4話
カイルは、彼女の隣で自分が引き取った「火竜の息吹」のグラスを揺らす。立ち上がるアルコール臭だけで鼻の奥がツンと痛む。これを初心者の少女に飲ませようとした店主の悪戯心に苦笑しながら、カイルは一口、それを煽った。
「……ッ、ぐ、はあぁ……!」
喉から胃袋にかけて、文字通り熱い鉄を流し込まれたような衝撃が走る。カイルは思わず顔を顰め、何度も激しく咳き込んだ。
「大丈夫……!? やっぱり、それ、毒なんじゃ……」
アルテミスが、透き通るようなサファイアの瞳を大きく見開いてカイルを覗き込む。彼女の距離が近い。プラチナブロンドの髪から、微かに洗いたての石鹸のような、この荒々しい酒場には似つかわしくない清潔な香りが漂ってきた。
「……ど、毒じゃない……ふぅ、毒じゃないよ。ただ、ちょっと……『生きてる』って実感が、強すぎるだけだ」
カイルは涙目になりながら、無理に笑顔を作った。 その様子を見て、アルテミスは少しだけ緊張を解いたのか、自分の持つ果実酒をもう一度、今度は少し大胆に一口飲んだ。
「……ふふ。不思議。ギルドの魔水晶の前では、あんなに体が強張っていたのに。この甘いお酒を一口飲んだだけで、なんだか、指先の震えが止まった気がするわ」
彼女は自分の白く細い指先を見つめた。その指は、レベル1にして将来を嘱望された圧倒的力を秘めている。しかし、今の彼女は、ただの「初めてお酒を飲む女の子」に過ぎなかった。
「アルテミス。君、冒険者ギルドでは凄かったな。みんな、魔水晶に触れた瞬間に黙り込んだ。あの光景は……正直、ちょっと怖いくらいだったよ」
カイルの言葉に、アルテミスの表情が微かに陰った。彼女はジョッキの縁を指でなぞり、そこに溜まった小さな泡を壊していく。
「……みんな、私の数字を見てる。私自身じゃなくて、ステータスという数字を。……カイル、あなたには、私の中に何が見える?」
不意に投げかけられた問いに、カイルは少し考えた。 酒場の喧騒は、まるで遠い異世界の出来事のように背景へと退いていく。オレンジ色の魔石の灯りが、彼女の横顔を柔らかく照らしていた。
「そうだな……。俺に見えるのは、教本を鵜呑みにして、きつい酒を無理して飲もうとしてた、ちょっと抜けてる同期の女の子かな。ランクも、俺と同じEランクだしさ」
アルテミスは目を見開いた後、くすくすと、鈴の音を転がすような声で笑った。
「……抜けてるなんて言われたの、初めて。みんな、私を神の贈り物だとか呼ぶのに」
「ここは酒場だからね。神様も、入り口で出禁になってるんだろ」
カイルがそう言って自分の火竜の息吹を煽ると、アルテミスも真似をして、果実酒を喉に流し込んだ。 ゆっくりと、本当にゆっくりと、二人の間の「格差」という名の壁が、酒のアルコールに溶けて消えていく。
夜が深まるにつれ、店内の空気はさらに濃密になっていく。 奥のテーブル席では、Bランクのベテランが、Dランクの若手たちに「ゴブリンの効率的な狩り方」を熱心に説いている。説いているというよりは、酔っ払った勢いで絡んでいるようにも見えるが、そこには不思議と傲慢さはない。
カイルは二杯目に安いエールを注文した。アルテミスも、いつのまにか二杯目の果実酒を手にしている。
「ねえ、カイル。……あなたは、怖くないの? レベル1で、ステータスも……その、決して高くはないって、自分で言っていたけれど。この世界で、レベルを上げられずに終わる可能性が高いことを」
アルテミスの問いは、この世界の残酷な真実を突いていた。 カイルのようなステータスでは、生涯かけてスライムを追うだけで終わることも普通なのだ。
カイルは、ジョッキの中の黄金色の液体を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「怖いよ。毎日、目が覚めるたびに、自分が何者にもなれないまま死んでいくんじゃないかって、背中が冷たくなる。……でもさ、今日この店に来て、店主の話を聞いて、ちょっと思ったんだ」
彼は、近くで大笑いしているBランクの巨漢冒険者に目を向けた。
「あの人たちだって、外に出れば命懸けだ。いつ強大なモンスターに食い殺されるか分からない。……俺みたいな弱者も、アルテミスみたいな天才も、死ぬかもしれないっていう一点においては、実は平等なんじゃないかって」
カイルは自嘲気味に笑い、自分の胸元を叩いた。
「俺は、Aランクにはなれない。Bランクだって夢のまた夢だ。でも、今日一日の仕事を終えて、ここで酒を飲んで美味いと思える。その瞬間だけは、俺の人生は誰にも負けてないって思いたいんだよ。……負け惜しみだけどな」
アルテミスはじっとカイルの話を聞いていた。彼女の瞳には、先ほどまでの困惑ではなく、深い思索の光が宿っている。
「……負け惜しみなんかじゃないわ。私は、自分の数字に怯えていた。この数字に見合う成果を出さなきゃいけない。誰よりも早くレベルを上げ、誰よりも強くならなきゃいけないって。……でも、カイル、あなたの言う通りね。今、この果実酒が美味しいと思える私に、数字は関係ない」
彼女は、少しだけ顔を赤らめながら、カイルのジョッキに自分のグラスを軽く当てた。チリン、と澄んだ音が響く。
「……乾杯。私の、初めての友達に」
「……ああ、乾杯。未来のAランク様」
カイルが冗談めかしてそう呼ぶと、アルテミスは少しだけ寂しそうに微笑み、それから「今はただのアルテミスよ」と小さく呟いて酒を飲んだ。
二人は笑い合った。 カイルは、自分が少し酔っているのを感じていた。いつもより口が滑らかになり、世界の理不尽さが、少しだけ遠くの、自分には関係のない物語のように感じられた。




