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感情の欠片⑥ ー短編集ならぬ断片集ー

作者: ぷょ
掲載日:2026/04/22

 屋根の上に立っていた。

 家々の向こう側から登り始めた太陽が、真っ直ぐと私と目を合わせるようにして揺れながら昇る。太陽の方から吹いてくる風が、伸びた髪を撫でるようして肩の後ろへと靡かせる。明け方のすんとした香りが、全身を絡みつくように包み込んでは、はらりと落ちていく。

 屋根のひんやりとした感触が、直に足の裏に伝わってくる。そう、私は裸足だった。巻きつけるようにして来ていたワンピースが、風に煽られてぶわりと広がった。

 私は屋根を蹴って飛び出した。屋根から屋根へ、空を伝って。屋根に足をつけるたびにまた走り出し、また屋根を蹴って。

 その度に髪も跳ね、体に打ち付けるたびにぺしぺしと柔らかい音が鳴る。軽くて白い布で作られたワンピースも、私の心が跳ねるたびに愛らしくひらめいた。

 私は一心に、前へ前へと進んでいた。そう、まさしく太陽の方へ。足を動かして、屋根を蹴って、空を舞って、ただ太陽の方へ。

 手を伸ばしても届かないのなら、この足で向かえばいいのだと気がついたのは、一体いつ頃だっただろうか。その頃から溜めて溜めて溜めた鬱憤を晴らすかのように、体が跳ねるたびに汚泥を剥がすかのように、私は力強く進んでいた。

 太陽に近づくなら、太陽相応の人物でいなくてはならないと考えたのは、あれからいつ頃たった時だろうか。ずっとひっそり唇を噛んで耐え忍んできたのはこの時のために他ならなかった。絶対にいつか朝が来ることを知っていたから、私はここまで強くなれた。

 私は足に一際力を入れると、思いっきり屋根を踏み込んで飛び上がった。重力でさえも私を捕まえられない。ここに私を縛り付けていた全てのものが、たった今、重力まで切り離されたのだ。

 ああ、もうすぐだ。

 どきどきと胸が高鳴る。宇宙は案外ひんやりしてるようでいて生ぬるいようでもあった。時折鼻を掠めるベリーのような香りの間をすり抜けつつ、私は一心に太陽の方へと泳ぐようにして進んだ。

 腕を伸ばして、足をばたつかせて、背中を反らせて。そうしてたどり着いた太陽は、どこまでも大きくてどこまでも独りだった。太陽が一色なはずは無いと分かっていても、間近で見たら、その衝撃はとても大きかった。

 まだらに入れ替わり立ち替わり模様の変わる表面。その下には何があるのかと、私は隙間から見えないものかと目を凝らした。そして、至近距離にいる私を惹きつけて止まない魔力にも似た、魅力。

 私は堪らずに手を伸ばした。触れたい触れたいと、心の底から湧き上がる衝動に突き動かされるままに。

 指先が太陽に掠めた。

 一瞬だけ、じゅわりとした鋭すぎてもはや何が何だかわからない痛みを感じたが、指先の痛みは、この手を自分の目で確かめようとする頃には消えていた。

 なぜなら指先が消え失せていたから。

 私の右手の人差し指と薬指は、指先の中ほどまで消えている。その間の中指は第一関節ほどまで、溶け切れたかのようにして消えていた。それがどこに行ってしまったのかは、分かってはいたけれど考えたくはなかった。

 ふっと、急に浮いていた体が支えを失ったようにして急に揺らいだ。

 驚く暇もなく顔面から太陽の中へと吸い込まれるようにして落ちて行く。

 …ああ、幸せだ。


 っは、っとして目が覚めた。

 いつもと変わらない天井。いつもとは何だったのかを考えながら、ぼうっとそれを瞳に映さないまま眺めていた。

 寝ていた間のいつの間にかに布団を剥いでしまっていたのに、体には寝汗がびっしりと浮かんでいる。

 窓の隙間から漏れるようにして差し込む陽の光を見て、私は我に帰った。


「…夢、?」


ー・ー・ー


 ピシ、ピシ、…と、いつもそれは小さくないていた。鳴いているのか泣いているのかは、私は知らない。

 …それは確かに、私の中にあるはずなのに。


 冷たい風と硬いアスファルトが、そこを歩く私へ1日の終わりを淡白に告げる。

 ああ、振り返れば今日も反省ばかり。見返した後に、淡くついた街角の看板が無感情に私を少しだけ照らす。そこから四方八方に伸びた影の、色が濃くなる。

 誰も気に留めないようなことを思い出しては、自分以外の誰かが気に留めていたらどうしようとうずくまる。

 もう立てないぐらいにへとへとなのに、まだ立つべきだと、誰でも無い誰かに急かされるまま、また歩く。

 ローファーは私に寄り添ってくれるはずもなく、足ばかりが一人悲鳴を上げる。

 いや、一人では無い。全身から、悲鳴が上がっているのだ。頭のてっぺんから足のつま先まで、私に無事なところなど一つもない。そうだ、一つも。

 自嘲気味な笑いが、暗くなり行く空に溶けていく。

 まばらに通り過ぎて行く人々には帰るべき場所が、帰りたい場所が、あるのだろうか。

 …私は一体それを、どこで見失ったのだろう。


 ピシ、ピシ、…と、いつも“それ”は小さくないていた。鳴いているのか泣いているのかは、私は知らない。知りたくもない。

 誰かが私の喉を絞めてはくれないかと、心のどこかで祈っては折れる。自分からそれをする勇気がない私に、どうもする権利なんてないと言わんばかりに。


 垢を擦り落とす。ぽろぽろと剥がれるようにして、茶色くなったかつての皮膚は見るも無惨に落ちていく。ただ汚いものとして。

 髪を切り落とす。ばらばらと悲しむようにして、色の落ちた髪はかつての艶めきを見せることなく落ちて行く。ただいらないものとして。

 …それは確かに、私のものであったはずなのに。


 歩くたびに地面に散らばっていった私の欠片を寄せ集めたら、それは私になるのだろうか。私の欠片が全て落ちた後の私には、何が残るのだろうか。

 私は知らない。知りたくもない考えたくもない。自分が自分であることの確証なんて、私が私だと認識し始めてから抱いたことのない代物だ。

 何をするにしても、道の下には何かが潜んでいた。そして私は気がついていなかったけれど、その道は薄氷。私がいかに正しく歩んだとしても道が割れて仕舞えば、元も子もない。たとえ私が、何をしても。

 その場にいればいつかは割れる、どこかに行けばその時割れる。薄氷は嘲笑うように、私をしたから見上げていた。その氷面に映るのは、紛れもない自分自身の影だと言うのに。


 私は気がついたら踊り出していた。カバンを振り回して、ローファーを投げ出すようにして。ひらめくスカートと、視界の端にちらつく髪が美しい。

 行き交う人々の視線の間を縫うようにして、私は駅へと踊りながら向かっていた。

 体はこれまで感じたことのないくらいの高揚に身を委ねて踊り狂っているのに対して、頭はどこまでも冷静に辺りを見渡していた。だけど、いくら頭が踊るのをやめろと言われても私は止まることが出来なかった。

 初めての感覚。薄氷に割れ目が走るのも気にせず、築き上げた氷山が砕けるのも気にしていなかった。ただ沈みゆくまでの時間を待つようにして、ステージの主人公のように踊り狂う。

 早く進まなければいけない。一瞬でも立ち止まって仕舞えば、薄氷の亀裂に追いつかれてしまうから。

 だけど、それでもいいかとさえ思っている自分もいた。全てをかなぐり捨てて踊って叫んで回っている瞬間の、自由。私は今完全にそれの魔力に魅了されていた。

 足を振り回す、腕を振り上げる、髪が靡いている。

 亀裂が一瞬、足元を攫った。

 でも私は止まらなかった。わざわざ止まってやる理由なんてどこにもなかった。むしろ、すぐそこまで破滅が迫って来た時のスリル、ドキドキ。まるで、全世界の人間が私を見ているかのように錯覚してしまえるほどの独壇場。

 私は進んで色んな人と目を合わせにいった。すぐさま目を逸らす人、気味の悪いものを見るような人。その中には同級生もいた。色んな人と目を合わせるたびに、私は最上級のとろけるような笑みを浮かべた。

 喉から、心からの愉悦が息となって漏れ出す。私へ冷たい視線が注がれるたびに、私はどんどんどこか遠いところへと行けるような気がした。

 …ああ、楽しい。

 その瞬間、体がぐらりと揺らいだ。亀裂に、追いつかれたのだ。

 硬い地面に容赦なく体を打ちつける。鈍い衝撃と鋭い振動が全身に痛みと不快感を届ける。

 けれど反対に私の意識は、ずるずると亀裂の中へと沈み込められていった。割れ目から伸びる得体の知れない何かに誘われるようにして、どこまでも朗らかな少女の顔をしたままで。


 そこで私の意識は、ぷつんと途切れた。

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