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祈りの川  作者: 白熊猫犬
11/16

十一

 僅かにでもあった賑わいは北に行くにつれて消え、民家ばかりが静かに連なっていた。車の往来はあったが歩行者の影は無く、エンジン音と風だけが聞こえる町で二人は淡々と歩いていた。

 ひなたは先程からずっと黙ったままで、有馬の後ろを付いて歩いていた。有馬の事情を聞きたい、しかし聞くことは出来ない、さっきそれを拒絶されたのだ、という思いが彼女の口を閉ざさせているのだと有馬は気付いた。そしてそれがひなたに余計な想像をさせているのだとも感じ、有馬は彼女を安心させたいと思った。

「ある人とは、僕と同い年の女だ。名前を川澄咲々という。澄んだ川に咲いて重なる、と書く」

 ひなたはその言葉に頭を上げて、有馬のすぐ隣に行き、彼の横顔を見た。そんなひなたを、有馬も見る。不安と、後悔と、興味とがない交ぜになった表情が、そこにはあった。

「僕と彼女はよく町を歩いていた。丁度今、僕とひなたがそうしているように、目的地も、急ぐ必要もなく、ただ歩いていた。

 咲々はごく普通に存在しているものを好んだ。塀の上でじっとしている野良猫であったり、道に枯れ葉の落ちる様子であったり、路地裏で子供の走り去るさまであったり、僕が普段気にも留めないでいるものに感動していた。そしてその時感じたことを全て言葉にして伝えてくれた」

 彼女の歩みは遅く、その歩調に合わせて時間もゆっくりと流れ、だから彼女は他の誰よりも沢山のものに触れているかのように感じたことを思い出す。咲々が道の途中で立ち止まったとき、有馬にはそこに何もないように思えるのだ。しかし彼女の指の示す先を見て、彼女の好きという言葉を聞くと、そこにはとても温かいものがあり、それは途端に色付いて、彼の目に飛び込んできた。

 有馬にとってそれは常に新鮮な驚きで、咲々の柔らかな笑顔がセットになって、いつまでも彼の心に刻まれた。

「その、川澄さん? その人と、優人の旅行と、どんな関係があるん?」

 ひなたはまだ何かに怯えているような、踏み込んでいいのかと思案するような、か細い声で聞いた、意図してのことなのか、有馬の方を見ないまま。

「咲々が、見たいものがある、と言ったのだ。この場所ならそれが見られると。彼女がそんなことを言うのは稀で、だから僕もいつか見てみたいと思った。

 僕も来年には研究室に配属されて時間も取れなくなるし、その後もどんどん減っていくだろう。そう考えて、この時期に、突発的にここまで来た。

 もし僕が寂しそうに見えるのならば、それはきっと咲々と一緒に見られないからだと思う」

 ひなたは、有馬にも聞き取れない程小さく「そっか」と呟いた。風が有馬のマフラーを揺らした。


 二人は時々横道に入ったり、また元の道に戻ったりを繰り返しながら、ゆっくりと北上していた。有馬が勝手に曲がり、ひなたは彼の後を追うばかりだった。

 有馬が右へ左へと気ままに歩くのは咲々がそうしていたからで、いつの頃からか彼も癖になっていた。

 南国を思わせる街路樹、すっかり錆びきったシャッター、蔦の這う塀、夜になるのをじっと待っている丸形の街灯、赤茶の煉瓦、電信柱に貼られた広告、手入れの行き届いた民家の庭、朱色の鳥居、ずっと遠くに見える山などを見ながら歩き、歩きながら咲々はどういう感想を持つのだろうかと考えていた。咲々は一体、この景色のどんなところに感動するのだろうか、と。

 有馬はひなたに、咲々のことを話した。それは彼女と見た景色であったり、日々の何気ないやり取りであったり、彼女の口癖であったりで、ひなたは何度も頷きながら聞いていた。

「あんな、聞いてみたいこともあんねんけど、聞いたらあかんてわかっとんねん。せやけど一個だけ教えて。その、川澄さんが見たがって、優人が見たがってるもんて、何なん?」

 ひなたは下唇を噛んで有馬を見た。何かを怖がっているようにも見えた。

 有馬は上を見て、空を見て、雲を見て、それから言った。

「川だ。僕は川を見に来た」

「川? 川て、何個かあったけど……それとは違うん、やろね」

「違う」

 有馬は咲々のことをひなたに聞かせながら、咲々と交わした最後の言葉を思い出していた。あのときの自分も、寂しそうに映ったのだろうか、自分の心はどんな表情であっただろうか、と。

 しかし思い出されることと言えば咲々のことばかりで、有馬は苦笑いをした。それを見たひなたも、訳もわからないまま同じように不自然な笑みをつくった。それは彼の気持ちを少しでも共有したいと願ってのことなのか、今の二人が仄かに感じている居心地の悪さを紛らす為だったのかは、それを見た有馬にも、ひなた自身にもわからないことだった。


 二人はそれから温泉施設を発見した。角を曲がったらそこに突然建物が現れたかのようだった。そこは二人が朝に行ったところとは異なり、大きく、新しく、また駐車場も広く、停まっている車の数も多く、飲食店もある、複合施設のようだった。草木に囲まれた土地でこの建物だけが異様に思えるほど人工的だった。

 ひなたがまた温泉に入りたいとせがんで、有馬の腕を引っ張る。大袈裟に、何かを隠すように。有馬は頷いて、二人でその建物の中に入った。丁度肌寒さを感じていたところだった。

 ひなたと集合場所を決めてから別れ、男湯に向かう。人が多く、内装は明るく派手すぎず、有馬は今の自分がこの場所にあまりに似つかわしくないことを窮屈に感じた。子供が有馬の足元を走り抜けていった。男の低い笑い声が響いていた。

 体を洗いながら、咲々のこと、ひなたのこと、有馬自身のことを考え、しかしどうしても咲々の顔ばかり浮かぶ自分の愚かさに思わず溜め息が出る。まずはひなたのことを考えなければならないとわかっているのに、少女に心配までかけてしまって、それなのに。

 有馬は自分を知った。誰かに自らを吐き出したいという自分がいることを知った。頭から水を被り、その感情が流れてくれないものかと願ったが、記憶の中で笑う咲々の顔がよりクリアになるばかりだった。

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