11話
冒険者になって三日目の朝、カイルを揺り起こしたのは、重い筋肉痛と、わずかに残るエールの余韻だった。
「……いてて。体は正直だな。」
錆びた鉄のような体の節々を無理やり動かし、カイルは安宿のベッドから這い出した。窓の外には、昨日と同じエリュシオンの街並みが広がっている。
これまでも、アルテミスとの別れ際に「またあの居酒屋で」なんて言葉は軽く口にしてきた。けれど、昨夜、店を出る前に交わした約束の響きは、これまでとは決定的に違っていた。
昨日、死ぬかもと思った瞬間、自分が諦めなかったのは、朝に交わしたあの他愛ない約束があったからと気づいてしまったからだ。
昨日まではただの予定に過ぎなかった言葉が、今では生きて帰るための理由へと変わっていた。今日という一日を生き延びた先に、あの居酒屋で名前を呼んでくれる相手がいる。
その事実が、動かすのも億劫な体に、確かな活力を流し込んでいた。
「……さあ、行くか。今日もスライム討伐だな。」
目標を口にして、カイルは短剣を手に取った。
今日という一日も、昨日と同じ森へ行き、同じように泥まみれになりスライムを討伐するだろう。カイルは、一晩で劇的に成長していないことを知っている。
昼間の森での活動は、あたかも昨日の焼き増しのようであった。 茂みに潜み、ぬかるみに足を取られ、スライムの酸で革鎧に新しい焦げ跡を作る。そこに華々しい手柄も、観衆の歓声もない。ただ、生きて帰るための泥臭い格闘があるだけだった。
夕暮れ時、カイルは『角杯亭』の扉を押し開けた 。
店内は既に熱気に包まれている。昨日、アルテミスと語り合ったカウンターの席には、既に恰幅の良いベテラン冒険者が居座り、豪快に笑いながらジョッキを煽っていた。
「……ま、指定席じゃないしな。」
カイルは苦笑し、今日は店の中ほどにある、厨房の排気口に近い小さなテーブル席に腰を下ろした。 そこは、昨日まで座っていた場所とは全く違う景色をカイルに見せた。
カウンターに座っていた時は気づかなかったが、厨房の奥では店主の親父が、絶え間なく上がる注文を捌くために、鬼のような形相でフライパンを振っている 。その背中からは、熱気を帯びた汗が滴り落ちていた。
ふと見上げると、店の隅に埃を被った古い柱時計が掛かっているのが見えた。 秒針が刻む鈍い音は、店内の喧騒にかき消されそうになりながらも、確かにそこにある時を告げている。
(……この店も、俺が生まれる前からずっと、こうして回ってたんだろうな。)
壁に刻まれた無数の小さな傷。 脂と煤で黒ずんだ天井の梁。 そこには、自分だけでなく、名前も知らない何百人もの持たざる冒険者たちの吐息が染み付いているように感じられた。
「見つけた。……今日は、随分と隅っこにいるのね。」
脂ぎった空気の中に、場違いなほど澄んだ声が紛れ込む。そこには必死に自分を探し当てた様子のアルテミスが立っていた。彼女は小さく息を吐くと、安心したようにカイルの正面に腰を下ろした。
「ああ。昨日の席には先客がいたからさ。……今日はどうだった?」
「……聞かないで。相変わらず、私の戦いを見て『将来のAランク様だ』って拍手されるだけ。」
アルテミスはそう言って、テーブルに突っ伏した。 普段の彼女なら決して見せない、疲れ果てた少女の顔。その白い頬が、脂で汚れたテーブルに触れるのも気にならないほど、彼女は摩耗していた。
「ここだけなのよ、私がただのアルテミスでいられる場所は。」
「……そうだな。ここでは誰も君を『将来のAランク様だ』なんて言わない。俺も、ただのカイルとしてここにいるだけだ。」
カイルがジョッキを二つ、それと昨日も食べた煮込みを二つ注文すると、店主は無言でそれらを無造作に置いた。 泡が溢れるのを眺めながら、アルテミスがカイルの泥だらけの袖を、少しだけ羨ましそうに見つめる。
「カイル。……あなたのその泥の匂い、なんだか安心するわ。」
「変わってるね。俺は早くこれを洗い流したくて仕方ないんだが。」
「ううん。……それは、あなたが私との約束を、必死に守ってくれた証。だから、全然汚くなんてないわよ。」
アルテミスが顔を上げ、少しだけ潤んだ瞳でカイルを覗き込む。
昨日、カイルが「呪い」のようだと語ったあの約束の言葉。 それが、彼女にとってもまた、自分をただのアルテミスに繋ぎ止めるための命綱になっていた。
彼女は手元の木匙を取り、煮込みの具を小さく口に運んだ。
「……ねえ、カイル。この煮込み、今日は少しだけ人参が柔らかいわね」
「そうか? ……あ、本当だ。昨日のはもっと歯応えがあったけど、俺はこっちの方が好きかな」
二人は、ランクの差もステータスの数値も、この場所には関係ないことを知っている 。冒険者の間に伝わる「暖簾をくぐればただの飲兵衛」という不文律は、何もこの店だけに限った話ではないのかもしれない。だが、二人が、最初に出会い、お互いがその魔法に救われたのは、間違いなくこの『角杯亭』だった 。
外の世界では、レベル1の凡人と天才として扱われる二人だが、今はただ、人参の硬さについて議論するだけの同期に過ぎない 。
(……俺が明日ここに戻ってこれなくなったら、この席は空いたままになるのか)
カイルは、そう想像しただけで、全身の筋肉痛が急に現実味を帯びて蘇ってくる。 泥の中で力尽き、この酒を、彼女と一緒に飲む権利を失いたくない。 その欲が、死への恐怖を塗りつぶしていく。
「……ま、考えすぎか」
自嘲気味に呟き、カイルは煤けた天井を見上げた。 この店を語るには、まだ三日。アルテミスとの時間も、思い出と呼ぶには短すぎるかもしれない。
けれど、柱時計が刻む鈍い音を聞きながら、彼は思っていた。ギルドの魔水晶が弾き出す残酷な数値よりも、今喉を通り過ぎるエールの苦味こそが、よほど確かな現実なのだと。
ただそれだけの事実に、カイルは心の中で静かに感謝していた。




