十
有馬は建物の前に立ってひなたが出てくるのを待った。皮膚に感じる冷たさが気持ちよく、朝の終わった町は静かで、空は高く青く、有馬は雲のゆるりと流れていくさまを眺めていた。
十分ほどの後、ひなたが暖簾をくぐって出てきた。昨日と同じように顔を紅潮させて、昨日より笑顔だった。
「ちょっと遅なったわ。ごめんな」
「それほど待っていない」
「ほんなら良かった。いやぁ、無茶苦茶気持ちえかったわぁ。しかもあれやね、明るいうちから入るっちゅうのも、また格別やね。贅沢って感じ、するわぁ。な、優人?」
有馬は頷いてから歩き出した。ひなたはつまらないといった内容の文句を有馬にぶつけながら、彼の後に続いた。
「どこか行きたいところ、やりたいことはあるか」
「うぅん、温泉にはまた入りたいねんけど、それはもっと後でええし。なあ、優人は何かないん?」
その言葉で有馬は立ち止まり、考える。自分の行きたいところ、やりたいことが、あるのだろうか、と。少なくとも今は、ひなたが満足してくれたらそれでいいと考えていたし、その為に今日を使うつもりだった。
「ほら、言うとった、見たいもん? それはええの?」
「それはいい」
頭を上げて通りを見渡す。人通りは少なく、晴れた空は広く、有馬には馴染みのない町がそこにはあった。どこを歩いても、どこを曲がっても、また新しい場所に出るだろう。それは有馬にとって、とても魅力的に思えた。何故そう思うのか、という自問が一瞬だけ浮かんだが、それに対する答えは明白だった。
咲々がいたら、きっと喜ぶだろうと思ったからだった。
立ち止まったままの有馬の顔を、ひなたは不思議そうな目で見上げていた。その沈黙がいつもとは少し違うように感じた彼女は、彼がどこかへ行ってしまうのを防ぐように、弱々しく彼の服の裾をそっと掴んだ。
有馬がひなたの方を向き直すと、その手は有馬の服から離れ、安心したように胸に両手を重ねた。
「特に行くあてもなく歩こう。何か興味のあるものが見付かればその都度そこに立ち寄ればいい」
ひなたが嬉しそうに大きく頷いてから、どちらに向かうかを二人で相談した。
「折角近いんやし、海見ようや」
ひなたの一言で、海沿いを歩くことが決定した。
東に少し歩くと、すぐに視界が開け、そこには大きな青い海が広がっていた。波の音が有馬の想像よりも大きく、遠くの方に島か何かが見え、ひなたは嘆声をもらした。
観光客か、あるいは地元の人間なのか、中年らしき男性が一人、海の方を向きながら歩いている他に人の姿はなく、吹く風が寂しさを募らせる。海沿いの道を北に歩いていると、海中足湯と書かれた立て札が見えたが、有馬が堤防から海を覗き込んでもその在りかは判別出来なかった。どこにあるのだろうと、不思議そうな顔をしたひなたと見合わせ、互いに少し笑った。
「ええ感じやね」
「そうか」
「せやねん」
短い会話のやり取りが、有馬を僅かに穏やかにさせる。自分自身、目の前の少女にいくらか心を許しているのだなと気付いて、彼女から目線を外した。昨日よりずっと自然に彼女と接している自分は、やはり人恋しさを覚えていたのだろうか。そしてそれは、咲々が今ここにいないことに因るのだろうか。
有馬は再び海を見た。そして晴れた空を見た。境界ははっきりとしており、深い暗闇に続くような青さ、透き通る突き抜けた青さ、それらは遠いところで交わることもなく、小さな漁船らしきものが何艘か浮かんでいるのと、小さな雲がぷかりと浮かんでいるのとが、互いに違う場所にあって、しかし同じように穏やかに見えた。
大きく深呼吸をすると、鼻孔に潮の香りが届き、今ここにいると実感する。海と空とが目の前にあって、それは写真や思い出の中でなく、有馬のすぐ近くに、確かに存在しているのだと思わせる。
風は強く、冷たく、彼はマフラーを首に巻いた。温泉で温まった体が、また少し冷えてきた。
「風、冷たいなぁ」
ひなたも寒そうに肩を抱いた。二人は黙ったまま、海に背を向けた。
改めて宿のある通りに出た有馬とひなたは、どちらが言うでもなく北に向かって歩いていた。途中、自動販売機で温かい飲み物を買って暖を取った。ひなたの口数は先程までと比べて少なく、それはきっと海の寂しさにあてられたからだろうと有馬は推察していた。
「優人、あんな」
大きな交差点に差し掛かり、車の通り過ぎるのを待っていたときだった。ひなたは小さな声で有馬を呼び、彼が反応しないことを気にしないまま続けた。
「昨日も思ててんけどな、優人、なんでそないに寂しそうなん? うちのこと見てへんとき、いっつも泣きそうな顔しとるやん。宿でも、さっきもそうやった、空を見て、なんやうちからも、他のことからも遠いところにおるみたいやった」
有馬が口を開くまで、ひなたは気まずそうに俯いたまま、両手で空き缶を握り締めていた。有馬は、彼女なりに心配していることを感じ取った。恐らくは昨日、明かりの消えた部屋で伝えたかったことを、彼女は今、口にしたのだろう。
「ひなたがそう感じたのは、僕がある人のことを考えているからだと思う。しかし僕は元々こんな人間なのだから、何も気にしなくていい」
有馬は立ち止まったまま、ひなたの方を向くこともなく答え、自分は普段、どんな表情でいただろうかと考えながら歩き出した。
ひなたは有馬の背中を見て、こくり、と頷いたが、まだ曇った表情で、横断歩道を渡る有馬を追いかけた。