第1話 森の塔の賢者さま
ソランジュは、朝露に濡れた野道を踏みしめながら、手にした籠をぎゅっと抱え直した。中には丁寧に摘み取った薬草と、村の薬師に仕込まれた軟膏が並んでいる。
目的地は、森の奥――
「賢者パスカル」の住む、灰色の石造りの塔。
村の誰もが怖がって近づかないその場所へ、彼女は一人で向かっていた。
(だって、薬草届けなきゃだもん)
心の中でそうつぶやく。怖くは、ない。たぶん。
森は深く、昼でも薄暗い。ときおり枝が揺れるたびに、風の精霊か何かが潜んでいるような気配を感じた。けれど、ソランジュは立ち止まらない。塔の姿が、木々の間に見え始める。
──ずっと昔、この森で魔法の災厄を封じた賢者がいたという。その名をパスカル。
その人が、今も生きているという噂。
(ほんとに、いるのかな……)
そんな風に思っていたのは、塔の扉を叩くまでだった。
「……誰だ」
低く、乾いた声。
古びた扉の向こうから響いた声は、少し眠たげで、けれど威厳があった。
「あ、あのっ。わたし、ソランジュっていいます。村から、薬草をお届けに……!」
扉が、ぎぃ、ときしんで開いた。
現れたのは、肩まで伸びた銀髪を無造作に結んだ男だった。
精悍な顔立ちに、薄く疲れた瞳。黒いローブに身を包んでいるのに、どこか異様な静けさがある。
……この人が、賢者パスカル?
「……いらん」
「えっ」
「薬草など、自分で育てている。もう来なくていい」
言い終えるや否や、扉を閉めようとする男に、ソランジュはあわてて声を上げた。
「あの!でもこれ、村の薬師の……お願いされて……!」
ぐっと籠を差し出すと、男の目が一瞬だけ、それを見た。
そのまま、しばらく沈黙。
やがて、無言で片手を伸ばし、ソランの籠を取る。扉の隙間から、彼の指がわずかに震えたようにも見えた。
「……この香りは」
薬草の束を手に取ったパスカルが、かすかに目を細める。
どこか遠くを見るように、それを見つめていた。
次の瞬間。
「──中に入れ」
ソランジュは、ぽかんとした。
あっさり帰されると思っていたのに、まさかの展開。
「えっ……あの、大丈夫なんですか? 入って……」
「質問が多い。さっさと来い」
くるりと背を向けて、塔の中へと戻っていくパスカル。
ソランジュは、戸惑いながらも一歩、足を踏み入れた。
ひんやりとした石の床。高くそびえる天井。どこまでも無機質で冷たい空間なのに──
(……なんだろう)
心の奥で、小さな火が灯るような気がした。
この人は、きっと、ずっとひとりぼっちだったのだと。
そんな気がして、胸がすこし、ちくりと痛んだ。