海陵王と高楨
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻八十四 列伝二十二の高楨伝を見てみましょう。
前回触れた張浩は渤海人で、これまで女真人を中心とした朝廷が、渤海人を母とする海陵王の下で渤海人にも栄達の道が開かれたため重臣筆頭になりました。他に渤海人としては高楨が挙げられます。
海陵王が中京に移ると、高楨は夜の警備を厳重にした。海陵王の側近の馮僧の家奴である李街喜らは、海陵王から寵愛を受けていたので、夜に禁中で飲酒した。高楨はこの者たちを瀕死になるまで鞭打ったので、高官たちはみな震え上がった。
太子太保・行御史大夫に昇進し、王に封ぜられた。海陵王より直々に任命書を授けられて司空に任命され、代王に進封となり、太子太保・行御史大夫は元通りであった。
高楨は永らく御史台にあって、誰であろうと憚らずに弾劾した。海陵王に意見するときは、必ず身分秩序を厳格に守り、善を勧めて悪を退ける旨の発言をした。当時の権力者たちはこれを忌み嫌い、張忠輔と馬諷を中丞に推薦した。二人は共に姦悪な人物で、ことあるごとに高楨を陥れようとした。
正隆年間に規定により冀国公に封ぜられたが、高楨は「臣は人から妬まれ災難は免れないと恐れておりましたが、なおこのように封爵を受けることが出来るのでしょうか。」と言って固辞した。海陵王はその忠義実直なことを知り慰労し贈り物をした。
高楨は急病となり何かを空に書きながら「あれはまだ決裁していない。あれはまだ奏上していない。今死ぬのは心残りだ。」と独り言を言い、まもなく亡くなった。享年六十九。
海陵王はその死を惜しんで哀悼し使者を遣わして祀らせ弔慰金などを贈った。