9 図書館と魔本
「……んあ?」
気がつくと、俺はかたくてつめたい木の床の上に仰向けに転がっていた。
なぜここに? という疑問は、ふだんよりじっくり時間をかけてすこしずつ氷解していく。そうだ、俺はパーシヴァルを探して図書館を訪れたのだった。それから、それから。どうしたんだっけ。もやもやと意識に霧がかかったように、はっきりしない。
起き上がって、周囲を見回す。背の高い書棚が並んでいる。俺はその通路の途中にうずくまっていた。
図書館のはずだった。しかし、どこかに違和感を覚える。
ぐらぐらする頭をどうにかまっすぐに支えつつ、立ち上がった。そして、その姿をすぐに視界にとらえて、思わず声を上げていた。
「パーシヴァルさん!」
大量の本が床に積み上げられた回廊の片隅に、パーシヴァルがうつ伏せに倒れていた。
あわてて駆け寄りながら、そう言えば彼は書見台でうたた寝をしていたのではなかったか、と思い出す。膨れ上がる違和感を今は押さえつけながら、パーシヴァルの肩を揺すった。
「パーシヴァルさん、大丈夫ですか。パーシヴァルさん!」
幾度か呼びかけ、肩を揺すると、斜めにうつむけられていた顔がじわりと動く。かすかに睫毛が震えて、黒い瞳がゆっくりとあらわになった。
「……ユースターク?」
「良かった。目が覚めましたか」
ひとまずは意識が戻ったようで安堵する。俺の手を借りて身体を引き起こすと、パーシヴァルはぐるりと周りを見渡した。
「……ここは、どこだ?」
俺の中で膨らんでいた違和感に、ここで向き合うことになった。
「やっぱりここ、学園の図書館じゃない、ですよね……」
俺が絶望的にそう呟いた瞬間、高い書棚と書棚のあいだを、色とりどりの鳥の群れが飛んでいった。
パーシヴァルは、俺のようにいつまでもぼんやりとはしていなかった。すぐさま表情を引き締めて立ち上がると、周囲の検分を始めた。俺はわけもわからないままで、せめて邪魔にならないように控えめにあとをついていくばかりである。
付近の書棚を覗き込み、床に積み上げられた本を何冊か手に取り、ぱらぱらと頁を繰る。やがて、彼自身が倒れていたあたりに広がっていた大判の古書を見て取り、はっとして表情を変えた。
「すまない」
不意に謝罪されて、俺はなすすべもなく首を傾げた。
「俺のせいだ。どうやら、『魔本』を引き当ててしまったらしい」
◆
『魔本』。
パーシヴァル曰く、こういった魔法図書館においては、各種の呪いを仕込まれた本が存在するのだという。その目的はさまざま。新種の魔法魔術の実験であったり、そのもの呪いを封じ込めてあるものであったり、多岐にわたるらしい。
より手の込んだ呪いを封じたものの中には、そのものひとつの世界を内包している魔本すらあるのだとか。
そう、いま俺たちが置かれているこの状況のように。
「『眠りの本』は数ある魔本の中でももっとも基本的で古くからあるものだ。封じ込める呪いとしてはもっとも扱いやすく、その世界に没入しやすい。どうやら図書館のようだから、封じ込めた者はよほど本を読みたかったのだろうな」
最後はかなり皮肉を込めて吐き捨てるようにして言いながら、パーシヴァルは額を指先で押さえた。
「……魔本は、いつの間にか通常の本にまぎれていることが多いんだ。書架整備のごたごたにまぎれて、司書の目からも逃れてしまったのだろうな」
それから、神妙な面持ちで俺のほうを見ると、さっと頭を下げた。
「おまえは先に魔本に取り込まれた俺に触れたことで、おなじように呪いに巻き込まれてしまったんだろう。ほんとうにすまない」
俺はあわてて両手と頭を振った。前世一般社会人とは言え、いくらか魔法の心得があるにもかかわらず魔本の存在を見抜けなかったのは俺である。そうでなくても、パーシヴァルが引っかかってしまったものだ。いずれにせよ俺には看破は難しかっただろう。
「パーシヴァルさんのせいじゃありません。そこらに入ってた魔本にむしろ悪意があります」
思ったままを口にすると、パーシヴァルが伏せていた顔を上げた。どこか悄気たようすで眉を下げている彼と目を合わせて、せめてにっこりと微笑む。そうすると、パーシヴァルもようやく表情をやわらげてくれた。
「……ありがとう、ユースターク。ひとまず出口を探そう。この手の魔本は内部で過ごすことを目的にしていることが多い。どこかに出口があるはずだ」
パーシヴァルの言葉に、俺は力強くうなずいた。
果たして、魔本の中というものは不可思議な世界だった。
パーシヴァルと魔本の図書館の中を歩き始めてすぐ、不意に足もとにあいた崖の端に落ちかけて、その力を思い知らされることになった。
危ういところでパーシヴァルに手を取られ、這々の体で木の床の上に戻る。崖下を覗き込むと、ところどころに青白く光るものが見えた。あれは何かの鉱石だろうか、底のほうからはかすかに水が流れるような音が聞こえてくる。
「気をつけろ。ここでは何でも起きるんだ」
「ひゃい……」
世にも情けない声を上げつつ、俺は勇気を振り絞って立ち上がった。
書架の隙間に、あおあおとした葉をつけた木々が伸びて、太い根が本を覆っている。床に積み上げられた本から、毒々しい色合いのきのこが顔を出し、みどりの苔が広がっている。みずみずしい緑色の深い苔に、金属めいた青色の翅をもつ蝶がたくさん群がっていた。俺たちが歩くと、蝶がひらひらと翅をひらめかせて飛び立った。
書棚の向こうに、ひろびろとした砂漠が見えることもあった。目が覚めるようなスカイブルーに、金色の砂丘が陽に照らされてきらきらと輝いていた。強い風にさらさらと砂が巻き上げられて、トカゲのようないきものが小さな足跡を残して駆けていった。
雨の降る密林に出くわすことすらあった。鮮烈な、毒々しい色の大きな花が咲き乱れ、熟れすぎた果物のような、ほんのわずか饐えた甘い匂いが鼻を突いた。蔦のからまった枝葉の隙間に、こっちを見下ろす気配がした。それがどんないきものなのか、俺にはさっぱりだったが、あまり長居はしないほうがいいような気がした。
本棚の上から、雪崩をうってねずみの群れが走り下りてくる。どこか遠く、大きな鳥のなく声がする。ずっと後ろをついてくる気配がするのは、四つ足の獣だろうか。あるいはそれ以外のなにものか、さっぱり得体が知れなかった。自然と足が早まったが、俺たちはどこにも行くことができなかった。
「……だめだ。糸口が見つからない」
山のようなゴブレットに囲まれて、弱音を吐いたのは果たして、パーシヴァルのほうだった。
似たような銀のうつわが山をなしているのをかき分けて進みながら、俺はほうけた声を上げて尋ね返していた。金属製のうつわが擦れ合う音が甲高く響き、あまりにもうるさかったためだ。
「わからない。こんなに変容が激しいなんて思ってもみなかった。ただの魔本じゃなかったのか……」
最後は弱々しく、言葉尻が金属音の中に消える。彼が自身の知識について、これほどまでに自信を失くしているところを初めて見た。
「こんなとき、オリーがいてくれたら」
オリー? 聞き慣れない単語に首を傾げる。
そんなふうに口走って、はっとしたように顔を上げた。気まずげに投げられたその視線の先には、残念ながら俺がいたりする。
「ちょっと、このあたりで小休止しませんか。このまま進んで体力を消耗すると、何かあったときに動けなくなって危ないかもしれません」
どうしたものかと思いつつそう言うと、パーシヴァルもまたきまり悪そうにしつつも笑ってくれた。
「……そうだな。すまない、すこし焦りすぎた」