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祈りの川  作者: 白熊猫犬
15/16

十五

 夜の寒さが二人を包み、有馬はまだ冷たい懐炉を両手で握った。ひなたは何度も「寒い、寒い」と言い、有馬のすぐ後ろで自分の肩を抱いた。

 宿を出て東に進む。自分の足音が大きく、風の音はそれよりも大きく、遠くで誰かが騒いでいるような声がかすかに聞こえる。窓から漏れる光、街灯が照らす光、それらを頼りに二人は歩く。寒さに身を縮ませ、幾分早足になる。

 すぐに突き当たり、黒く広い海が不気味にうねり、波は冷気を二人に運ぶかのようだった。ひなたは体を震わせ、立ち止まった有馬の横に並ぶと、不安そうに、不思議そうに彼の顔を見上げた。

 有馬は懐炉を胸に仕舞うと手提げ鞄から一冊の本と懐中電灯を出す。暗闇の中で彼の左手に持たれた懐中電灯はうるさいと感じるほどに明るく、ひなたは目を細めながらも尚、彼の顔を見ていた。右手で本を開く、風に吹かれて頁がぱたぱたと捲れる、片手での作業に顔をしかめる、有馬の動作を見ながら、懐炉を取り出して、まだ僅かな熱を発しているだけのそれを抱きすくめるようにした。有馬はそんなひなたの表情も仕草も視界には入れず、親指で本の頁を固定し、ふうと息を吐いてから空を見上げた。

「ひなた、オリオン座はわかるな」

「え? あ、うん、わかるで、流石に」

 突然話し掛けられたひなたは、動揺したように答えてから有馬と同じように上を向き、空に三つ連なる星を見付ける。左上には赤く輝く星が、右下には白く光る星が、それぞれ明るく浮かんでいる。

「見付けたか、それならば、オリオン座の右、リゲルから少し上にある星はわかるか。リゲルに比べて少し見えにくいと思うが、そうだ、こっちへ来い」

 ひなたは視線を空に固定したまま、言われるがままに有馬にぴたりと寄り添う。有馬はひなたにも見えるように本を立て、開かれた頁を懐中電灯で照らす。

 そこには、星々を線で結んだ絵が載っていた。星座の本。ひなたは漸く彼が星を見に来たのだと理解したのか、二、三大きく首を縦に振った。

「これだ、この星から、順番に追っていく」

 有馬は本の中の星の一つを指し示し、それから空と本とを交互に見て、丁寧に星座をなぞっていく。

 有馬が最初に指定した星から、右へ、そして上へと視線を移していく。彼はひなたに一つずつ確認を取り、彼女が頷くのを待ってから次の星を探した。先程までは暗いと感じていたのに、今は月の明かりが邪魔に思える。二人は頬が触れるほどに顔を近付け、指を伸ばしながら懸命に探す。時々は星が見えず、恐らくはあの辺りにあるのだろうと見なして、空に星座を描いていく。

 一度右上に大きく膨れ、それから下に、今度は右に伸びる。そして最後は、地面に触るほど低い位置に、これまでとは違って一際明るい星があった。有馬はそれを見付けると、深く息を吐いた。

「これで、完成だ。あれがエリダヌス座だ」

「えりだぬす? って何なん? 聞いたことあらへん」

「川の名前、だそうだ」

 ひなたは、ああ、と声を出して、一度本に目を移し、それからまた夜空を見上げた。有馬も同じように、空を流れる大きな川を、今度は一度に見る。一つ一つが線で結ばれ、確かに雄大な川を思わせる形で、オリオン座と比較しても随分大きく、川の果ての明るさ、地球に隠れてしまいそうな所で強く輝きながら浮かぶ星に、息を呑んだ。

「星くらい、東京で見たらええんに」

「あの最後の星、アケルナルという名の星は、東京では地面に埋まって見えないのだそうだ。南でないと、見えない。だから僕はここまで来た。昨日は曇っていて心配していたが、風が雲を連れていってくれたお陰で、今日こうして見ることが出来た」

 ひなたは星座を見つめたまま、へえ、と声を漏らした。有馬はその星々を見ながら、咲々の言葉を思い出していた。


「あのね、優人くん、夜空だけをずっと見ていると、どんどん距離感が失われていって、本当に目の前に光があるんじゃないかって、そう思えてくるの。手が届くんじゃないか、掴んで、抱き締められるんじゃないかって。

 でもね、そう感じて、実際に手を伸ばすと、星はすうって、果てしなく離れていってしまうの。いっぺんに距離感というものが戻ってきて、絶対に届かないんだ、掴むことは叶わないんだって、思い知るの。きっと、星だけを見ている時は他に比較するものが無いから、近くにあるって錯覚してしまうのね。けれど、自分の伸ばした腕が、手が、指先が、物差しとなって、星と私の距離を測ってしまうのだわ。

 その儚さ、切なさ、同時に感じる空の大きさ、それらが私はとても好き。自分は小さいんだ、世界はこんなにも広いんだと、感じさせてくれるの」

 それは有馬と咲々が初めて、そして今になって考えると唯一、目的地を定めて出掛けた日のことだった。咲々がプラネタリウムに行きたいと言い、有馬は何も言わずに頷いたのだった。それは二人が海に行かなかったあの日からひと月程経った、まだ夏の暑さの残る休日で、咲々が白いワンピースを着ていたことを、有馬は覚えていた。

「本当はね、優人くんと一緒に、本物の星空を見上げたかったの」

 まだ館内が明るく、人のざわつきの中、咲々は椅子にもたれながら有馬に笑い掛けた。

「でも、そうなるとちょっと遠出しなくちゃいけないでしょう? 空気が澄んでいたり、人工の明かりが少なかったり、それに天気の兼ね合いもあるのだから、難しいかなって。それに、それにね? 私はこれでも天文学部だからいいけれど、優人くんはあんまり星座とか詳しくないんじゃないかなって思って、それなら先ずはプラネタリウムからがいいのかも、って考えたの」

「じゃあここでしっかり学んで、次の機会には本物の空を一緒に見よう」

 有馬は円形の部屋の中央にある機械が半球の天井に映し出す多くの星を眺めた。黄道十二星座にまつわる神話を聞き、夕暮れから明け方にかけての、あるいは四季の移り変わりによる空の動く様を見て、太古の人々が星に託したものに没頭した。そしてその間、頭の片隅では、夜空に散りばめられた本物の星とはどれ程美しいのだろうか、それはプラネタリウムのようなガイドが無くとも、隣に咲々がいなくとも感じられる類いのものだろうか、と考えていた。

「楽しかった、かな? 私はね、凄く楽しかったし、とっても面白かった。ずうっとどきどきして、聞こえてくるお話に耳を傾けながら、昔の人はとても想像力が豊かで、とてもロマンチストだったのだなあって、思ったわ。

 素敵よね、空と星を使って神様の姿を描くなんて。私、星座のそういうところが好き」

 有馬は咲々の話を聞きながら頷いて、建物の外の暑さと明るさにくらくらしながら、自動販売機で冷たい飲み物を二つ買った。

「これで次はきっと、咲々と夜空を眺めても楽しめると思う」

「ふふ、でも実際は、全然わからなかったりするのよ、だって本当に、真っ黒な空に点々と星があるだけなんだから。でも安心してね、私が横で一杯教えてあげるから」

 咲々は昼間の太陽の下で、にこやかに笑った。その笑顔と光に照らされて眩しい程のワンピース姿は、有馬の脳裏に強く焼き付けられた。


 あの日の帰りに、咲々は有馬に様々な星の話をした。別の場所では六分儀座やコンパス座といった近代的な名称の星座が見られること、乙女座は全ての星座の中で二番目に大きいということ、それから、空との距離感の話や、エリダヌス座についても。

「日本だと、ええっと、沖縄とか、鹿児島とかじゃないと全部は見えないの。アケルナル、それは川の果てという意味なのだけれど、その一番下にある星が大地に隠れてしまうから、ここよりもっと南に行かないと、つまりは空をもう少し押し上げてあげないと駄目なの。私、いつか見たいわ、そのエリダヌス座の全体を、この目で。その時に優人くんが一緒にいてくれたなら、って、そう思う」

 その願いは叶わず、しかし有馬は確かに今、彼女が目を輝かせて語った、川の星座を見ていた。

 懐中電灯の明かりを消し、本を閉じて鞄に仕舞う。これは、プラネタリウムを見た後に咲々と本屋に寄ったときに購入したものだった。咲々は神話に関する本を買い、それを胸に抱いて喜んでいたのを思い出す。

 それからもう一度、川の始まりから果てまでを、ゆっくりと眺める。距離というものが徐々に失われ、星の瞬きは遠く、近く、暗闇の中に美しく煌めいて、それ以外の全ては存在しなかった。有馬は思わず手を伸ばす。掴もうとした指は空を切り、目の前にあったはずの星は遠い宇宙に、寂しそうに浮かんでいるばかりだった。

「僕は、ずっとこの川を見たいと思っていた。咲々のように感動出来るか知りたかった。実際にこうして眺めていて、彼女と同じ感想を持ったのかはわからない。わからないがしかし、僕はこの星空が、とても好きだ。そう思えることが、今は嬉しい」

 有馬は独り言のように呟いた。咲々と同じように、好きという感情を言葉に乗せて空に飛ばした。

 すぐ横から鼻をすする音がした。ひなたは見上げたまま、頬には涙が一筋流れていた。

「寒いと、何で涙出てくるんやろね」

 ひなたは有馬の視線に気付いたのか、そう言って手の甲で頬を拭った。

「もう宿に戻ろう。風邪を引いてはいけない」

 ひなたは首を横に振る。空を、川を見上げたままで。

「もう少し、見たい」

 頷いて、二人で暫く、会話も無く、エリダヌス座を眺めていた。有馬は胸に仕舞った懐炉の温かさを感じていた。

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