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祈りの川  作者: 白熊猫犬
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十二

 それは秋の終わりが枯れ葉の落ちる速度で近付いてくる日だった。高校三年生で、上手くいけば来年には大学生となれるという期待と不安と焦燥とが教室を支配している時期だった。

 二人は並んで帰路につく。教室や図書室に居残っている生徒も多く、有馬や咲々も時々はそうしていたが、彼等はそれをあまり意味のあることだとは感じていなかった。有馬は、人のいない場所で、他人の声のしない場所で参考書を開いている方がずっと効率的だと考えていたし、咲々は誰かがいるとつい話をしてしまう性分だった。

 木枯しが咲々の髪を乱し、それを手で押さえる姿を有馬は横目で見た。いつまでも記憶に留めておきたいと思った。

「優人くん、相談があるの。ううん、相談、じゃなくて、聞いてほしいことがあるの。ずっと言わなくちゃって思っていたことなの」

 彼女はいつも通りの声色で、いつも通りの口調で、いつも通りの穏やかな表情だった。有馬はいつも通り黙って頷いて、咲々の聞いてほしいという内容を待った。いつも通りでなかったのは、咲々がなかなか話を切り出さなかったことだった。有馬の顔を見たまま、何度か口を開いては閉じ、誤魔化すように笑っていて、それは有馬の記憶の中に無い彼女の姿だった。

「私、優人くんとこれ以上一緒にいられないかも知れない」

 彼女の告白は冬の到来と同時だと、有馬は感じた。その言葉は彼の体の奥、感情の一番深いところに落ちて冷たい塊になった。

 何も言わないで待っていると、咲々はゆっくりと続けた。

「あのね、私、高校を卒業したら海外に行くかも知れないの。初めてその話が出たのは、ええっと、夏頃だったと思う。先生が奨めてくれて、両親もそれを喜んでくれたの。でもこれまでそんなこと考えもしていなかったから、それで今までずっと決断が出来ずにいるの」

 咲々は町の何も見ないで、ただ有馬の表情を、有馬の瞳を見ていた。自転車に乗る学生の話し声が過ぎ去り、車のエンジン音が遠ざかり、風が二人の体を、二人の心を強張らせる。有馬は何も言えないまま彼女の横を歩き続けた。

「海外留学ってお金も沢山必要だし、私の家がそんな簡単に承諾出来るほど裕福でもないと思うんだけどね、お父さんもお母さんも、こういう機会は滅多に無いのだからって言ってくれたの。

 でもそれじゃあ優人くんとも、他の友達とも会えなくなっちゃう。こっちには年に一度帰ってくるかどうか、くらいになりそうだし、その時だって家族に会ってすぐ戻ることになると思う。それはやっぱり嫌だなって思って、それに海外に行って得られるものと、ここに残ることでしか得られないものとがあるはずで、私はそれらを天秤に掛けてどちらに傾くのか、それがわからないでいるの。

 ねえ、優人くん、何か言ってよ」


 葉の少ない街路樹が立ち並ぶ並木道は、昨日までと表情を変えない。よく見れば、咲々がいつもするように注意深く観察すれば、昨日とは、今朝とは、一秒前とは違うところもあるのだろうけれど、その微細な変化を有馬は見付けられない。見逃しているし、見落として構わないものだと思っていた。

 彼女無しでは、この町のゆっくりとした変化、あるいは変化せずに在り続けるもの、それらを感じ取ることも出来ないことを有馬は知っていた。咲々がいてそれは初めて意味を持ち、色を持ち、有馬に認識される。

「咲々、君はどうしたい? それを聞かせてほしい」

 漸く有馬は言葉を発して、それは咲々の足を止めさせた。寒さの為か頬と鼻先のほんのりと赤くなった彼女はその時に自分の心が彼に伝わっていることを知った。

 咲々がこの件について、海外に行くにしろ、行かないにしろ、その理由を他に求めている、そのことに有馬は気付いていた。言い訳を探して、大義名分を求めていた。

「私……は、そう、行きたい。行ってみたい。だって今までよりもっと沢山のものが見られるの、きっと。景色や文化や、その場所に生きる人達の価値観。そういうものが、多分これまでよりずっと新しい色で私の目に映るの。

 私はそういうものに出逢えることがとても好きで、いつも優人くんと一緒になってこの町を歩いているだけで色んなものに出逢えるのだけれど、だからといって別の世界が見たくない訳じゃなくて、そう、もっと一杯見たい、世界を。

 でもそれは痛いの。体が裂けてしまうの。だって……だって優人くんと、離れ離れになってしまう。それが辛いの」

 咲々は堰を切ったように喋りだした。それは涙の代わりに溢れ、白い息と一緒に生まれたばかりの冬の空に落ちていった。しかし彼女の声は変わりなく穏やかで、その表情も柔らかかった。

 咲々が空を見上げて、有馬もそれにつられるように上を見る。薄い雲の引いた空に鳥が二羽飛んでいた。あれは、どこから来たのだろう、どこへ行くのだろう、今は並んでいるように見えるけれども、目的地は同じなのだろうか、二羽の意思はどうだろう、と、意味のないことを考えた。

「咲々がそう願っているのなら、そうするべきだと思う」

「優人くんは、私と離れてしまうのが悲しくないの」

「悲しくはない。ただ寂しいと感じるだけだ」

 出来るなら付いていきたい、と有馬は一瞬だけ感じた。しかし彼はそんな思いを口にも出さないし、表情にも出さない。

「咲々と未来永劫会えなくなるということでもないし、仮にそうなったとしても君が完全な不幸になる訳でもない、だったら僕は君の背中を押すよ。それはつまり、君がそう願っていることだろうから」

 有馬は咲々を好いていて、そしてずっと咲々を見てきた。だから彼は彼女の本心がそうであると理解して、彼女の望む言葉を差し出した。


 坂になっている狭い路地を二人は歩く。いつも五月蝿く吠えていた犬の鳴き声が今日は聞こえず、散歩に出掛けているのか、町を震わす寒さの為に犬小屋に閉じ籠っているのか、と有馬は考えた。

「きっと手紙を書くわ」

「うん」

「ちゃんと返事も書いてよね、優人くんは筆不精だから不安だわ」

「わかった」

「もし時間とお金があったら、遊びに来てくれたら嬉しい」

「時間と金があればね」

 咲々は自然に右手を出して、有馬は当然のようにその手を握る。いつもの二人の、いつもの動作だった。咲々が有馬の左手を強く握り返す。

「いつか、何年後になるかわからないけれど、私がこっちに帰ってきたとき、また私に会ってね」

「ああ、きっと会おう。その時には今以上に、話したいことが沢山あるだろうから、僕にも、咲々にも」

「あのね……凄い我が儘な、卑怯な約束をさせて。私は、いつまでも優人くんのことを好きでいたいの。だから」

「それが守られるかどうかは、僕にはわからない。でもそうしようと努力する」

 彼女の言葉を遮るように、有馬は口を開いた。言葉にせずとも、繋いだ手から彼女の意思が伝わるかのようだった。

「僕はこんな曖昧な口約束を贈ることしか出来ない。でもそれは今の僕の全てなんだ」

 咲々は小さく頷いて、有馬の体にぴたりと寄り添い、はあ、と息を吐いた。それはすぐ散り散りになり、冷たい空気の中に消えてしまった。

「有り難う。そう言ってくれて、とても嬉しい。そう言ってくれる優人くんが、私は好き。私をちゃんと突き放してくれて、それでもそんな言葉をくれる優人くんが、大好きです」

 そのように有馬と咲々は二人の関係を終わらせた。二人の望んだように二人は別れ、別の道を歩くことを決めた。涙もなく、諍いもなく、普段通りの穏やかな世界だった。

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