シジミ
悩みがある。
三十路を超えた大の大人が女々しい……そういわれてしまえば、それまでなのかもしれないが、自分にとっては死活問題なのだから仕方ない。
グレーシア薬品工業株式会社神奈川支部MR、新城愛梨は、人知れずため息を吐いた。
悩みの種は、もちろん二ヶ月前に結ばれた六歳年下の恋人で……自分は彼に告げなければならないことがある。
どうせ相手も薄々気付いていることなのだから、うじうじ悩んでいないでスパッと告白してしまいたいところだが、それを告げて今の関係が崩れることが恐ろしい。
自分よりも自分自身に敏い真田に、何かしらきっかけを作って欲しいと、新城は彼女らしくもない他力本願なことさえ考えていた。
仕事を終えてマンションに戻ると、ドアの鍵が開いている。いつもなら、恋人の来訪に自然と笑みが湧いてくるのだが、このところは彼の来訪が嬉しいのに素直に喜べない。自分が心に秘密を抱えているばっかりに。
一つ小さく息を吐いて、新城はドアを開けた。
「ただい……なに、これ?」
しかし、真田のおかげで口にするようになった独り身にはどこかこそばゆい習慣を呑み込んで、新城は不可解な声を上げる。
狭い玄関を上ったすぐ先の廊下の幅半分を占める、ブルーのクーラーボックス。釣り人が使うようなそれが、存在を主張していた。
「お帰りなさい、愛梨さん。今日は鶏肉のバター炒めにしてみました。よく合う白ワインも用意してますよ」
向かって右側のダイニングキッチンへと続くドアから、ヒョコッと真田が笑顔を覗かせる。新城がすぐに返事を返さなかったのは、彼が身につけていたレースの縁取りのついたピンク色のエプロンでも、両手にはめた可愛らしいブタさんの鍋つかみのせいでもない。それもどうかと思うが、そんな姿もこの二ヶ月ですっかり慣れっこになっていた。
「ねえ……これ、一体なんなの?」
「ああ、シジミです」
「……シジミ?」
相変わらずの笑顔であっけらかんと答えた真田に、新城はさらに小首を傾げる。
「川島病院の院長先生におすそ分けでもらったんですよ。昨日の日曜日、ご家族で潮干狩りに行ってきたんですって。今、砂抜きしてるんです」
ほら、と件の鍋つかみを外して、クーラーボックスを開けてみせる。そこには、確かに大量の小さな焦げ茶色の貝が塩水に浸されている。
「あと三時間もすれば調理できますから、明日の朝食用にお味噌汁作っときますね」
お味噌汁、という単語に反応したのか、「ぐぅー」と腹の虫がなってしまい、新城はしまったと赤面するが……。
「早く上って下さい、愛梨さん。ご飯にしましょう」
真田は嬉しそうに笑ってそんな彼女の身体をふわりと抱きしめると、再びブタさん鍋つかみを両手にはめてキッチンに引き返していった。
最近、ゲリラ豪雨が続いてジメジメと鬱陶しいことこの上ないが、部屋の中は適度な温度と湿度を保たれ、鼻腔を突く温かな夕食の香り……恥ずかしいより前に、新城の口もとは無意識に綻ぶ。望むより先にちゃんと抱き締めてくれる六歳下の恋人の存在は、新城にとって何よりも心の癒しになっていた。
つい二ヶ月前に結ばれたばかりの二人にとっては、今はまさに蜜月満開のとき……いい大人が、恋が成就したからといってそんな大層な盛り上がりも何もないと思っていた新城だったが、自分の身の上となれば、全く別だった。
十代に立ち返ったような、まるで初恋のような地に足の着いていないふわふわした高揚感……この自分を喜ばすことにかけては一縷の隙もない後輩男に、紛れもなく溺れていた。
* * *
悩みがある。
成人してしばらく経つ大の男が女々しい……そういわれてしまえば、それまでなのかもしれないが、自分にとっては死活問題なのだから仕方ない。
のぞみ製薬株式会社神奈川営業所MR、真田千尋は大仰にため息を吐いた。
悩みの種は、もちろん二ヶ月前に結ばれた六歳年上の恋人で……最近、彼女が自分に隠しごとをしているのだ。
その隠しごとの内容どころか隠している理由までも、実は大体予想がついているのだが、それを告白してくれないことが哀しい。
すべて分かっているなら自分から切り出すのが一番の手なのだろうが、それも何だか切ない……あくまで自発的に、新城の口からそれを切り出して欲しかった。
そんなわけで神奈川営業所では、難しい顔をしてパソコン画面を睨む下っ端MRがいた。
「……今度は何だと思う?」
「……っ、……なぁに?」
「あれ? ……茜さん、気付いてなかった? 朝から真田、随分不機嫌そうじゃない?」
真田の同期MR、得意先の女医さん達にはその甘いベビーフェイスが大受けしている山田から仕かけた背中越しの密談に鈍い反応を見せた茜……彼は不思議そうに問いかける。
「……どうでもいいかな、どうせ新しくできた彼女さんと痴話喧嘩したとかそんなトコじゃないの?」
「ま、確かに……けど、茜さんもちょっと冷たいんじゃない? ……あっ……それとも、チヤホヤされなくてちょっと面白くない?」
「……っ、私そんなに心狭くないわよ」
「じゃあ、よかった。僕だって、ずっと茜さんのコト、いーなーって思ってたから」
「……っ、えぇっ?」
「マジ、マジ。真田が分かりやすく茜さん狙ってたし、あんまり表立ってはって思って黙ってただけ……でも、もう本気出していいよね?」
「ほっ……本気って?」
「僕は真田と違って人畜無害じゃないってこと、茜さんよく知ってるでしょ」
天使と称される笑顔が妙に腹黒そうに見えるのは、果たして茜の気のせいだろうか……結局、真田が営業に出て行ったあとも、彼の噂話そっちのけで二人の攻防戦が続いていた。
その日、のぞみ製薬とグレーシア薬品工業の共同特許薬剤のプレゼンテーションが行われた。国内で特許が下りた同効用の薬剤は今回が初で、多くの医療関係者から注目を浴びている。神奈川支部でそれに先駆けた第一弾のプレゼンを任されたのは、グレーシア薬品工業の桐生敬一郎と、なんとまだ駆け出しのMR真田だった。新城と恋人関係になってからというもの、同業者ということもあってプライベートでも仕事を交えた会話もあり、その中からプレゼンのスキルを自然と学んでいったようなのだ。もともと物覚えもよく、気配りもできる彼は、めきめきと営業成績を伸ばしていた。ヘタレという不名誉な陰口も、最近めっきり聞かれなくなってきていた。
「たった二ヶ月見ない間に、随分スラスラ喋れるようになったじゃないか」
今回の大舞台も滞りなくこなし、人気のなくなった会議室で配布資料の後片づけをしていた真田に、持ち込みのプロジェクターを専用ケースに仕舞い終えた桐生が歩み寄ってくる。桐生はグレーシア薬品工業に中途採用で引き抜かれたのぞみ製薬の元エースMR、彼のヘッドハンティングに泣いた女子社員は星の数ほど……というのは大げさだが、それでもスラリとした長身にやや野性味のある整った顔立ち、気さくで人当たりのいい性格に会社一番の出世頭とくれば、本気で想っていた者も少なくはなかった。
「ありがとうございます、先輩。全部、愛梨さんのおかげですよ」
新入社員当時は教育係だった彼に褒められたことに、真田は嬉しそうに答える。
「愛梨さんねぇ……まさか、お前があの人とそういう関係になるとは思わなかったよ」
二人の関係を知っているのは、桐生と新城の先輩MRである村田だけだ。それも、彼の歓迎会の二次会のバーでしたたかに酔っ払った新城が二人に向かって盛大に惚気たせいで知ったという。真夜中も真夜中で当然寝ていた真田は、桐生の携帯に叩き起こされ、事の次第を聞いたときには、至極驚くとともに幸福感で胸が一杯になった。
「ところで、新城さんからはもう聞いた?」
「……まだです」
幸せな思い出に浸っていたところに投げかけられた問いかけに、真田は頭を振る。それとともに、上っていた口角はヘニャへニャと降下していた。
「だろうな、最近のあの人、全然覇気がないんだよ。暇さえあればため息吐いてるし。あの仕事の鬼がだぞ……お前のせいだ」
「えっ……」
真顔で言った桐生の言葉に、真田は小さな一皮目を見開く。
新城が隠していること……それは、来月頭、グレーシア薬品工業の京都営業所にエリアリーダーとして異動になるということ。女性としては、異例の栄転だ。
この蜜月満開のときに、とあまりに間の悪い辞令に何度神をなじったことか……しかし、新城の強いキャリアアップ思考を尊重するため、自分は笑って見送ろうと決めていた。今でさえ、週に一回会えればいい方、会えたとしてもたったの数時間という日々が続いているというのに、五〇〇Km以上離れた場所で何年も会えなくなるのは、正直耐え難い。
だからといって、真田には二人の関係を終わらせる気持ちはさらさらなかった。
そんな自分の気持ちを新城にも信じて欲しかった……信じて、自分に辞令のことを打ち明けて欲しかった。
「言い方は悪いけどさ、お前と新城さんは普通の恋人同士じゃあない。六つも年上ってこと、あの人は相当気にしてると思う。だから、今回のこともただの遠距離恋愛とはわけが違うんだ。仕事では即断即決できる新城さんでも、躊躇して当然だ……これを機に、お前との関係をなかったことにした方が、お互いのためじゃなかと思ってもしょうがないだろ」
「でも、僕は愛梨さんと別れるつもりはありませんよ。あの人を一人にすることなんてできません……あんな、寂しがり屋な人」
「寂しがり屋かどうかは俺には分からないけど、新城さんがお前とつき合い始めてから、随分と雰囲気丸くなったのは確かだな。俺への当たりは変わらないけど、あお、……村田さんには少し素直になったみたい。この前、普通に笑いかけられてびっくりしたって言ってたよ。それに、苦手な人だけど、俺も間違った方向に向かって欲しいとは思わないし。ただ、相手に言われるのを待つってのは、お前のケースではちょっとハードル高過ぎるかな……あの人は、それが二人の終わりの言葉になるって思ってるだろうからさ」
頭を振る真田に対し、桐生も最近の出来事を反芻するように斜め上に目線を移して言葉を紡ぐ。
「僕、ちょっと贅沢になってたみたいです。一緒にいる今があまりにも自然で自己完結しちゃってて、愛梨さんの気持ちを思い遣れてませんでした」
今晩、愛梨さんとちゃんと話し合います……そう口にした真田は、自分の思い上がりを気付かせてくれた桐生に対し、久しぶりにすっきりとした気持ちで笑みを向けた。
* * *
珍しく少し早めに帰宅した新城は、真っ暗な部屋に電気を点けながらひっそりとため息を吐く。
もう、ろくに時間がない。いつまでも、あの日のシジミのようにずっと口を閉ざしているわけには……真田が入り浸るようになってようやく生活感を感じるようになった簡素な部屋も、そろそろ引越しの準備に取りかからなければならない。
不安で堪らない。
自分の異動を機に、彼は関係を終わらせようと思っているのではないか? 自分の隠しごとに気付いていながら何も訊いてこないのは、そのせいなのではないか……そう思うと、不安で堪らなかった。
たとえ告白してきたのが真田からだったとしても、飛び抜けて容姿が優れているわけでも、年が若いわけでもない……ましてや、性格なぞ最悪としかいいようのない自分に、気付いたのかも知れない。
この二ヶ月の間、寄りかかり、ただ甘えるだけだけで礼一つ満足に口にしたことのない自分との関係の、不毛さと生産性のなさに。
「……こんなことなら、何も始めなければよかった」
服も着替えずにソファーにその身を沈めると、新城は覇気のない声で呟いた。
今さら一人で生きていけ、そんなことを言われたら堪えられない。
「……さん、……起きて下さい、愛梨さん」
「……っ……」
自分の名を呼ぶ声に、いつの間にか閉ざされていた瞼を上げると、新城の目の前には自分を酷く脆弱な悩みにとりつかせた張本人の、覗き込むような姿があった。
「……、……いつの間に来たの?」
「遅くなって済みません……食事まだですよね、すぐ作ります」
ぼんやりしている新城に真田は微笑み、屈めた上半身を伸ばそうとする。
「……あの、……真田っ」
新城は、咄嗟に彼の手を掴んだ。
「愛梨さん……?」
驚いたように目を見開いた真田は、自分の次の言葉を待つように動きを止めるが、新城は二の句を告げない。ただただ、揺れる瞳で真田を見上げるだけだった。
「……愛梨さん、無理しなくてもいいですよ……僕が言いますから」
「真田……?」
「京都営業所へのご栄転、おめでとうございます」
今度は新城が目を見開く番だった……彼は、決してこの話題には触れてはこないと思い込んでいたのだ。
「これでまた一段階段を上りましたね……本当に、おめでとうございます」
笑顔で言葉を続ける真田とは裏腹に、新城の顔が蒼褪めていく。
別れを切り出される……そう、思った。
「だから僕も、断ってきちゃいました……本社への異動の話」
だから、続けられた言葉には本当に意表を突かれた。
「こんなことを言ったら、愛梨さんは怒るでしょうけど……愛梨さんが京都で僕がのぞみの東京本社になると、全然会えなくなりますもん。それより、神奈川営業所にいた方がなんだかんだいって自由が利きますからね」
確かに、常の新城が聞いたなら公私混同も甚だしいと一発殴っていたところだが、その言葉に含まれる違えようのない自分への想いに、全てのアクションがとまってしまう。
真田、……ナニ言ってんの?
この異動を機に、別れたかったんじゃなかったの?
「僕は貴女と別れるつもりはありませんよ。死が二人を別つまで……じゃなかった、その後もずっとずっと一緒にいるって、約束したじゃないですか」
さらに決定的な言葉を口にした真田は、硬直している新城を安心させるように優しく抱き締めた。
「気付いていたのに僕が先延ばしにしていたせいで、不安にさせてしまって済みませんでした。こんなに幸せだっていうのに、僕はその先を求めてしまったんです……ごめんなさい」
「その、先……?」
真田の言葉に、新城は訝るような視線を送る。
「京都に会いにきて欲しいって、愛梨さんの口から聞きたかったんです。貴女が求めていたのは、会いにいきますっていう僕の言葉だったんですよね。お互いに同じことを求めていたのに、僕が自分のことしか考えていなかったから、不安な思いをさせちゃいました」
「……っ、真田」
「会いに行きます、毎日電話もします……寂しい思いはもうさせません」
欲しかった言葉を十分過ぎるほどに与えてくれる恋人の笑顔と抱き締める腕の強さに、新城の不安は完全に払拭された……。
* * *
梅雨明け間近の七月の空は、人間社会の雑多な悩みを全て吹き飛ばそうとするかのように、それは目に痛いほどに綺麗に晴れ渡っていた。
「山田君」
のぞみ製薬神奈川営業所事務所内の喫煙所にて、缶コーヒーを片手に目を細めて窓の外を見ていた山田の背中に、茜が声をかけた。
「へ……?」
振り返った鼻先に突きつけられたのは、有名グルメ雑誌……。
「ここのお店、やっと予約とれたから今晩六時に下で待ってるね」
綺麗な微笑みを浮かべ、ピンク色にネイルを塗った指先が示していたのは、都内某所のイタリアンレストラン……山田の記憶が正しければ、芸能人もお忍びで通う超有名店だ。コース料理を頼めば数十万は下らない、いわずと知れた高級店である。
「さすがは独身貴族よねぇ、楽しみ、楽しみ」
先日は自分の猛攻に、まるでいたいけな少女のような表情を浮かべていた茜……これは思ったより簡単に自分のペースに乗せられそうだ、と内心ほくそ笑んでいた山田だった。
けれど、今目の前で自分に向けられた微笑みは、さながら死肉にたかるハイエナ……彼女からのデートのお誘いを手放しに喜ぶより先に、その変わり身の早さに開いた口が塞がらない。そして、懐が上げる悲鳴に胸を締めつけられる。
「あの、僕もっといい感じのお店知ってるけど……」
「駄目、こっちはもうレストラン予約入れてんの。半年先まで予約一杯なのを無理矢理捻じ込んでもらったのよ! ……それとも山田君、キャンセル料払えるってのっ?」
大和撫子然とした風貌に皆騙されがちだが、食べ物が絡んで茜に勝てる者はない。フンッと鼻を鳴らすと、荒々しい足どりでその場を去って行った。
「……ちょっ、……こっち給料前っ!」
「おはようございます……っと、どうしたの、山田君?」
思わずその場で地団駄を踏んでいた山田に、珍しく遅刻ギリギリで出勤してきた真田が声をかける。
「……真田、……何かご機嫌だね、君」
「ええ、彼女がもう……可ぁ愛くって……」
昨日の陰気さとは打って変わった頭に花が咲いたような能天気な顔の彼は、何を思い出してか、傍からすればひどく不気味な笑み崩れた表情になる。
「……くそぉっ、……と、そんなことより真田っ、ちょっと金貸してくんない? 十万くらい」
山田はそんな幸せそうな彼の様子に八つ当たり丸出しで舌打ちするも、すぐに頭を切り替え、そう両手を合わす。
「十万っ? そんなの無理に決まってるよ、来月から遠距離恋愛になるからお金貯めとかないといけないんだからさ」
「超人気レストランで茜さんとデートなんだよ、僕の財布では到底払えない!」
初めて知らされた同期の彼とかつての想い人の関係に、真田は一瞬驚いたような表情を浮かべた。
「おめでとう、二人もうまくいくといいね」
しかし、それも一瞬のこと、まったく引きずる様子もなくそう激励の言葉を彼にかける。いまや真田にとって最愛の人は新城であって、茜に対する未練など何一つなかった。
「だったら、貸してくれよ!」
「絶対駄目だって。さっきも言ったけど、人のことに構ってる余裕ないからさ……大体、山田君から誘ったんでしょ? 自分で掘った墓穴じゃない」
悪いけど、甘んじて埋まって……そう言って彼に向かって十字を切った真田は、もうその存在自体を完全シャットアウトし、鼻歌交じりに自分のデスクへと歩いていった。
「……っ……くっそ、こんなんなら本気なんて出さなきゃよかったっ!」
あとには、仕掛けたつもりでその実しっかり掌の上で転がされる哀れな男の絶叫が、いつまでも木霊していた。