十三
熱い湯の中で有馬は背中を伸ばす。小さな子供とその親らしき声が響き、あるいは老人の話し声が聞こえ、それらは静かさを消しながら五月蝿くもなく、有馬を包む。
咲々がいなくなってからのことを、有馬は思い返していた。多くの時間が勉学やアルバイトといったものに割かれ、特別な思い出というものが無い。あるのは無味無臭の記憶だけだった。時折咲々のことを考える以外は、ただ生きているばかりだったようにも思える。
咲々を引き留めなかったことを、後悔はしていない。ただ彼女のいない生活があまりにも淡白に感じてしまって、有馬は他の客に気付かれないように笑う。今更ながらにそう思えるのは、やはり東京を離れているからだろうと感じた。
有馬は服を着ながら、頭を横に振って咲々のことばかり考える自分をどこかにやる。ひなた、あの幼い彼女を家に帰すことを最優先に考えなければ。
もう彼女の意思がこの地で独り生きることに向いていないのは明らかだが、まだ京都の家族に傾いているかはわからない。僕がひなたの、その意識の方向転換を邪魔してはならない。他のどんなことよりも、彼女には彼女を大切に想う人間のことを考えてもらわなければ。
有馬は長椅子に座り水を飲みながらひなたを待った。喉から胃へ、冷たさが落ちていくのを感じる。それは有馬の熱を柔らかく砕き、混じりあっていくように身体中に浸透していった。汗をかいた分、水分を欲しているのだろう、感情とは別のところで、肉体は正常に作動していることを実感する。
ひなたを待つ間、彼女にどんな説得をすればいいのか、それだけに集中した。彼女だけではない、彼女の家族にとっても、また学内での友人、教師にとっても、彼女が一日でも早く帰ることは最良に思えるのだが、しかし有馬はその方法を見付けられない。自分のどんな言葉がひなたに届くだろう。有馬にはわからないでいた。
それでも考えることをやめなかったのは、単に駅で彼女を庇った責任を感じているだけではない、今は有馬自身がそれを望んでいるからだと、彼は知っていた。何よりも自分の為に、暖かい場所に戻ってほしいと願っていた。それはあるいは、彼女を身代わりにしているのかも知れなかった。
「優人」
ひなたは弱々しい笑顔で手を振りながら有馬の隣までやってきて、大きく息を吐いた。顔が赤く、疲れているようにも見えた。
有馬がペットボトルを手渡すと、ごくり、と一口飲んでからまた息を吐く。気怠そうに天井を見つめ、ああ、と声を出した。
「ちょっと欲張ってもうたわ。色んな種類のお風呂あんねんもん、全部味わいたいやん。ほんでも、やりすぎはあかんね、適度が一番やわ」
「暫く休もう」
ひなたは力無く笑って、もう一度水を飲んだ。少しのぼせたのだろうと思い、有馬はもう一本水を買ってきて彼女に渡し、ゆっくり飲むように言う。ひなたは目を閉じたまま頷いて、冷えたペットボトルを額に当てた。
ひなたは時々水を口に含むだけで、何も言わず、呼吸を整えるようにじっとしていた。そんな彼女を見て、今はまだこのままにさせておこうと考え、有馬は黙ったまま肩に体重を預けるひなたの回復を待った。こんな状態でどんな説得が届くというのだろう。
二人の沈黙で時は進む速度を緩め、周りの雑音から切り離されたように二人だけが静かだった。それは有馬にとって心地よいと感じるもので、ひなたもそうであればいいと思った。
三十分程そうやって座っていただろうか、ひなたが有馬から離れ、両腕を上にして、伸びをした後、有馬の顔を見た。
「優人、有り難う。もう平気や」
「そうか。何か食べられるか、それとももっと後にするか」
「うん、せやね、食べていこか。お昼も過ぎてもうてるし、あんま重いのは無理やけど、丁度ええし、来たときあんまお店無かったしな」
有馬は立ち上がってひなたに手を差し伸べる。その手を握る彼女の力は強く、顔の表情も先程よりは自然に笑えていると判断した有馬は、ひとまず安心した。
施設内にある食事処で簡単な昼食を取った後、二人は一旦宿に帰ることにした。有馬はひなたの体調をまだ一応は気にしていたし、ひなたは腹を満たすと僅かな眠気を訴えた。
来たときとは違い、寄り道をしないで宿を目指して歩く。風は益々強く感じ、空は益々寒さを増しているように見え、ひなたは目を擦って有馬のすぐ横で終始何気無い話をしていた。
「ああ、何か凄い布団が欲しいわ、今やったらむっちゃ眠れる気ぃするわ。な、寒いくらいが一番気持ちええやんな、寝るときは」
「宿に着いたら、少し寝たらいい。遅くとも夕飯の時間には起こしてやるから」
「それもええなぁ。ちょっと勿体ないけど、うち、きっと寝てまうわ」
行きよりもずっと短い時間で宿に辿り着いた二人は、玄関にいた従業員に軽く挨拶をする。ひなたの眠たそうな顔を見て、にっこりと笑い、腰を落として目線を合わせて何事かを話すのを有馬は黙って見ていた。ひなたは有馬をまた兄と呼んで、二人の関係性を誤魔化していた。
「温泉は気持ちいいものですが、思いの外体力を消耗しますからね」
「その様ですね、妹はさっきから眠そうに歩いていました」
「もうお部屋の掃除は終わってますので、妹さんとゆっくりお休みになって下さい」
ひなたと並んで礼を言い、その場を離れようとしたとき、その従業員が思い出したように有馬に話し掛けた。
「そういえば、ご出発は明日の予定でしたか。確か、ご滞在の期間が延びるかも知れない、とのことでしたが」
「ええ、明日です。予定に変更はないと思います」
「承知致しました」
二人は部屋に入る。途端にひなたは畳に寝転び、着ていた上着を自分の体に被せてすぐに眠ってしまった。
目的が今日果たされるかどうか、ひなたの意思が今日実家に向くかどうかは、まだわからない。しかしいざとなればまた別の宿を探せばいい、他にも似たような所を有馬は見付けていたし、そのうちの全てが満室と言うこともないだろう、と考えていた。いや、自分の目的は、咲々の見たがっていた川は、恐らくは今日にでも見ることが出来るだろう。後はひなたの意思次第だ。
有馬はひなたの寝息を聞きながら、咲々のことを思い出しながら、窓から空を見上げて、小さな雲が流れていくのを、ただ眺めていた。