十四
もたれ掛かった壁は外の寒さが浸透しているように冷たく、風が窓をかたかたと鳴らす。廊下からは他の客か、従業員かわからない足音が聞こえ、ひなたは静かに寝入っており、有馬の掛けた毛布にくるまって安心したような寝顔だった。有馬は欠伸をして、自分も少し疲労しているのだと感じた。
もう何時間も同じ体勢で、変わらず空を見ているばかりの有馬は、この部屋が止まってしまったかと錯覚する。部屋の外は慌ただしく、または穏やかに変化をしているというのに、太陽の眩しさはどこかに消え、代わりに空をじわりと滲むような茜、それから紺青に染めていくというのに、この部屋だけは空気すら止まっていると感じるほどに変化が無かった。もし変化があったとして、自分には見付けられないだろうと有馬は思った。
以前、どこかで聞いた、太陽が海に沈む美しさ。それはきっと咲々から聞いたのではないのだろう、雑誌か何かで読んだのか、友人の口から出たものなのかは覚えていない。しかしその美しさをいつか見たいと思ったことを、有馬は確かに記憶している。東向きの窓からではその光景は見られず、少し残念に思う。
気付かない速さで日は傾いていき、やがてふわりと海に触れると大きな塊は溶けていく、太陽の持つエネルギがそのまま水と混じりあって、小さな波はそれを浜辺まで流すことも出来ない。夕日は空と海とを少しずつ変色させ、代わりに自らを果てに落としていき、そして最後には深い深い夜の闇に包まれてしまう。
そういった景色を、有馬は空想することが出来る。しかしそれは何かしらから得た情報で作り上げた虚像に過ぎず、実際にこの目で見た経験は一度も無い。だから抽象的で、曖昧で、頭の中だけの、継ぎ接ぎの景色でしかない。有馬は意味のない風景を頭から切り離す。
ひなたが毛布の下で僅かに身をよじる。足をくの字に曲げ、両手を胸の前で重ねて横向きの姿勢で、変わらぬ寝息は有馬の耳に届かない程に小さく、また有馬の位置からは彼女の寝顔は確認できない。有馬は再び窓の向こう、海と空と町とが夜に浸されていくのを眺めながら考える。
ひなたに、どう言うべきか。彼女は恐らく、頼りなく揺れている。どうするべきかを決められないでいるから、あやふやに、有馬とこうして同じ部屋にいるのだ。危うい、と思う。何かの切っ掛けであるいは、という考えが過る。
家族や友人といった、ひなたを想う人達と共にいられることは、有馬がどれだけ言葉を尽くしても完全に伝わったりはしないだろう。そういうものは、きっと失ってから気付くという特性を持っている。それは咲々が言っていたことで、有馬が咲々から学んだことでもある。ひなたがこの地で生きようとすれば、それはすぐに思い知ることなのだろう。問題は、そうと知るまでに彼女が傷付いたり、後戻りが出来なくなったり、何かを失うというリスクを伴うことにある。大切なもの、大切な誰かの存在の大きさを知るのは重要だとしても、その機会は今ではない。別の場所で、別の形で、彼女がもっと成長したときであるべきだ、と有馬は考えていた。
すっかり暗くなった部屋に、窓から弱い光が入ってひなたを優しく照らしている。それは月よりも強い、太陽よりも脆い、町の明かりだった。窓の側、壁に背を預けている有馬はその光に作られた影に埋もれていたが、立ち上がって照明のスイッチを入れ、人工的な眩しさの中、ひなたの肩を揺する。
「そろそろ起きろ、もう間もなく夕飯の時間だ」
ひなたは明るさと有馬の声を嫌がるように顔を畳に押し付けていたが、やがて目を開けると眠たそうに伸びをして、それから有馬を見た。
「優人、おはよう」
「ああ。寝坊だな、ひなた」
ひなたは目をぱちぱちとさせた後に軽く笑い、欠伸をしてから起き上がった。そして毛布を畳むと優人に簡単な礼を言い、また伸びをした。気分は優れているようだ、と有馬は思った。
夕飯を食べ終えたひなたは腹をさすっていた。
「何かなぁ、食っちゃ寝しとる気分やわ」
「実際そうだろう」
有馬は自分の荷物を探って何かを取り出す。それは肩掛け鞄だった。中身を確かめてからひなたの方を向く。
「ひなた、僕はこれから川を見に行く。一緒に行くか?」
ひなたはさする手を止めて、有馬の顔を、目を、その瞳の奥を見る。彼の中の決意を確かめるように見つめ、有馬に聞いた。
「こんな時間から? もう明日にしたらええんちゃうの?」
「こんな時間からだ。ひなたはここに残っていてもいい、外は寒いだろうから」
ひなたは少し考えるように天井を見て、有馬に向き直してからゆっくりと頷く。
「行く」
「そうか、それならば準備をしろ。それから、これを」
有馬が手渡したのは、使い捨ての懐炉であった。ひなたはそれを受け取ると、懐炉と有馬を交互に見、それから上着を手に取った。