かたつむり
外から聞こえる虫の鳴き声。肌寒い空気。
私はこの時期にしては薄い掛け布団にくるまって、身体を丸めていた。
まるで、かたつむりみたいに。
「感情なんて、ない方が楽だわ」
私がそう言った時の、彼のきょとんとした顔を、今でも鮮明に覚えている。彼のその表情に、反応に、私の方がきょとんとした。
――感情なんて、ない方がいい。人間なら、誰でも一度は考えたことのある話だと思っていたからだ。
「どうして、そう思うの?」
予想通りの彼の反応に、私は力なく笑った。
「感情があると、色々辛いからよ」
私が自分の左手首を引っ掻きながら言うと、彼は私のその手をそっと握った。
「――俺は、感情があってよかったなあって、思うよ」
ゆっくりとした彼の口調は、彼の人間性も表しているようだった。おおらかで、朗らかで、寛容で。
私とは正反対だ、といつも思う。
ロボットのように無機的に生きてきた私とは、違う。
なのにどうして彼は、私の冷たい手を掴んでくれるのだろう。
「感情があるから、笑えるし、楽しめるし、――誰かを、好きになれる。愛し合える」
「……好きかどうかは知らないけれど、動物だって性交するじゃない」
私が言い放つと、彼は首をかしげて笑った。困ってる時、照れている時、彼は首をかしげて笑う癖があった。
「そうだね。でも、」
――あの時彼は、なんて言ってた?
蝉の鳴き声。入道雲。大きな青空。
救急車のサイレンの音。
かたつむりになった、私。
「――なんで死んじゃったの?」
枕に顔を押しつけて、ここにはいない相手に向かって言う。もう二度と、届かない言葉。
外から涼しいそよ風が吹いて、濡れた頬と枕が冷たくなった。
私の方を見て、眼を細める彼も。
いつもはねていた彼の前髪も。
首をかしげて笑うそのしぐさも。
柔らかな口調も。なにもかも。
なにもかもが、愛おしかった。
私が感情を捨てていたのなら、こんなに泣くことはなかっただろう。
辛いとも悲しいとも思わなかったはずだ。
誰かを愛することも、なかった。
外から聞こえる虫の鳴き声。肌寒い空気。
私はこの時期にしては薄い掛け布団にくるまって、身体を丸めていた。
まるで、かたつむりみたいに。
布団の中にかすかに残る彼のにおいと体温が、消えてしまうのが怖かった。
「……私、感情があったから」
枕から顔をあげて、ここにはいない彼に、
「あんたのことが、」
伝えようとした言葉は、涙になって頬を伝った。
私は、これからも生きていくから。
あなたのいない世界で、生きていくから。
だからせめてもう少しだけ、あなたの中で泣かせて。