第16話
冒険者になって二週間が過ぎた朝、カイルを揺り起こしたのは、もはや驚きも伴わない倦怠感だった。ステータスの数値は何一つ変わっていないが、鎧の着脱だけは驚くほど手際が良くなった。
「……今日も、行くか」
ギルドでは、アルテミスがエリュシオン支部史上最短でレベル2(ランクD)に到達するのではと、連日冒険者たちの話題に上っている。彼女の背中は、もう見えないほど遠くへ行こうとしていた。
けれど、夜の『角杯亭』の扉を叩けば、彼女は相変わらずそこにいる。その矛盾した安心感に、居心地の良さを感じていた。
スライム討伐には、少し慣れが出てきた。短剣をスライムの核に突き刺す際、どの向きで刃を入れれば粘液をできるだけ浴びずに済むか。どの木陰が一番風通しがよく、体力を温存できるか。劇的なレベルアップはなくとも、そんな生き残るための知恵は、着実にカイルの中に蓄積されていた。
「……ふぅ。これで今日の依頼は達成か。」
夕暮れ時、エリュシオンの街へ戻るカイルの足取りに、前のようなふらつきはなかった。以前アルテミスと交換したお守りの硬い感触を、指先で確かめるのが、いつの間にか無事に森を出た合図になっていた。カイルはいつものように『角杯亭』へと向かった。
カイルは、既に熱気に包まれている店内の小さなテーブル席を確保した。
「カイル、お疲れ様。」
背後から届いたのは、周囲の喧騒をさらりと通り抜ける、澄んだ声だった。 振り返れば、そこには一点の汚れもない装備に身を包んだアルテミスが立っていた。
「アルテミス。……お疲れ。」
「今日は、なんだか、今までで一番疲れたわ」
カイルはそれ以上、何も聞かなかった。 ギルド内が彼女のレベルアップの噂でもちきりなのも、彼女を遠巻きに眺める冒険者たちの視線も知っている。けれど、ここではそんな話は必要ない。カイルは、彼女が座るのを待った。
彼女は深く息を吐き出すと、吸い寄せられるようにカイルの対面の席へ滑り込んだ。鎧の腰元に結ばれた青い石が、銀の鎧と当たってカチリと小さな音を立てる。それはもはや、彼女の生活音の一部だった。
「……聞いてよ、カイル。今日ね、ギルドの裏の洗濯屋のおばさんに『あんた、また服を汚さずに帰ってきたのかい?』って呆れられちゃったわ。私なりに一生懸命戦っているのに、綺麗すぎて苦労してないように見えるんですって」
彼女は少し不満そうに、運ばれてきたエールを一口啜った。
「カイルの方はどう?」
「森の奥に、昼間だけ青く光る苔が生えてる岩があるんだ。戦いには何の役にも立たないし、金にもならないけどさ。スライムに追いかけ回されて、死に物狂いで逃げ込んだ先でそれを見つけた時、なんだか……言葉にできないくらい、綺麗に見えたんだ。」
「青く光る苔……。そんな場所があるのね。……ねえ、カイル。いつか、私がランクとか忘れてもいいくらい強くなったら……一緒にその苔、見に行ってくれる?」
カイルは一瞬、今一緒に行けばいいだろ、と言いかけて口を閉じた。ギルドで彼女を取り囲む、あの値踏みするような視線。もし今二人で出歩けば、カイルが「天才の足を引っ張るお荷物」としてどんな罵倒を受けるか、彼女はそれを何より恐れているのだと気づいたからだ。
「……ああ。約束だ。その時まで、場所は内緒にしておいてやるよ」
「ふふ、そうね。……内緒の場所があるって思うだけで、明日も頑張れそうだわ」
アルテミスはそう言って、少しだけはにかんだ。
二人はそのあとも、昨日オープンしたパン屋がとても美味しかったとか、ギルドの掲示板の隅に「猫探し」の依頼がずっと残っていて気になるとか、他愛ない話に花を咲かせた。
ひとしきり笑った後、アルテミスがふと、ジョッキの縁をなぞりながらこれからのことを口にした。
「明日には、私、本当にレベル2になるかもしれない。」
彼女の言葉に、カイルはジョッキを握る手にわずかに力を込めた。 物理的な距離は、どんどん広がっていく。それが冒険者の世界の冷徹な法則だ。けれど、カイルが何も言わずに隣にいてくれることが、今の彼女には何よりの救いだった。
「でも、夜は必ずここに来るわ。……あなたがここにいてくれるなら、私はどんなに遠くへ行っても、迷わずに帰ってこれる気がするの」
カイルは自分の胸元にある、鎧に隠れた赤い石を上からそっと押さえた。
「……俺はただ、ここでエールを飲んでるだけだよ。明日も、明後日もな」
照れ隠しに目を逸らすカイルを見つめ、アルテミスは少しだけ身を乗り出した。二週間 。けれど、その短い時間の積み重ねが、数字では測れない絆という名の不可逆な変化を、二人の間に生み出していた。




