
「温泉は堪能されましたか?」
「ええ、とても。それに部屋も食事も素晴らしいものでした」
「ご満足していただいたようで何よりです。またこちらにいらっしゃった時には、是非当旅館を御利用くださいませ」
「ええ、きっと」
宿を出た後に、ひなたは有馬の裾を引っ張り、宿泊代の半分を払おうとしたが、有馬は首を横に振ってそれを断った。ひなたは頑なに金を渡そうと試みたが、しかし有馬はより頑なで、最後には彼の厚意に甘えることとなった。
宿から北に歩き、駅を目指す。ひなたの意思を確認した訳でもないが、彼女は何も言わないで有馬の横を歩き続けた。
「ひなた、僕は何と言うか、自分の言葉で感情を伝えるのが得意ではない。けれど、ひなたには伝えたい。
僕に君の人生を左右する権利があるとは思わないが、僕はひなたが家族のもとで、友人や他の人間と共に、出来るだけ平穏に生きてほしい。これはだから、僕の単なる要望に過ぎないのだけれど、しかし」
有馬の言葉を遮るように、ひなたは軽く笑って、それから有馬の肩を叩いた。
「優人、ほんまに堅物やね、でも有り難う、大丈夫やから、ちゃんと家に帰るわ」
有馬はほっとして、ひなたの頭を撫でる。ひなたは「何やねん」と冗談混じりに嫌がってもう一度彼を叩き、それから彼の腕を掴んだ。彼女のとても愉快そうな笑い声が、穏やかな朝に響いた。
信号を曲がり、商店街を通る。ここは、有馬とひなたが初めて会話をした店のある場所だった。あれから二日しか経っていないのか、と不思議に思う。
「にしても、良かったわ」
有馬が首を僅かに傾けると、ひなたはむっとして彼を睨んだ。
「やって、そうやろ? 大の男が一人で旅行して、しかも温泉が目的ちゃうくて、あんま楽しそうでもないなんて、あからさまにおかしいやん。もしかしたら、もしかしたら死にに来たんちゃうかって、心配したんやから」
「川を見る為だと言ったろう」
「やから、ほら、三途の川、みたいなことやと……」
有馬は、大いに笑った。口を大きく開けて、大袈裟に、思いきり。こんな風に笑うのは、もしかして初めてかも知れない、と頭の片隅で考えながら。
ひなたは顔を赤くして、そっぽを向いた。有馬が「悪かった、有り難う」と伝えると、ふん、と鼻を鳴らして肩をぶつけた。
商店街を抜けて、駅に入る。切符を購入して、ホームで電車の到着を待つ。あの日、ひなたと出会った時の駅員は、どうやら近くにはいないようだ、いたとして、こちらの顔を覚えてもいないだろう、有馬は椅子に座ってそんなことを考えていた。
「優人、飛行機で帰るん?」
「ひなたに合わせる、僕はひなたがちゃんと京都で降りるのを見届けてから東京に向かう」
「そんなんせんでも、ちゃんと帰るわ、子供ちゃうねんから」
ひなたは先程有馬が笑ったのを根に持っているのか、有馬の顔を見向きもせずに答える。やはりごく普通の、素直な子供だ、と有馬は感じた。
「そうだな、家に帰って、家族に叱られ、そして家族を安心させるまでが家出だからな」
「ああ、やっぱ怒られんのかなぁ。今から億劫やわ。それに、また親とばあちゃんに苛々するんやろか」
それは無いだろう、と有馬は思う。彼女の家出は、きっと彼女の両親と祖母に何かしら考えさせるだけの効果があったはずだ、そして、ひなたの言葉に耳を傾けようとする効果も。しかしそんなことを有馬は言葉にしない。ひなたはきっと、そのことをきちんと理解しているだろうから。
電車が到着し、空いた車内の座席に二人並んで座る。暖房が冷えた体を包み、しかしすぐに暑いと感じるだろうと思って上着を脱いだ。二人の他には、地元の人間らしき初老の男女が、仲睦まじく寄り添っているばかりだった。
「京都に戻ったら、ちゃんと勉強しろよ」
「わあっとるって。優人は、東京に帰ったらどないするん?」
「やりたいことは沢山ある。手紙を書かなければならないし、金を貯めて天体望遠鏡を買い、星をもっと見たい。それから、出来るだけ色んなものを好きになりたい」
「優人こそ、ちゃんと勉強せぇや」
がたりと揺れて、電車は二人を運び出す。窓から見える町並みは朝の光に照らされており、気持ち良さそうにのんびりと輝き、そしてゆっくりと動き出そうとしているように見えた。煉瓦の屋根が、白い壁の家が、そこかしこに生えた樹木が、線路沿いの道を歩く通行人が、すっと過ぎ去っていく。
そこには寂しさの欠片も感じられなかった。
「まあ、どうしてもっちゅうんなら、ついてきてもええんやけど。その代わり、何か楽しい話、してぇや」
「そうだな、京都までは長い道程だから、いくらでも話が出来るだろう。だったら……」
僕の好きな人の話をしよう。僕がかつて好きで、未来にまた好きになる人の話を。
有馬は目を細めて、町の流れていくのを、いつまでも眺めていた。