表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

DIAMOND

『DIAMOND 1』 国道246号を、にゃんこがバイクでチェイスする。可愛子ちゃんを守って虐待野郎をブッ飛ばせ!

作者: 桜田みけこ

【DIAMOND Vol.01】


 闇の中の、シャム猫の指。

 あとすこし。

 シャム猫の、蓮。青い瞳が光る。

 もう何も耳に入らないほど真剣に、人間の背ほどもある窓の、半月錠を叩きつづける。

 何度も。何度も。何度も。

 わずかずつだが錠のつまみが上から下へと動きはじめる。

 蓮は知っている。

 これさえ降ろせば、世界が開けることを。


 どのくらい叩きつづけていただろう。

 もう、心はここにない。

 闇へ。闇へ。窓のむこうにあるはずの闇のことしか考えられない。

 指がしびれていることにも気づかず。

 叩く。

 叩きつづける。


 やがて、カチリと音がする。

 半月錠の、つまみが完全に下がる音。


 蓮は、ありったけの力でガラス窓を横へ押す。

 とたん、むせるほどの濃い夜闇が、部屋へ流れ込んでくる。


 その時。

 いきなり部屋の電気がつく。

 ふりむけば優香が立っている。年は27くらいだが、少女のような小さな顔。夜中のトイレに起きたところだろうか、ピンクのパジャマ姿でいる。看病に疲れ、力ない足取りで。恐怖のあまり青を通りこして、白くなって震えながら。

「やめて・・・」

 蓮を脅かさないよう、そっと近づいてくる。

「おねがい。ここにいて。あたしを置いていかないで」

 もう立っていられなくなり音もなく膝をつく。

 蓮は優香をみつめて、あとずさる。

 開いた窓のほうへ。

 優香が手を伸ばしてくる。

 おびえる蓮。身をひるがえして、闇へ飛び込む。


 走る蓮の背中に、悲鳴。

 声にならない優香の、絶望的な嗚咽が響く。




 蓮は走る。

 アスファルトを蹴って、家のあいだの塀を伝って、庭へ。茂みへ。ときには屋根へ。

 走る。

 景色がゆっくりと移り変わる。住宅街からオフィス街へ。高層ビル街へ。

 走る。

 どこへ行けばいいかもわからない。何をしに行くかも分からない。

 ただ走る。なぜか胸が痛い。優香の嗚咽が耳の奥でリフレインする。泣き顔の残像から逃れるように、どこまでも走る。


 そして、足を滑らせる。

 歩道橋の手すりから。激しく車のゆきかう車道へ、まっさかさまに落ちていく。

 ちょうど通過していく運送屋のトラックの、荷台へ。

 ちいさくバウンドして蓮は、真夜中の引越の、荷物のあいだにふんわり収まる。

 もう戻れない。

 蓮の後ろに、大都会新宿の、夜景が遠ざかっていく。


 眩暈がしながら、蓮はなんとか目をあける。

 おそらくは新宿の夜の住人たちの誰かの、夜逃げの家財道具だろう。汚く丸められた毛布の隙間で蓮が丸くなる。

 トラックの運転席と助手席には、ホストらしき若い男が乗っている。売掛金が飛んで、本人もトンズラするところらしい。

 コウドウカイノ オジキノ イウコトヲキカナイト コロサレル

 なんて声が、エンジン音に混ざって流れている。

 おそらくはホストクラブのバックについてた裏社会の組織の話だろうが、猫にはわからないし関係ない。

 蓮は目を閉じる。

 疲れて、もう動けない。




 思い出の中。

 蓮は、雑居ビルの裏の、薄汚れたゴミ捨て場で産まれた。

 ホステスが酔客からプレゼントされた猫を棄て、それが繁殖し、蓮たちを産んですぐに消えた。行方は知らない。どうやって生きてきたかも覚えていない。路地裏の猫にとって、すべての人間は敵だった。

「ほら、こっち来いよ、猫」

 時折、キャバクラの裏口から黒服が現れた。客の残りのソーセージなどを投げ、蓮たちをおびき寄せようとした。

 蓮は牙をむいて唸り、人間が入ってこれないビルの隙間へ逃げた。

 かつて彼らのソーセージにつられて寄っていった仲間は、首を掴まれ、そのまま素手で絞め殺された。

 蓮の目の前で。

 一匹また一匹と、兄弟たちも消えた。ただ生きたいと願っただけなのに。

 満腹だったことなんてなかった。いつだって気が狂うほど飢えていた。それでも人間の差し出すものは食べなかった。


 もう動けなかった。

 蓮は、キャバクラの裏に詰まれたゴミ袋の陰で、うずくまっていた。

 脳裏に、母と、兄弟たちの面影が浮かんだ。

 意識が遠くなっていった。


 薄目をあけた。

 なぜかまだ死んでいない自分がいた。

 柔らかいベッドに寝かされ、優しい空気が流れて、美味しいものの匂いがした。

「大丈夫。あなたは生きるの」

 優香の声がした。

 白い手に撫でられた。

 いまだかつて感じたことがない世界を前に、蓮はパニックした。恐怖でしかなかった。暴れて逃げようとした。けれど、尻尾すら動かすことができなかった。


 いくつの昼と夜が過ぎていったか、わからなかった。

 その部屋はいつだって、虫もネズミもいなくて、美味しい匂いがしていた。

 窓からはお日さまの光が差していた。

 この部屋にあるもので蓮が知っているものは、あのお日さまだけだった。


 優香はいつも微笑んでいた。蓮をまるで宝物のように扱った。

 名前のなかった自分を、蓮、と呼んだのは優香だった。

 口をあけることもできなかった蓮の、あごをなでて、スポイトで流動食を食べさせた。

 自分で食べられるほど力が戻ったら、優香はごはんを枕元に置いて、部屋を出ていくようになった。

 ゆっくり食べられるようにと気を遣っているらしかった。


 一度、ごはんの器を差し出してきた腕を、噛んだ。

 味わったことがないすべてが怖くて、おびえる気持ちをどうしたらいいかもわからなくて、つい、噛んだ。

 優香は悲しそうに笑った。

「ごめんね。びっくりしたね」

 それから優香は、いままで以上にそっと器を置くようになった。

 血の滲む包帯を巻いた腕で。

「噛めるくらい元気になってくれて、ありがとう」


 蓮は眠っていた。

 背中に、何か温かいものを感じた。

 優香の指だった。

 愛しくてならないとでもいうように、蓮に触れないぎりぎりの距離で、撫でる仕草をしていた。

 ただ、ただ、蓮を想っていること、指の気配が伝えてきていた。

 蓮は、目覚めていたけど、目をあけることができなかった。




 思い出が霧散する。

 蓮は夜逃げのトラックの荷台で、目を覚ます。

 運転席のカーラジオから、プリンセスプリンセスの往年の名曲「ダイヤモンド」が流れてくる。

 あたりにはもう民家もなく、ごつごつした山道をカーブしていく。

 東の空が白みかけ、じきに朝だと告げている。


 荷台には、キャスター付きのキャリーバッグが載っている。

 振動にあわせてキャスターの、タイヤが揺れる。

 蓮はじっとタイヤを見ている。

 手をのばす。

 タイヤをつつく。

 ぎこちない音をたて、タイヤが回る。

 蓮の瞳孔がひらく。かすかな興奮。

 よせばいいのに止められなくて、蓮の手がタイヤを回す。くるくるするものへじゃれてしまうのは、猫の本能か。

 こんなにも疲れているのに。

 蓮の脳裏に、優香の匂いがひろがる。

 彼女は自分を「ママ」と呼んだ。

 きっとそれが彼女の名前なのだろうと思った。


 あの部屋の何が怖かったのか、わからない。

 窓の外にはお日さまがあった。

 それは産まれた時から輝いていて、あの部屋でただひとつ、蓮にも理解できる存在だった。









【DIAMOND Vol.02】


 トラック助手席のホストが、小さな窓から荷台をのぞく。

 蓮と、目が合う。

 ホストが目をむく。

「やべぇ、停めろ!」

「なんだよ」

「俺の荷物!汚れる!あの汚いやつ潰すんだよ!」

 トラックが急ブレーキ。くねった山道のピンカーブで停まる。

 勢いつけた遠心力で、蓮、荷台から放り出される。

 もんどりうって道路の外、崖の下へと転がり落ちていく。

 なんとかバランスもって着地に成功。藪のおいしげる葉が痛かったが、かまわず走る。

 背中のかなたでホストたちが騒いでいる。

 頭から湯気をたてて怒鳴っているのは外川。ぬりかべのような巨躯に、愚鈍そうな濁った目。全身をブランドロゴで固めているまではいいが系統もばらばらで組み合わせが無秩序、最悪なスーツファッションで。

「どこ行った!」

 運転席から降りようともしないのが、内田。小学生と間違えそうなほど小柄だが、不摂生で汚れた肌に、陰湿な目。黒のグッチのスーツに、派手で悪趣味な宝石アクセサリを手にも首にもジャラジャラと飾っている。どちらも年は三十くらいだが、内田が外川を見下しているのはありありと伝わる。

「どうでもいいだろ猫ぐらい。さっさと行くぞ」

「俺の荷物、汚しやがって!ちくしょうヴァレンチノだぞ!」

「またギャルでも風呂に沈めりゃいいだろ。うるせぇなぁ」




 藪をかきわけて蓮は進む。山中の街道のほうには「箱根」「小涌谷」などの看板がいくつも見えるが、蓮の視界には入らない。

 空腹で、足がもつれそうになる。

 やがて空き地に出る。

 車がすれ違うための待避所なのか。一台停まるのがやっとのような場所で、錆びかけたコーラの自販機がある。

 自販機の後ろで、小さくなって横たわる。


 車の停まる音がする。

 蓮は警戒する。自販機の陰から気配をうかがう。けれど、やってきたのはトラックではない。白と黒の乗用車。横腹には神奈川県警という文字がある。パトカーだ。

 制服姿の、ぼーっと呑気そうなのが降りてくる。

 健一である。

 年は三十五くらいか。目が開いてないようにみえるほど細く、表情が読めない。寝起きらしくて頭はボサボサ。目を覚ましたいのか、自販機でブラックコーヒーのボタンを押す。

 そして、ふと、自販機から尻尾が生えているのに気づく。

 出てきたコーヒーを取りながら、しゃがむ。自販機の下をのぞく。

 かすかな唸り声をあげて震えている蓮を確認する。

 おどかさないよう小さな声で。

「腹、減ってるのか?」

 返事はない。

 澄んだ朝の、空気を読もうとするかのように、健一が静かに虚空をあおぐ。

 ゆっくりと、パトカーへ戻る。

 ダッシュボードをゴソゴソし、紙袋からサンドイッチを出す。

 ほんとは猫に人間用のは良くないんだけどな、とボヤきつつ、サンドイッチから器用にツナを外して、敷いたビニールの上に乗せる。

 自販機へ戻り、機械のわきにビニールを置く。

 パトカーが去る。


 誰もいなくなる。

 あるのは朝の虫たち、鳥の声。

 陽がのぼっていく。

 びくびくしながら蓮が出てくる。

 ビニールに乗った、ツナをみつける。

 飛びつく。

 すこし虫がたかっているが気にもならないほど夢中で、かぶりつく。涙をこぼしながら、ビニールまで食べてしまいそうなほど舐めとっていく。


 蓮の背後に、黒い影。

 ハッとして振り向く。だが、もう遅い。

 外川が立っている。グフフと嬉しそうに口をゆがめ、魚捕り網を構えている。

 蓮、飛ぶ。

 だがその飛ぶ方向へ、先回りした網が待ちかまえている。

 みずから網へと飛び込んでしまう、痛恨のミス。

 網の中、暴れる蓮。

 ゆうゆうと担いで去っていく外川。

 遠くで内田が、うざそうに眉をひそめてトラックにもたれ、外川を待っている。




 舗装された山道からすこし分け入った、通りからは見えない生垣の裏に、みすぼらしい小屋がある。

 小屋のそばには檻がある。雨をよける屋根すらもない、野ざらしの檻である。頑丈そうだが汚れて悪臭かする。広さは六畳ほどか。中には数十匹の猫が詰められていて、まるで牢獄である。

 高い天井の開口部から、蓮が網ごと檻の中へと放りこまれる。背中から着地してしまい、痛みに悶えながら必死で網から這いだしてくる。

 蓮は、檻を見回す。満員電車のように詰められた中、どの猫もみな不安そうにしている。

「ここ、何なの」

 蓮は問うけど、答えはない。

 猫たちもよくわからないらしく、首をふったり聞こえないふりをしたりする。

「みんな、どこからきたの」

 猫たちは顔を見合わせる。

 捕まった、捕まった、捕まった、と、さざ波のように誰に言うともなく返ってくる。

「どうすれば出られるの」

 猫たちはいっせいに、蓮を見る。

 それがわかればこんなところに誰がいると思うんだ檻が目に入らないのか、とでも言うように。

 蓮は空をあおぐ。

 じりじりとお日さまだけが動いていく、静かな午後がやってくる。


 やがて夜になる。


 そばの小屋の中には内田と外川がいる。

 死刑執行を待つ囚人のような顔して座り、部屋の中央のテーブルの、置かれたスマホを見ている。

 粗野なそぶりで外川は、いらいら、そわそわ、貧乏ゆすりをしている。。

 内田がポケットに手をつっこみ、タバコの箱を出す。だが中が空である。腹を立てて箱を握りつぶして、壁めがけて投げつける。

 スマホが鳴る。

 内田がしがみついて着信をオンに。

 内田の耳のハンズフリーのイヤホンから、低いボソボソした声が流れる。

 内田、うなづく。

 死神からの指令を聞くような顔で、ひとことも聞き漏らすまいと、全神経を音へそそぐ。

 やがて。

 通話が切れる。

 内田、ためいきをついてから。

 顔からはみ出そうなほど目を見開いて内田をガン見している、外川へ。

「・・・助かった」

 外川、緊張がほどけて床に落ちる。

「オジキから、仕事、もらえた。カケコとかタタキはまだやらしてもらえねぇけど」

「じゃ、何すんだ」

「表の猫、つぶして皮にしとけってさ。なんか材料にするんだとよ」

「明日、一日ありゃ終わるか」

「たぶんな・・・」

 内田がちらりと外川へ視線をくれる。

 ふーやれやれと安堵した外川が、そそくさと奥の押し入れへ行く。カビだらけの布団を二組ひっぱりだしてきて、寝る支度をしはじめる。


 虫の声。かえるの声。

 月に照らされる、猫たちの檻。


 檻の中。すみっこのほうに女の子がいる。

 蓮は猫たちをかきわけ、もぐりこみ、女の子へ近づく。

 月光のもと、女の子の長い毛が風になびく。透明感のあるオレンジの毛が、蓮の鼻先をくすぐる。

「こんにちは」

 蓮は女の子へご挨拶をする。

「ぼく、蓮。きみは?」

 女の子は呆れたように蓮を見る。この状況で何をしにきたのかが読めずに困惑している。だが、何をしに来たのであっても何も変わらないと思ったのか。諦めたように口をひらく。

「ジンジャー」

 蓮は何も言わない。ジンジャーを、ただ見ている。きれいなものをきれいだと、純粋に称える瞳でいる。

 こんなときに何を言えばいいかもわからないほどの子供なのねと呟いて、ジンジャーは口をひらく。

「あなたも、捨てられたの?」

 蓮は首をかしげる。

 自分がどこから来たかもわからない。だから、どこかに所属したり捨てられたりした認識もない。

「きみは?」

「捨てられたのよ。置いていかれた。パパの車をを追いかけていたら、ニンゲンに捕まったわ」

 悔しそうに目を伏せる。

「あたし、ペットショップで産まれたの。あなたは?」

 蓮は、泣きそうなほど首をひねって考えて。

「・・・ま、ま、・・・、の、と、こ?」

 聞くだけ無駄だったみたいねと、ジンジャー。

 勝手にひとりで話をしはじめる。

「はじめてあたしをお店のケージで見た時、パパはまるでお姫様みたいだと言ったわ。あたしはペルシャの血統書つきよ。

 パパはあたしを家に連れ帰ったわ。

 ブランド物のベッドに毛布。オーガニックのごはん。ブラッシングだって毎日してくれたわ。きれいだ、って褒めてくれたわ。

 だけど家には猫が他にもいた。あたしは二番目の猫だった。

 そんなの我慢できないわ。

 だから、やってあげたの。一番目の猫を、ひっぱたいて噛みついたの。

 そしたらパパが怒ったわ。こんな乱暴な猫は要らない、って言って。あたしをここに捨てたの。

 ひどいじゃない。あたしが勝ったのに。あたしのほうがパパを愛しているのに。だけどパパは、あたしじゃなくあの子を選んだの。

 人間なんて、大嫌い」

 ジンジャーの燃えるような瞳が、正面から蓮を射る。

「あなたは敵なの?味方なの?

 きれいな毛皮ね。まるで飼われていたみたい」

 蓮は固まっている。

 感情的な瞳があまりにも綺麗で。

 だけど、言葉が見つからなくて。

 それでも、どうしても伝えたくて。

「ぼくの・・・」

 ようやく蓮は口をひらく。

「まま、あげる。じんじゃに、あげる。ままなら、じんじゃを、なかせない」

 ジンジャーの眉が吊り上がる。

 発火しそうなほどの熱を帯び。

「ママ、て、人間じゃないでしょうね」

 蓮はもう我慢できない。

 両手でジンジャーに抱きつく。ぼろぼろと涙を流しながら。

 ジンジャーは驚いて振り払おうとする。だが、必死でしがみついてくる蓮をほどけない。

「ちょっと放してよ!」

「ままは、じんじゃを、なかせない。ままなら・・・。ぼくのままなら・・・」

「いらないわよ人間なんて!」

「おねがいだから、ままをもらって。きっとじんじゃを、ほんとのおひめさまにする」

「嫌よ」

「まま、あげる。ごはんも、あげる。ぼくの、ぜんぶ、あげる。だから、おねがい。ままに会って!」

「ああ、もう、冗談じゃないわ!」

 ついに癇癪起こしたジンジャーが、蓮を突き飛ばす。

 不穏な空気を察して退いていた周囲の猫たちの人垣が割れ、蓮は檻のすみまで吹き飛ぶ。

 痛い、と、うずくまる蓮。

 やりすぎた失敗した、の顔でジンジャーが駆け寄る。

 その顔を、承諾ととらえた蓮が、ぱあっと明るい顔になる。

「ありがと、じんじゃ!」

 ジンジャー、困惑。

 しばらく考えてから、肩をすくめる。

「この檻の中で、よく言えるわね。あなたのしつこさはもう武器になるレベルだわ」









【DIAMOND Vol.03】


 突然、高らかな笑い声が夜空に響く。

 愉快でならないといいたげな声とともに、高い樹上から、ひらりと舞い降りてくる。

 蓮たちの眼前に、音もなく着地する。

 それは、大きな黒猫だ。腰には紅葉のような形の痣がある。年はわからない。ただの猫かもしれないが、何千年も生きてたかもしれないような異質さがある。

「笑って悪かったな、坊主。それでどうやって脱出するのか、ママに会わせるのか、聞いてみたくてな」

 蓮は、すこし考える。

 天井を見る。檻は鉄格子が閉まっている。

 あたりを見回す。

 不審げな目をくれる猫たちがいるだけである。

 蓮は、考える。

「えーと・・・」

 しかし何も浮かばない。

 顔いっぱいに堂々と、ノープラン、と書いてある。

 黒猫は、つまらなそうな顔になる。時間の無駄だったな、と。

 来た時と同じように、ひらりと身をひるがえして帰ろうとする。

「邪魔したな。俺ぁ紅葉ってぇモンだ。ここらじゃ紅葉の親分て呼ばれてる。まぁ、困ったことがあったら声かけてくんな」

「いま、こまってる」

 紅葉はすこし振り向く。

 だが、興味なさげに夜空を見る。樹上へと飛ぶ、準備動作だ。

「そいつぁご愁傷様だ。じゃあな」

 だが。

 そのまま紅葉は凍りつく。

 しまった、の顔。

 すこし振り向いてしまった油断に、足をすくわれる。

 紅葉の頭上に、魚捕り網。

 背中に、外川。

 表の自販機へタバコを買いに出たところらしい。追加でもう一匹捕まえたぜ、と。嬉しそうな顔をして紅葉をくるみ、網ごと、檻の天井の蓋から中へと落っことす。

 そして小屋へと戻っていく。

「汚ねぇ猫だな。ま、いっか」


 檻の中。

 憮然とした顔で紅葉、どっかり腰をおろしてキセルをふかしている。

 他の猫たちは怖がって近づかない。紅葉のまわりだけぽっかり空間ができている。

 蓮だけは、事態をわかっていない。好奇心でワクワクした顔で、紅葉のそばにいる。紅葉の肩や背中におでこをこすりつけようとする。これは猫の、気に入ったものへ自分の匂いをつける友好マーキングの一種だが、紅葉には不愉快らしい。蓮のおでこを手で追い払う。

 けれど蓮は気にしない。何度も、何度も、おでこをこすりつけようと寄っていく。

 しまいに紅葉があきらめて、追い払うのをやめる。

 蓮は大喜び。おでこを紅葉の肩にも背中にもスリスリする。

 紅葉は蓮を、自動モップかなにかと思うことにした顔で、キセルをふかしつづける。

 そして。

 蓮は紅葉の腰に、山伏のような紐がついているのに気づく。紐には三つの大きな、黒く鈍く光る玉がついている。

 なんだろう、と首をかしげる。

 蓮の視線へ、ニヤリと笑って紅葉。

「そいつぁ、霊玉だ」

「れい・・・?」

「俺ぁ、天狗の末裔よ。そいつにゃヤバい力が宿ってる。あんま素人が触っちゃいけねぇぜ」

 蓮は玉を見る。

 あんまり触りたくなくなるような、禍々しい空気を感じて、ちいさくうなづく。

「これ、おいしい?」

 紅葉はがっくり、下を向く。何を言っても無駄かなぁ、と苛々しつつ。

 あのよ、と、言葉を選んで考えながら。

「そいつぁ願いをかなえるためのモンだ。坊主。何か願いはあるか」

 んー・・・、と。

 蓮、すこしだけ考える。

「じんじゃと、まま」

「そうかい、がんばれ。だがな。霊玉なんざなくても夢は叶うぜ」

「・・・かなう?」

「地図を持て。自分が今どこにいるかの現在地、願いがある目的地を、よく理解しろ。正しい方向へ走るんだ。死にさえしなけりゃ何度でも挑める。あきらめさえしなけりゃ、いつかは辿りつける」

「それから?」

「物事の流れをよく見ろ。どんなものにも台風の目みたいなやつがある。そいつを感じ取れるのは一生のうちそう何度もはない。だから感じたら、目を撃て。迷うな。0.1秒あったら世界を変えるパンチだって出せるんだぜ」

 蓮は、きらきらした目を大きく見開いて、紅葉をみつめている。

 おいたん、かっこいい、と。

 ちょっと気をよくした紅葉、ぼりぼりと尻をかいてから、キセルをポンと叩く。反物を着ているわけでもないのにキセルはポンと、紅葉の襟元へ消える。

「正しく走れ。あきらめるな。目をみつけたら撃て。それだけでいい」

「わかった。ありがと」

 のそっ、と紅葉が、腰をあげる。

 座った蓮からは、小山を見あげるような大きさで。

「じゃ、俺ぁ行くぜ。ここは飽きた」

 ふうん、と蓮はうなづいてから。

 きょろきょろとあたりを見回す。

 他の猫たちは、遠巻きにして二匹を見ている。

 ジンジャーも無表情で、これから起こることを見極めようと、二匹の顔へ交互に視線を走らせている。

 蓮が言う。

「どうやって、いくの?」

「どうやってでも。出たいと思えばそこが出口だ」

「れいぎょく、つかう?」

 けっ、と紅葉は笑う。

「この程度でいちいち使えるかい」

 檻の床に落ちていた、角材を拾う。

 ブン、と振ると、竜巻のような強風が起こる。

「こんなもんぁ、こいつで充分」

 ブン、と角材を振る。横一直線に。

 そばにある小屋が風に押されて揺れはじめる。

 何事か、と、内田と外川が飛び出してくる。

 驚愕の顔。

 檻の猫たちは全員、立っていられなくて、頭をかかえて床に伏せてる。

 蓮も、ジンジャーをかばって覆いかぶさって床に伏せながら。

 紅葉を見つめている。何が起こるか、期待にはちきれそうな目で。

 ブン、と角材が唸る。

 内田が叫ぶ。

「誰だ、クロブタなんか檻に入れたのは!」

 紅葉、聞こえていないかのよう。頭上でプロペラのように角材を回転させる。

 楽しそうに笑いながら。

「人生は一度きりだ。さあ、楽しもうぜ!」

 そして勢いつけて、もうひと振りを。


 ガッ、と鈍い音。

 小屋の外壁に穴が開く。


 ゴゴッ、と腐臭がたちのぼり、錆びかけていた鉄の檻が崩れはじめる。柵が一本、また一本、折れて吹き飛ぶ。

 やめろ、やめろ、と駆け寄ろうとする外川。だが風に阻まれる。


 高らかに、紅葉の咆哮。

「野郎ども、さあ逃げろ!」

 それを合図に、猫たち全員いっせいに、折れた柵の隙間から飛び出す。

 まさに競馬の出走のよう。

 あっというまに散り散りになる。

 ドウッ、と砂埃をあげて、檻の重そうな天井が落ちる。

 もし中に誰かがいれば人間であっても即死だろう。

 紅葉も、もう、どこにもいない。


 蓮は、走ろうとする。

 だが目の前に、外川。その後ろに内田。

 こいつだけは逃がすものかと恨みに燃える目で、蓮の前に立ちはだかっている。魚捕り網を構えて。

 二連の障害物。

 蓮の目が、ルートを読もうとする。

 どうする?

 どう飛べばいい?

 脳裏にジャンプの弧の地図を描く。

 そして、地を蹴る。

 身長の三倍の高さは飛べるといわれる猫族の跳躍力の、ありったけをふりしぼり。

 人間ふたりを、まとめて飛び越す。ハイジャンプ。


 そのまま走る。

 壊れた小屋の、壁の穴へ。飛び込んで、突っ切って。テーブルを蹴とばして。あけはなされた窓から小屋を抜け。

 何かが耳のあたりをかすめる。

 でも、どうでもいい。

 暗い藪のむこうに、きらきらしたオレンジ色の髪がみえる。

 必死に走るジンジャーに追いつくことしか、もう、考えられない。









【DIAMOND Vol.04】


 もう、走れない。

 息をきらせたジンジャーの、足がもつれる。

 よろけて転んだところへ蓮がすべりこみ、倒れるジンジャーのクッションになる。

 ジンジャーに怪我はない。蓮、ふーやれやれの顔になる。

 ふりかえる。

 夜の闇はまだ濃くたちこめていて、虫や川のせせらぎしか聞こえない。

 目をこらす。

 何も見えない。

 蓮は、背中で横たわって息をつくジンジャーへ言う。

「すこし休もう。誰もいないよ」


 そばに、民家がある。

 いつごろから人が住んでいないのかもわからないほど朽ちている。

 玄関扉の割れたところから中をのぞくが、何も見えない。カビのような嫌な匂いがしている。

 ジンジャーも一緒に家をのぞくが、中に入ろうとはしない。なにやら嫌なものを感じるのだろう。

 庭には何が植わっていたのかもわからない干乾びた花壇がある。その横に、雨ざらしの子供用ブランコと、キックボードがある。ハンドルとサドルがついてて、足で蹴って進むタイプのもの。だいぶ汚れて錆びてるが、かろうじて元はピンク色だったことがわかる。なにやら少女アニメのキャラクターがペイントされているようだが、図案はもう煤けてしまって判別できない。

 ジンジャーは、花壇のブロックの欠けたところを枕にして横になる。

 蓮もそばで、ジンジャーを護衛するようにお座りをする。

 だけど、気になる。

 そーっとジンジャーのそばを離れる。キックボードを手でちょいちょいする。

 蓮へ背中をむけてたジンジャーが、顔だけふりむいて、蓮を見る。

「こっちにとばっちりがきても困るの。危ないことをしないでほしいわ」

「うん。わかった」

 蓮は手をひっこめる。けれどまたすぐ、キックボードに手をのばす。

 ジンジャーの目が、ばかじゃないの、と言いたげに細まる。

 蓮はだんだん、気になるレベルがあがっていく。




 一方、檻のある小屋で。

 紅葉旋風と、ダメ押しで蓮が蹴とばして通過したせいか。小屋の中は台風直撃したかのような荒れようである。内田が怒りと恐怖で青い顔して、ぐしゃぐしゃになった荷物を片付けている。ない、ない、ここにもねぇぞ、と呟きながら。

 さんざん八つ当たりをされたのだろう外川が、小屋のすみで、びくびくして小さくなって、内田の機嫌をうかがっている。

「なぁ、アニキぃ、俺が悪かったよう」

 内田は聞こえないふり。ない、ない、と呟きつづける。

「その、はーでーあ、おれっと、どんな形なんだよう」

「ハードウェア・ウォレット」

「・・・どんなん」

「USBメモリみたいなやつだ。5センチもない。シルバーで、四角い」

「・・・ふーん」

 外川、一緒に探そうとする。しかし内田に睨まれ、何もできずに部屋のすみへ。




 一方、蓮たちの民家。

 キックボードをちょいちょいし、じゃれて遊んでいるうち、それが立てられるものだと気がつく。

 肉球を乗せて、ハンドルを持つ。

 押す。

 タイヤが鈍く回る。蓮、キックボードと一緒にすべって転ぶ。

 むっくり起き上がる蓮。目が、もう誰にも止められないほど好奇心と挑戦心で、はちきれそうになっている。

 ジンジャーは何も言わない。敵がきたらすぐ動けるようにと周囲に気を配りながら、蓮を見ている。

 蓮、またキックボードを立てる。ハンドルを押す。やっぱり滑る。ただそのとき偶然で、両足がボードに乗っている。

 キックボードはなめらかに、庭をまっすぐに進む。そして生垣にぶつかって、顔から生垣にめりこむ。

 きゅう、と目を回しながらも、蓮はもう楽しくてしょうがない。

 その首に、なにやら銀のチェーンがひっかかっている。

 まるで首輪のように。

 そしてチェーンに、ペンダントヘッドのようなものがついている。

 5センチもない。シルバーで、四角いものが。

 ジンジャーが、それに目を留める。

「あなた、首輪なんか、してた?」

 蓮は、んー、と記憶をたどる。

 ニンゲンの小屋の中を突っ切るときに、何かが耳のあたりをかすめたことを思い出す。何かが引っかかったのかもしれない、と思う。

 首を足でカリカリしてみる。けれど、うまい具合に複雑に絡んでしまったらしく、チェーンは外れない。

 それほど邪魔じゃないし、それよりはキックボードで遊びたい。蓮はすぐに、銀のチェーンが気にならなくなる。

 ちら、と、ジンジャーを見る。

「ねぇ、いっしょにあそばない?」

 ジンジャー、気が乗らなさそう。

「そんなものを触ったら、毛皮が汚れるわ」

「たのしいよ?」

「悪いけど、あたしは子供じゃないの。もうじき一才なの。あなたの年は知らないけれど、たぶんあなたの倍は生きてるわ」

「いっさいは、おとな?」

 正面から聞かれると、自信がなくなるらしい。ジンジャーはすこし迷った顔になる。

「たぶん、大人じゃないかしら。よく知らないけど」

「おとなは、たのしいことがきらい?」

「大人は大人の楽しみがあるのよ。ホテルのカウンターバーでコニャック傾けて美人を口説いたりするの」

「こにゃ・・・?」

「パパがそう言ってたわ。あたしは見た事ないけどね」

 理解できない話はすぐに、蓮のちいさな脳みそから消える。

 キックボードを押す。

「おとなも、のろう!」

 さっきの気持ちいい走りをもう一度したくて。

 蓮は、ボードに乗る。押す。また転ぶ。顔から生垣に突っ込む。

 何度も。何度も。

 転んで転んでまた転んでいるうち、だんだん、転んでいる時間よりは走ってる時間のほうが多くなる。

 へぇ、と、ジンジャーが、見直したような顔になる。

 蓮、太陽の笑顔。

「ねぇ、いっしょにあそばない?」

 ジンジャー、ブチキレ。

 悲鳴に近いヒステリー。

「うるさい!うるさい!うるさいわ!」

 ごめんなさい、と、しょげる蓮。

 そっとジンジャーに寄っていき、ぺろりと顔をなめる。オレンジ色のふわふわの毛をさりさりなめて、仲直りの毛づくろい。

 ジンジャー、毛づくろいは気持ちがいいらしい。機嫌が直っていく。

 蓮、ジンジャーの顔色をうかがう。

 しょうがないわねぇ、の顔しているのを確認し。

 うふふ、と笑って。

 いきなりジンジャーの後ろ首を、ぱくっと噛む。

「・・・え?」

 そのままジンジャーを、キックボードのほうへ引きずっていく。

「ちょっと!やめて!どうして!」

 じたばたするジンジャーをくわえたまま、キックボードを起こす。

 ハンドルつかんで、キックする。

「やめて!こわい!はなしてよ!」

 きーきー騒いているジンジャー。

 蓮は、ごきげん。

 ゆったり走って、庭を一周してみせる。

 体重移動でカーブすることも覚えたらしい。そもそもアスリートとして超一流の種族である。カンをつかむのは早い。

「もう、イヤぁぁぁぁぁ!」

 叫ぶジンジャー。

 けれどジンジャーも猫である。しだいに感覚に慣れていく。

 もう後ろ首はつかまれていない。自分で蓮の胸にしがみついている。走っているボードの中で、落ちないように慎重に、蓮の背中側へと移動する。

 サドルの後ろへ。タンデム二人乗り、後部座席のポジションへ。

 オレンジ色の髪がなびく。

 ふん、悪くないわね、の顔をして。

 蓮の首にはシルバーの、ハードウェア・ウォレットが光っている。




 内田が頭をかきむしる。

 いまだに見つからないらしい。

「なぁ、アニキぃ、それって何に使うんだよ」

 内田は剣呑な目で外川を睨む。

 このバカに説明するには何を話せばいいやら、とムカついた顔で。

「カネだよ、カネ。玖洞會のオジキから請け負ってる仕事のな。銀行通すとアシがつく。だから仮想通貨を使うんだ。俺らの報酬もそこに入る。カネの流れも記録されてる。サツの手に渡ったらマズい。俺の報酬も没収される」

「・・・俺の?」

「何だ、文句あんのか」

「俺たちの、じゃないのか?俺に半分くれるんだよな?」

「・・・」

「・・・あれ?」

「うるせぇ。黙って働け、馬鹿」

「アニキぃ!もうイヤだよこんなの。ワリに合わねぇよぉ!」

「じゃかましいわ!」

「借金かえすの、追っつかねぇよぉ!」

 内田、苛立ち絶頂。そしてハッとする。

 追っつく、か、と呟いて。

 小屋を出る。乗ってきたトラックの荷台からバッグをつかむ。タブレットを出して電源をつける。

 タブレットが起動する。

 画面の中に、地図が出る。

 山中の地図、ひとつの点がチカチカしている。

 にたぁ、とほくそ笑む内田。

「でかしたぞ馬鹿川。あれにGPSつけてたの、忘れてた」









【DIAMOND Vol.05】


 優香のリビングは、蓮がいたときのまま。ベッドや食器やおもちゃが床に点々と置いてある。ごはんも水も、毎日取り換えられているらしくて埃ひとつない。

 真夜中のデスクで優香、黙々とパソコンにむかう。芸能人ばりのあどけない可愛さだが、固く無表情で作業しつづけていて鬼気迫るものがある。

 おそらくは何日もその作業をしているのだろう、迷い猫情報を掲載できるサイトを巡回し、せっせと書き込みをする。蓮の写真をアップし、拡散希望、目撃情報求む、とタイピングしていく。新しい情報もチェックする。パソコン横に置いたスマホからはひっきりなしに通知音が流れる。優香はパソコン作業の合間にそれらもチェック。ツイッタ、インスタ、TicTok、主だったSNSの画面が優香の指から流れていく。

 部屋には人間が、もうひとりいる。大介、32才。

 丸くて人なつこい、人畜無害そうな顔をしている。ユーチューブ撮影のカメラを構えて、優香を撮っている。

 自分でナレーションをいれながら。

「はぁい、今夜も生配信でえっす。ぼくの自慢のイトコちゃん。なんか面白いことしてくれないかなぁ?」

 優香、大介を完全無視。本当に聞こえていないのかもしれない。

「猫の蓮くんがいなくなって、まだ発見されていません。住所バレ怖いんで地域は言えないんですけど、こんなシャム見かけたらコメントかDMください」

 そこだけは聞こえたらしくて優香、いきなり顔をあげる。

 蓮の写真を貼ったボードを掲げる。

 すがりつく強い視線でカメラむこうの視聴者さんを見て、また作業へ戻る。

「お姫さまはゴキゲンナナメみたいでえっす。面白いことできなくてゴメンねぇ」

 大介の手元のタブレットには生配信中の画面と、視聴者コメントが流れる。ざまみろ大介また無視されてやんの、おまえの酷い扱いされてんの面白いよ、投げ銭するからちょっと踏まれてみてよ、などのコメントが躍る。

「みんな、ひでぇなぁ。いつもだけどさぁ」

 五万円の投げ銭つきのコメントが入る。ユーチューブって儲かるの?と。

「んー、どうだろ。先月は200万くらい。半分は優香のものだけどね」

 一万円の投げ銭も入る。美人に殴ってもらえてプラスそんだけ儲かりゃ美味しい商売だよな、と。

「ははは。ぼくもそう思う~」

 毒気も色気もない、あっさりフレンドリーな顔で言うから、視聴者さんも一緒に笑っているらしい。

 その全員を無視して、いきなり優香が立ち上がる。癒し系のゆるふわファッションに、不似合いな登山用リュック。蓮の目撃情報求むビラをごっそりとリュックに詰めて、部屋を出ていく。

 Tシャツ&短パン姿の大介、配信しながら優香のあとを追う。

「それでは今夜のビラ配り、中継いってきま~す」




 紅葉がトラックの荷台で、面白くなさそうな顔でいる。

 あの時。

 内田たちの檻を壊して脱出した。そろそろ樹上の寝ぐらにでも帰ろうかと、かがんだ。空へ舞うための、予備動作だ。

 そこへ、蓮が突進してきた。もうジンジャーしか見えてない彼は、気がついていなかっただろう。紅葉を突き飛ばしていたことを。

 飛行の予備動作中だったことも災いした。

 強羅の山の高みから勢いつけて突かれたせいで、やたら飛距離が伸びていた。

 そうして箱根の山の、ふもとまで飛ばされて。

 小田原、早川インターあたり。東京へむかう長距離用12tトラックの荷台にすっぽり収まる。

 むきだしの建築資材を積んでいるトラック荷台で、紅葉は考える。

 山へ戻るのも面倒だ。ひさしぶりに江戸見物をするのも一興か、と。


 荷台で揺られて、目を閉じる。


 紅葉は、自分の生まれを知らない。一番最初の記憶は、巨木の根元の洞だった。

 空から声が降ってきた。

「なんと可愛らしい子猫じゃ」

 やけに美しい顔の少年がのぞきこみ、目を細めた。

「生まれたばかりか。まだ一人では生きてゆけまい」

 抱きあげられて頬ずりされた。

 それがかの義経公だったと知ったのは後のことだが、紅葉にはどうでもいいこと。

 大切に育ててもらった。まだ牛若丸とよばれていた公の教育係の天狗たちを見て、妖術も覚えた。

 けれど戦で敗走した。

 雨あられと降る矢をみて、公を守れるほど大きくなりたいと願った。脳から血が出るほど強く願った。

 恩返しとか、そんなのではない。ただ、ただ、大切な者を守りたかった。公に笑ってほしかった。

 その時、視界がゆるりと高みに登った。自分が巨大化したことを知った。

 やれ嬉しや。

 紅葉はその体を盾にした。

 全身で矢を浴びながら、無力な自分を呪い、血の涙を流した。


 薄目をあけて、また閉じる。江戸は遠いらしい。


 あれは、武田の城だった。

 信玄は紅葉を気に入り、まるで古くからの重臣のように傍に置いて語りかけてくれた。政局の重要な場面では、信玄は紅葉に相談をした。紅葉は返事をしなかったが、信玄は自分が最初から漠然と決めていたことを猫のお告げと称して行い、激動の時代を駆け抜けていった。

 その彼が、病に臥せた。日に日に弱っていった。もういちど一緒に鷹狩りに行きたかったと微笑む彼のため、紅葉は旅に出た。天狗の霊薬を作りたかった。山から山へと材料を求めて歩き、ようやく作れたのが、三つの霊玉だった。

 紅葉は走った。一刻も早く薬を届けたかった。昼夜を問わず走りつづけ、城へ、彼の寝所へ急いだ。

 城の中では誰もが生気のない顔をしていた。本当は紅葉もその空気の意味を分かっていた。それでも信じたくなくて、廊下を走った。

 寝所の、襖をあけた。

 典医が信玄の枕元にいた。寝具のまわりに大勢の家臣がいた。皆、この世が終わったような顔をしていた。

 眠る信玄の顔には白い布がかかっていた。

 霊玉はいまだ使われず、紅葉の腰にさげられている。


 戦は好きじゃねぇな、と、ひとりごと。


 西南戦争を思い出す。

 紅葉は鹿児島にいた。西郷の幼き日の遊び相手を務めたが、上京の供はしなかった。暖かい南国で、もう誰も傷つかない穏やかな暮らしをしたかった。けれど西郷は帰ってきた。都で何があったかは知らない。やけに幼い頃の遊びをしたがるから、紅葉は子供のような遊びに付き合った。畑を耕し、馬を世話し、晴耕雨読の日々は幸せそうにみえた。

 けれど不平士族は集まってきた。西郷はふたたび故郷を出た。紅葉を家人に預けていった。二度と戻らぬつもりでいるのがわかったから、紅葉は背中を見送った。

 ただ、すべてを視たいと願った。他人の誇りのために死ぬ彼を、せめて自分だけでも記憶に刻んでやりたかった。

 強く、願った。

 守りたい誰かのためなら人は何にでもなれるのだと天狗が言っていた。紅葉はこのとき千里眼を手に入れた。

 はじめは朧げに視えていたものが、しだいに明確な映像として認識できた。

 熊本鎮台の城攻め。田原坂の戦い。可愛岳の夜襲。そして、最期の城山へ。

 実像よりも確かに視えた。西郷洞窟を出た彼が、銃弾に貫かれるのを。もはやこれまでと東を仰ぎ、自刃するのを。


 東京行きのトラックの荷台で、目をあける。

 ニンゲンはもう懲りたぜ、と、紅葉は自嘲する。


 真夜中に、揺れる12tトラック。

 やがて新宿、夜でも眩しい超高層ビル街に入っていく。夜のあいだに資材搬入するのだろう、建築中の工事現場へ。完成したら何十階あるかもわからない巨大オフィスビルになる、剥きだしの鉄骨の森へと吸い込まれていく。

 紅葉は工事現場の手前で飛び降り、トラックを見送る。

 あたりを見回し、天までそびえるビルの光の洪水に囲まれて。いつのまに江戸がえらいことになってるな、と呟いて。

 樹々が茂る小さな公園の、浅い噴水で喉を潤す。ひと休みする。

 ふーやれやれ、と、息をつく。


 ふいに、背中で声がする。

「なんて可愛らしい子猫ちゃん」

 なにやら感動極まった、女の声。

 遠い昔にどこかで聞いた台詞だなあと苦笑し、あたりを見回す。

 優香がいる。

 まっすぐに紅葉を見ている。こんな美しいものを見るのは初めてだといいたげに、感動で震えている。

 どこに子猫がいるのか見回すが、あるのは無人の公園だ。

 紅葉は狐につままれた顔になる。

 優香の腕からドサリと、蓮を探すビラの束が落ちる。

 紅葉を脅かさないよう静かに近づいてくる。

 そして、かがむ。

 おそるおそる紅葉を撫でて、逃げないのを確かめてから、宝物のように抱き上げる。

 紅葉に頬ずりをして。

「まるで生まれたばかりみたいね。ここは危険よ。一人じゃ生きていけないわ」

 紅葉、事態が理解できずに硬直。

 優香の後ろに、カメラ構えた大介がいる。

 紅葉に同情し、助けたいと思ってるのが伝わる顔で。口をパクパクさせて、目で訴えてくる。

(コノオンナ コウコウ カラテ ゼンコクユウショウ テイコウスルナ シヌゾ)

 何を言われてるのかサッパリわからなかったが、コクコクうなづく。

 紅葉は本能で知っている。この世には逆らってはいけない人間がいることを。




 一方、強羅の山。

 朽ちた民家の庭先で。

 キックボードに乗る、蓮とジンジャー。小石につまづいて、キックボードごと転ぶ。

 ふたり一緒にころりんと草むらに投げ出され、ふんわり倒れる。

 なんて楽しいんだろう。

 ふたり、顔を見合わせてクスクス笑う。

 ジンジャーのおなかがグーと鳴る。

 蓮も、おなかがすいた顔。

 枯れた花壇、雨ざらしの軒下などへ目をやる。

 猫族は、生体捕食種。プレデターの本能が、視界から命をサーチする。

 ふたりから気配が消える。

 静寂。

 そして一瞬で、蓮の爪が、トカゲを刺す。

 ジンジャーは蓮をみつめる。

 蓮にならって気配は消したが、そのトカゲが何なのかは理解できない。

 きょとんとしているのへ、蓮がトカゲをさしだす。

 ジンジャー、まだ理解できない。

 そうか、と蓮、トカゲの頭をかじってみせる。

 ジンジャー、首をかしげる。

 蓮は頭のないトカゲを、まるで捧げ物のように、ジンジャーの前へ置く。

 ジンジャー、おそるおそるトカゲをつつく。意を決して、ぱくっとくわえる。

 まずい、の顔。

 けれど空腹。

 まずそうな顔のまま、トカゲをたいらげる。

 蓮、にこにこしてジンジャーをみつめてる。

 おなかがグーと鳴りながら。









【DIAMOND Vol.06】


 笑いあうふたりを、崩れた生垣のすきまから覗いている者がいる。

 内田と外川である。

 ギヒヒと音もなく笑う。

 だらりと下げた内田の腕には、野球のバットが握られている。錆びた古釘が無数に打ち込まれている、釘バット。当たればおそらく標的はミンチになる。

 内田の後ろに、外川。魚捕り網を両手で構えている。

 内田と外川、目配せ。

 枯れた花壇で寝そべるふたりに、飛びかかろうとしたその時。


 ジンジャー、ピンとくる。

 蓮を突き飛ばす。

 転がりながら、蓮はジンジャーを見る。

 釘バット。

 振り下ろされる。

 ジンジャー飛んで避ける。だが避けきれない。肩に、かする。


 悲鳴。

 ジンジャーは痛みで。

 蓮はジンジャーに共鳴して。


 オレンジの塊が、もんどりうって草むらに投げ出され。

 けれど中空で反転。きれいに足から着地する。

 肩から一筋の血が流れる。

 ちっちゃな口をふるわせて何か言いたげな蓮へ、ジンジャーがソッポむいて。

「あなた、きらいよ。しつこいし、子供だし。だけど。あたしのたっとひとりの友達なのよ」

 蓮を守るように背中にかばって仁王立ち。

 正面から、内田を睨む。


 庭の中央に、内田と外川。

 民家のほうへ転がってしまった蓮とジンジャー、じりじりと追い詰められていく。

 民家の扉は穴だらけだが、床は腐っていて猫ですら立入は危ない。

 内田のバットに力がこもる。

 外川の網が大きく広がる

 嬉しそうな嘲り声で。

「さあ、逃げるんじゃねぇぞぉ、汚いクソネコどもがよぉ」


 ジンジャー、悔しそうな泣き顔。

 蓮は考える。いままで見てきたすべてを思い出す。どこかに何か、打破するヒントはないか。

 脳裏に、紅葉の声が蘇る。


「地図を持て」


 蓮、唸る。

 低く背を縮こめて。

 猫と暮らしたことがある者ならわかる、大きな動作のための前哨の姿勢。

 バサッ、と、網が空いっぱいになり、ふたりの上に落ちてくる。

 それを合図に。


 蓮、ジンジャーの後ろ首を噛む。力いっぱいに。ジンジャーが悲鳴をあげるのもかまわず。

 同時に、地を蹴る。

 内田と外川の、足のあいだをジグザグに跳ぶ。

 外川の最後の足をすりぬける。

 ジャンプ。

 夜空に浮かぶ、ふたりの猫のシルエット。


 庭の門に、キックボードが転がっている。

 そこが、蓮のジャンプの着地点。

 ジンジャーをくわえたまま、サドルへ。

 錆びたピンクのハンドルを握る、焦茶の肉球。

 蹴る。

 庭石を。

 門の扉を。

 ジンジャーくわえた顎が痛いが、これだけは死んでも離すものかと強く噛む。


 キックボードがアスファルトへ。

 バウンドしながら飛び出していく。

「ちょっと放しなさいよ、あたし病人じゃないのよ!」

 じたばた暴れるジンジャーをひきずりながら。




 一瞬の出来事。

 内田も外川も、呆然とする。

 ややあって、我に返る。

 内田が外川をブン殴る。

「追うんだよ馬鹿!」

 民家の外に停めてあった、トラックに乗る。エンジンをかける。慌てているからなかなかエンジンがかからないが、何度目かで点火する。

 白のハイエース・トラック。型式U-LH85。

 荷台の家財はほとんど降ろしていて馬力はある。

 山道を下りはじめる。

 遠くに蓮の、ウォレットが光る。

 にやにやしながら内田、GPSいらねぇな、と呟く。




 優香の寝室。

 ぐすんぐすんと泣きながら、優香がベッドで眠る。

 逃がすものかとばかりに紅葉を両手でがっつりホールドしている。

 5センチほど戸をあけて、大介が部屋をのぞく。口パクで紅葉へ。

(ごめんね。オトコに逃げられて気がふれてんだわ。ちょっと遊んであげてくれると助かるなぁ)

 大介は出ていく。

 壁には自作らしい巨大な蓮のポスター。オトコ、というのはこれのことらしい。この顔おもいっきり記憶にあるな、と思いつつ。

 紅葉、優香の腕がどうにも窮屈で困惑している。だが、柔らかい寝具、清潔ないい匂いは気に入ったらしい。ほどよく暖かい腕で、やがて目を閉じて、いびきをかきはじめる。

 ふたり熟睡して、寝返りをうつ。

 ホールドしていた優香の腕がほどけて、寝相悪くベッドに散らかる。一緒に紅葉も。

 人と猫、まったく同じポーズで、夢の中。


 大介の書斎。

 間接照明だけの部屋でパソコンにむかい、視聴者データの分析をしている。

 カメラの前とは裏腹な、真剣な顔。

 壁一面に重厚な本棚がある。マーケティング戦略をメインに、財務、税金、投資、経営学などの専門書。法人設立して不動産経営もしているらしい実用書が詰まっている。

 パソコンのモニタの端に、チャットウインドウが立ち上がっている。

 仕事の合間にオンライン・インタビューも受けているらしい。

 インタビュアからのメッセージが届く。

『いずれユーチューブは時代遅れになりますよ。ここで稼げなくなったら、その後はどうするか、考えていますか。せっかく屈指の外資系投資銀行に勤めていたのに、辞めるんじゃなかった、と考えることはないのですか』

 大介が返信する。

『銀行がすでに時代遅れでしょう。あと十年もすれば年寄りしか使わない衰退産業になりますよ。それよりは組織に頼らない生き方をしたいですね』

『たとえば?』

『ユーチューブが終われば、また次のメディアが生まれます。新しいメディアの特性を理解し、戦略を立て、収益化すればいい。どの業界でもそれは同じでしょう。新しいものは生まれ続けるのだから、一生、学べばいい。戦えばいい。組織のためでなく自分のための戦いからは、得るものが多いです。どんな世界ででも生きていける強いビジネスマンになれますよ』

『優香さんも同じ考えですか。高校卒業後は地元の空手道場で、後進の指導にあたっていたとのことですが』

 そう。と大介は呟く。

 優香はスポーツクラブに就職したが、人間関係につまづいて解雇された。彼女の気晴らしになればとユーチューブを始めた。

 ところが自営の楽しさに目覚めてしまい、大介まで退職したのは想定外だった。

 人生の冒険を教えてくれた優香には感謝している。

『どうでしょうね。優香はビジネスよりはエンターテイナーとして精進するほうが向いているように思います』

『ありがとうございます。ところで、優香さんとご結婚の予定はないのですか。従妹なら結婚できたと思うのですが』

 とたんに大介、これ以上ないくらいの嫌な顔。

 タイピングする。

『野生動物と結婚できるか。あなたにゃリスに見えてるかもしれないが、ぼくにとっては熊だ熊。じょーだんじゃないよバッキャロー』

 しかし送信はしない。

 全消去して、書き直す。

『優香は大切な妹です。これからも健やかに成長してほしいと願っています』




 強羅の山中。

 走るキックボード。追うハイエース。

 ジンジャーは噛まれまくった後ろ首をさすりつつ、蓮の後ろに座って背中から抱きついている。

 下り坂。一気に駆け下りていく。勾配のおかげで地面を蹴る必要もない。

 スピードが上がる。もう息もできない。

 目の前に、カーブ。

 このままでは、ぶつかる。

 でもどうすれば躱せるのか、わからない。

 ジンジャー、恐怖の悲鳴。

「イヤぁぁぁ!」

 蓮も悲鳴。

「きゃぁぁぁ!」

 もうふたりとも怖くて泣いている。泣きながら、蓮はハンドル、ジンジャーは蓮の背中にしがみついている。

 崖にぶつかる!

 と思った瞬間、体が傾く。崖から逃げようとして体が右に倒れて、キックボードも右折。

 なかなか激突しないので蓮が閉じていた目をあけると、崖が消えている。

 そして次のカーブが目の前に。

 ジンジャーが悲鳴。

 蓮も悲鳴。

「もうイヤぁぁぁ!」

「ぼくも、イヤぁぁぁ!」

 わんわん泣きながらハンドル握り、本能で崖から逃げようとして体を傾ける。

 するとキックボードもカーブする。

 そうか、と蓮。

 カッ、と目を見開く。

 猫の動体視力は人間の4倍。闇での視力はさらに7倍。ライダーとしての視野認識力は人間をはるかに凌駕する。

 次のカーブが迫る。

 蓮は自分から、遠心力も利用してカーブ。

 拙いながらも膝をアスファルトすれすれになるまで車体を倒してコーナリングする。

 カーブがくるごとに上手くなる。

 だんだんと楽しくなってくる。

「ひゃっほー!」

 浮かれた蓮の声につられ、ジンジャーも目をあける。

 なめらかにカーブを切っていくライディングに、目をみはる。

 背後に、ハイエース。

 直線コースになるたび馬力で追いつかれそうになる。だが、追いつきそうで追いつかない。カーブがくるたびテクの差で引き離す。内田がハンドル握り、外川が助手席の窓から身を乗り出し、釘バットをふりまわす。バットがジンジャーの背中をかすめそうになる。それをぎりぎりで、かわす。

 内田が頭から湯気たてている。

 蓮、次のカーブで、スローイン・ファストアウト。コーナー抜ける手前で、ガードレールを蹴る。

 かすかにドリフトかかった蓮のタイヤが火花を散らして去っていく。

 そこへ、ブレーキ踏み遅れたハイエースが突っ込む。

 ガードレールを破って、中空へ。

 5メートルほど崖から落下し、バウンドして停まる。


 遠くへ去っていくキックボード。

 ハイエースは藪の中。落下の振動が止んで、車内に静寂がおとずれる。

 ぱらぱらと天井から降る土塊をかぶりながら、外川がつぶやく。

「さぁすが、ハイエース。丈夫っすねー。どっこも怪我しなかったわー」

 内田、おもいっきり外川をブン殴る。









【DIAMOND Vol.07】


 朝の湘南。水平線がどこまでも続き、水面がきらきら反射している。

 砂浜ではウエットスーツのサーファーたちがドラム缶で暖をとり、おそらくは地元の友達だろう、沖のヨットへ手をふっている。

 穏やかな海辺の道。

 柴犬と散歩しているお婆さんが、むこうからくる制服姿の健一に会釈する。

 あいかわらず健一は目が細く、どこを見ているのか分からない茫洋とした顔でいる。

 お婆さんが健一を呼び止める。

「忘れていたわ。裏の藤田さんが、あとで寄ってほしいって」

「何か、ありましたか」

「たぶん庭の水やりのホースのことじゃないかしら。なんだか漏れてるらしいのよ」

「ああ、わかりました。夕方にでも寄りますね」

「助かるわぁ」

 健一の横には、若い警官。亮二がいる。

 呆れたように健一を見ている。

 柴犬にひっぱられてお婆さんが遠ざかってから、亮二は眉をひそめる。

「ホースの修理は警官の仕事じゃありません」

 はははと健一が笑う。

「おれのほうがプロより、安いし早い」

「お人よしですね」

「いいじゃないか。市民の皆様を守るのが務めだろ。おれ、おばあちゃん子だったんだ」

「ああ、はいはい。それでおじいちゃん子で。病人子で。困ってる人っ子で」

「うん。そうそう」

 笑うとますます目がなくなる健一。

 だめだこりゃ、と肩をすくめる。亮二は仕事はできるが、きちんとしすぎて逆に損するタイプの顔つきである。

「だいたい先輩は・・・」

 言いかけて亮二、ふいに足を止める。

 横で健一が立ち止まり、遠くを見ている。

 亮二が健一の視線を追うと、道のむこうに、不審者。


 内田と外川がうろついている。

 タブレットとにらめっこして、剣呑な顔をして。

「たしかにこのへんだろ、クソネコが消えたの」

「アニキぃ、もうどっかで休みましょうよぉ」

 ガガガと画面を叩きまくる怪我だらけの内田の指。

 するとエラー表示。

『GPSは、衛星の電波で目標物を認識しています。地下、トンネル、密集した建物など、衛星からの電波を送受信できない場所での操作は感知しません』

 外川、漢字があまり読めなくて目をこらす。

 内田、キレてタブレットを割りそうになる。


 健一と亮二、目配せする。

 ふたりに近寄っていき、健一が声をかける。

「こんにちは」

 内田、制服を見てギョッとする。

 外川、内田に遅れてアワアワする。

「何をなさってるのですか。すこしお話聞かせていただけますか」

 交通の邪魔にならないよう亮二がふたりを道の端へ導く。

 メモを出し、健一の聴取事項を書きとっていく。

「お名前は?住所は?行先は?免許証も見せてください。はい、バンザイしてくださいね」

 危険物所持がないか、脇やポケットをポンポンしていく。

 そばの路肩には、やっとのこと藪から掘り出したらしい、泥だらけ草まみれのハイエースが停めてある。

 内田と外川、バンザイのまま、恨めしげな顔をして健一たちを睨んでいる。


 その海沿いの散歩道の、すぐ下の海に、巨大なテトラポットが連なっている。

 重なりあうテトラポットの隙間、海水が寄せてくるすれすれのところに、蓮とジンジャー。

 ふたり並んで、置物のように微動だにせず、気配を殺している。

 ふたりの頭上の遠くから、健一の声が降ってくる。

「では気をつけて、行ってらっしゃい」


 笑いながら健一と亮二、砂浜へ降りてくる。

 砂防に健一が腰かける。

 缶コーヒーを飲みながら。

 続いて亮二も、そばに座る。

 どうにも気になることがあるそぶりで、ずっと専用タブレットを叩いている。やがて情報がヒットしたらしく、むうう、の顔になる。

 タブレットを健一に見せる。

 健一も、むうう、の顔になる。

「職質中に照合しきれんかったのは痛恨のミスだったな。現行犯逮捕しときゃよかったか」

「先輩、たまに過激なこと言いますよね」

 空になったコーヒー缶をふる。

 テトラポットのそばに、壊れたキックボードが倒れている。

「不法投棄か。いかんなぁ」

 健一は立ち上がり、缶をポケットにしまって、キックボードを拾う。錆びたピンクの車体、ハンドルとサドル付き。

 ハンドルが根元から折れている。

 ん、と思う。

 テトラポットから、かすかな音がする。

 視線をやると、シャム猫が出てくる。

 それに触るなと言わんばかりに足を踏んばって、健一を睨みつけ、威嚇の唸り声をあげている。

「どっかで見た尻尾かい・・・?」

 まぁいいか、と。

 健一、砂浜にどっかり座る。制服のまま、あぐらをかいて。

「これ、おまえのか?」

 蓮、激しく唸る。

 蓮の背中、テトラポットの中に、おびえて固まるジンジャーも見える。

「そうかぁ。おまえのかぁ」

 健一は目をこらして蓮の肩越しにジンジャーを見る。

 遠くて暗くてよく見えないが、なにやら肩に、血のようなもの。

「もしかしてあの子も、おまえのかぁ?」

 バウッ、と噛みつきそうになる蓮。

 そうかそうかと健一が笑う。

 呆れている亮二に黒いすりきれた革財布を渡して、行け、と手で指示。めんどくさそうに亮二は砂浜から散歩道へ階段を上がっていく。

 健一はカバンからダクトテープを出す。

 慣れた手つきで丁寧に、キックボードを修理する。

 コンコン、と手の甲で叩き、強度を確認。出来栄えにニッコリする。

 そこへ戻ってきた亮二から、薬局の袋と財布を受け取る。

 袋から出した猫缶を紙皿に移し、化膿止めを混ぜて、砂浜へ置く。

「皿は、あとで回収するぞ。それまでに食っとけよ。おれたちが不法投棄するわけにいかんからなぁ」

 健一は立ち上がる。

 さっさと仕事に戻りたい亮二にせっつかれながら。

 戸惑う蓮をふりかえり、手をふって。

「たぶん今日のは、ツナよりは美味いぞ」




 夜の海。

 月の光を浴びて、昼間よりもキラキラと波が乱反射する。

 紙皿があった場所にはもう何もなく、皿の跡だけが残っている。

 砂浜には、桜のような貝殻や、ガラスの小瓶が落ちていて。

 ヤドカリがゆっくりと、貝殻のあいだを歩いていく。


 蓮は、カニと遊んでいる。

 つつくと逃げる。からかうように蓮の爪が追いかける。さくさくと砂の音をたててカニ、小石の下へもぐって消える。

 消えた穴をじっと見ている蓮。

 その蓮をジンジャーが、テトラポットの中から見ている。

 おいでよ、と、蓮がジンジャーをふりかえって誘う。

 すらりとしたシャム猫のシルエットが、水面の光を遮り、蓮の形のシルエットをかたどる。

 ジンジャーが歩いていく。

 蓮の横へ。

 ふわふわの綿菓子のようなペルシャのシルエットが、蓮のシルエットと並ぶ。

 さっきカニが消えた穴から、別のカニが顔を出す。

 蓮の手がパチンとカニを叩く。

 カニはさっと逃げるが、蓮の手には固いものが当たる。

 中身が空っぽの、カニの殻。からからに乾いて、潮の香りがする。

 蓮はカニを、大切そうに月にかざして透かし見る。

 そしてジンジャーの耳につける。

 ちょうど耳の窪んだところにカニのはさみがカチッと嵌まる。イヤリングのように、ジンジャーを顔を飾る。

「じんじゃ、かわいい」

 蓮が最高の笑顔をみせる。

「このカニさんも、ぼくといっしょに、いつか、じんじゃをまもってくれるきがするの」

 月がふたりを照らす。

 静かな潮騒が、深くこだまする。

 春の夜風が、どこまでも優しくて。

 ジンジャー、ちょっと照れて、横をむく。

「あなたのこと嫌いって言ったの、取り消すわ」









【DIAMOND Vol.08】


 誰もいないリビング。

 撮影用機材や蓮のごはん皿がしつらえられている。

 紅葉はひとり寝そべり、蓮の皿からカリカリをつまんで口へ放りこむ。

 緩みきったサマでおしりをボリボリかいて、またカリカリをつまむ。

 どうでもよさげに部屋を見回す。

 優香の残留思念が見える。


 繁華街の路地裏だった。

 いつもと同じ、道場からの、見飽きた帰り道だった。

 腐った匂いがする業務用の巨大なごみ袋の陰に、ぼろ雑巾があった。

 雑巾が、かすかに動いた。

 いつもなら気にも留めないのに、なぜこの時だけその動きを凝視したのか、わからない。

 優香の並外れた動体視力が、ぼろ雑巾を感知した。

 ふらふらと引き寄せられて近づき、足を止め、よく見た。

 抱き方もわからないのに、抱き上げてみた。

 両手で、そっと。

 瘦せ細って死にかけ、虫のたかった、シャムだった。

 死にかけていたが、まだ息があった。

 シャムが優香の手の中で、頭をこすりつけてきた。

 母親に甘えるように。

 優香には聞こえた。ママ、と。たしかに呼ばれた。

 世界が真っ白になった。

 自分が奥底で求めていたものが何なのか、本能で理解した。

 どれだけ嫌われても蔑まれても。

 その子のためなら、いつでも死ねた。


 そんな残留思念を眺め。


 しょうがねぇな。

 つぶやいて紅葉は立ちあがる。

 キッチンへ行き、換気扇をみつける。よいしょ、と壁によじ登り、換気扇に頭をつっこむ。

 頭はなんとか穴から抜けた。しかし腹がつっかえて通れない。

 釣られたばかりの魚のようにビチビチ跳ねる。

 換気扇を壊して、どすんとマンションの外廊下へ降りる。


 マンションの中庭を、買い物帰りの優香が歩いている。

 ふと足をとめる。

 街路樹のあいだに黒い影がよぎる。

 優香、般若の顔。

 ダッシュする。エレベーターホールへ駆け込む。だが、どの機も1階から遠い。

 優香は非常階段へ。段を飛ばして10階まで駆けあがる。

 家の前。壊れた換気扇発見。

 あの影が誰のものだったか瞬時に確信。

 玄関先へ荷物を放り込み、木板と五寸釘とで換気扇穴を5秒でふさぎ、キャリーバッグをつかんで、マンション飛び出す。


 マンションエントランスで大介とすれ違う。

 映像素材のロケハンから帰ったところか。肩に機材をひっかけ、ロードバイクを押している。

 華やかな空色チェレステ、bianchi、SPECIALISSIMA。新車価格で100万円の競技用自転車である。

 大介、走り去る優香を見送る。

 何かを察する。ロードバイクとともにエントラスを出て、発車。優香を追う。

 しかし都心の道路はどこも混雑していて、スピードは出ない。

 走る優香に追いつかない。

 大介は、スマホをナビ位置にセット。アプリで優香の位置情報を見て。

 ツイッターに書き込む。

『情報求む。黒、追加』




 神奈川県警、某署。

 課長のデスクで、亮二が紙の資料を広げる。

 すこし頭髪が乏しい50代の課長は、警官というよりは事務屋の顔つき。あまり愉快ではなさげな空気で、亮二の話を聞いている。

 亮二が端末データから、内田たちの顔写真を拡大する。

「ホストのくせして未成年の女性に暴行。そもそも担当客でもないただの知人の女性を、無理やり自分たちの店に連れ込んだそうです。で、リシャール開けさせたあげく、払えないなら友達呼んでこい、と自分たちの寮に軟禁して、暴力を加え、水を張った風呂桶へ頭を押さえつけた、と」

 亮二の指が、被害女性の写真を拡大。紫色に腫れた顔に包帯まいた、痛ましい写真が表示される。

「リシャール?」

「ホストクラブで好まれている、一本50万円のブランデーです」

「・・・」

「被害女性と保護者から、傷害罪で訴えられていました」

「それを取り逃がしたのかぁ。へぇ、ほぉ、ふぅぅぅん」

「・・・ごめんなさい」

「ごめんで済んだら警察いらない。しかしよくあるクズどもの話だな」

「そうですね」

「これって警視庁の管轄だろう。ガソリン代だってタダじゃないのに、なんで東京のゴミをうちが拾うんだ」

「神奈川からゴミを出さないためじゃないですかね」

 ゴミ、の言葉のところで課長と亮二、そろって隣を見る。

 隣のデスクでは健一が、誰の声も耳に入らないほど一心不乱に、幼児用のロボットのおもちゃを修理している。

 課長がめんどくさそうに頭をかいて。

「このゴミ、クビにしちゃダメ?」

 亮二もめんどくさそうに答える。

「ロータリークラブからドツかれますよ?」

 ああ、と課長が小さなうなり声をあげる。

 どっち転んでも、めんどくさいな、と。




 重なるテトラポットの奥、大きな排水管がある。増水時に川からの水を海へ排水するためのものか。入口に柵がしてあり、手前がちいさなコンクリのスペースになっている。

 横になるジンジャーを、蓮か懸命になめて毛づくろいしている。

 そばには蓮が獲ったらしい魚が、骨と頭になって、重なっている。

 ジンジャーは元気がない。

「あたし、きれいじゃないわ」

「そんなことないよ」

 怪我は化膿はしてないが、感染症も心配される。

 純血種は無茶な交配のせいで遺伝病を抱えていることが多く、定期的な病院通いが必要になりやすい。しかも長毛種である。ふつうの猫以上に人間の手を必要としている。長い毛をブラシしないでいると毛玉になり、そこから皮膚炎や便秘になり、命にかかわる症状になる。

 蓮は毛づくろいしつづける。

 ジンジャーがゆっくりと衰えている気がして、悲しい。




 コンビニの裏で。

 内田が正座して、見えない誰かに土下座している。

 隣で外川も正座し、神妙な顔。

 内田の耳からはハンズフリーイヤホンの声。

 ドスのきいた声が、呆れ、怒り、何かの指示を出している気配がする。

「へい。・・・へい・・・」

 内田はかすかに涙声。

「次は、できます。絶対です・・・」

 電話が切れる。

 内田の全身から緊張がほどけ、糸の切れた人形のようにグッタリする。

 外川がのぞきこんでくる。

「カケコもさせられん馬鹿は初めてだってさ」

「ああ・・・」

「ハードウェア・ウォレットを取り返せ。だとさ」

「うう・・・」

「できなかったら、東京湾かな」

「アニキ、かわいそう」

 内田、外川をブン殴る。

「てめぇが先に処分されんだよこの大馬鹿野郎。どこのどいつだ、檻にクロブタ入れたのは!」




 西新宿、再開発で建設途中の超高層ビル群の、一角。

 工事中のビルの中。まだ壁も床もなく、むきだしの鉄骨が組まれている。

 鉄骨のあいだを紅葉が走る。

 平日の雑踏が遠ざかり、下方からはビルの型枠職人たちの声がする。

 紅葉、ちらりと一瞬、下界を見る。

 血相変えた優香が聞き込みをしているのが見える。

 紅葉は優香の影へ、すまんな、の顔をして。

 走りつづける。

 やがて屋上らしき、広い階へ出る。

 どこまでもひろがる青い空に、容赦ない強いビル風がなびく。

 目をあけているのも辛いほどの風のなか、紅葉は南西を見る。

 視る。南西を。

 無表情。

 やがて、瞳が金色に光らせたまま、腰に手をやる。霊玉を、ひとつ、ちぎる。

 黒い肉球の中のそれを投げようとして。

 しかし直前で躊躇する。

 ものすごく嫌そうな顔。

 青い空に、かの信玄公、優しかった御屋形様の顔が浮かぶ。

 紅葉、さらに顔をしかめて嫌そうな顔。

 霊玉を使いたくないらしい。


 工事現場の入り口で。

 優香が建築士らしき作業服の人々へ、スマホの紅葉の写真を見せ。

 現場に入れろと揉めている。

 善良そうな建築士たちは逃げようとするが優香に腕をつかまれる。

 後ろに、大介。

 助けもせずに優香を撮っている。

 一番の悪魔はこいつかもしれないと思わせる、爽やかな笑顔で。









【DIAMOND Vol.09】


 コンビニの裏の藪から、内田と外川、ひょっこり顔を出す。

 自転車のおまわりさんが表通りを走る。

 内田たち、顔をひっこめる。

 数秒後にまた顔を出す。

 コンビニから出てきた子供がそれを凝視している。

 母親が強く子供の手をひいて、足早に去る。

「関わっちゃいけません。趣味悪いのがうつるわよ」

 内田たち、自慢のスーツがヨレている。


 テトラポットの奥で。

 身を寄せ合っている、蓮とジンジャー。

 ふたりで目をかわし、

「おなかすいたわ」

「うん。すいたね」

 蓮がジンジャーの頬をサリッとなめる。

 テトラポットを出ていこうとする。

 するとジンジャーもあとをついていく。

 蓮、ぱぁっと嬉しそうな顔になる。

「いっしょに、いこう。おさかなとあそぶの、たのしいよ!」

 テトラポットの外には、海。

 すこし強めのお日さまが、まぶしいほどに照っている。

 蓮がジンジャーをふりかえった、その時。


 頭上にバサッと、音がする。

 ふたり、飛びのく。

 いつのまに、そこに内田がいる。

 外川も。

 待ち伏せされていた。

 振りおろされた釘バットは内田が握り、外川は網を構えている。

「ちっ、逃がしたか」

 じりじりと近づいてくる。

 目配せすらもせず阿吽の呼吸で、蓮とジンジャー、走る。

 砂浜から散歩道へと登る階段を。


 海沿いの散歩道、ガードレールには、ピンクのキックボードが立てかけてある。

 子供の忘れ物なら持ち主がすぐ気がつけるようにと、健一が運んでおいたものだ。

 蓮、ボードに飛び乗る。

 ジンジャー、蓮の背中を抱きしめて。

 地を蹴る。

 散歩道をキックボードが滑りだす。


 内田たち、追ってくる。

 砂浜から散歩道へ。停めておいた路肩のハイエースにダッシュする。

 駐禁を切ろうとして近寄ってきていた警官を突き飛ばし。両側から乗り込んで発車する。

 フルアクセルで遠ざかるハイエースの、ナンバーをカメラに収めて、警官たちが顔を見合わせる。

「ケンちゃんに、罪名いっこ増えたの教えとく?」

「うん。公務執行妨害ね」

 おじいちゃん警官がふたり、可愛く笑いあう。


 ハイエース、みるみる追いついてくる。

 山道とは逆のコース取り。平地でしかも直線コース。たかがトラックとはいえエンジンついてるマシンに、キックボードがかなうはずもない。

 ただ、そこは国道1号線から134号線へ、山から湘南へとむかう道。右手に海、そして散歩道、左手に車道がある。散歩道のガードレールに隠れながら走るキックボードを叩くには、反対車線を逆走せねばならない。

 はじめは外川が徒歩で網持って追う。内田がトラックで伴走する。

 ボードに逃げられる。

 ざけんじゃねぇぞと内田がバットを投げてくる。

 外川、網のかわりにバットで追う。

 やはり逃げられる。

 頭にきた内田、外川を乗せて反対車線を逆走。

 ふたりまとめて対向車に轢き潰されそうになる。

 すべって転んで、ハイエースがガードレールに乗りあげる。


 蓮とジンジャー、走る。

 何も考えず、ふりかえりもせず、ただ一直線に、ありったけの力で地を蹴りつづける。


 らちがあかねぇ。

 呟いて内田、海側ガードレールに乗ったハイエースを外川に命じて散歩道へ降ろさせる。

 さいわい通行人はいないが、いても轢き殺すつもりでハイエースガ散歩道を走りはじめる。

 みるみるキックボードに追いつく。

 ガードレールがガードにならない。

 蓮、走る。

 追われる気配は感じている。

 ジンジャー、あなたを信じてるわと言いたげに、蓮の背にまわした腕に力をこめる。

 蓮、走る。

 ガードレールを飛び出す。

 車道へ。

 猛スピードで走っていた海側車線の車たちが驚いて急ブレーキ。

 ブレーキ間に合わずに接触しかける車もある。

 バッキャロー飛び出してくんじゃねぇ、と叫ぼうとするが運転手たち、それが人間の子供でないことに気づいて、目が点。

 信じられないものを見ている目で、キックボードを見送る。

 そこへハイエースが突っ込んでくる。

 こいつは叩いていいかとばかりに巨大12tトラックがハイエースを威嚇。

 内田は必死でそいつをよけて、キックボードを追う。


 追われるキックボード、内陸側へ。

 ほとんど車もない車道。

 蹴って、蹴って、走る。

 虹ケ浜から平塚へ。たまに前を行く車があればキックボードが左側をすりぬけ、さらにハイエースが追い抜きをかける。

 もう盾になるものも武器もない。

 みるみる距離が縮まっていく。




 高層ビルの鉄骨の屋上の、紅葉。

 腕組みして悩んだあげく、ため息をついて。

 霊玉を握る。

 高く、高く、霊玉を打ち上げる。




 涙目の蓮。

 それでも走る。

 背中で外川の釘バットがぶんぶん唸っている。

 バットがかすりはじめる。

 キャッ、とジンジャーの小さな悲鳴。


 空で、黒い鈍いものが光る。

 爆音。

 ふたり、黒い光に包まれる。


 光の中。

 ぎょっとする蓮。

 何が起きたかわからないジンジャー。

 キックボードが、銀色の小さなオートバイに変わっている。

 NSR50に似た、けれどシートがもっと低くて猫でも座れる、きらきら光る、銀色のオートバイに。




 紅葉、目を閉じて空をあおいで、お屋形様の冥福を祈る顔をしてから。

 何事もなかった顔に戻って、ひらりと軽く、ビルから姿を消す。




 蓮の手が、ギアに、スロットルに、すんなり馴染む。

 小さな足でシフトチェンジしながら、スピードをあげていく。

 最悪の条件だった平地直線コースが、今は最大の味方となる。

 機械が蓮に溶け込んでいくまでの、最高の練習コースに。


 スロットルをあける。

 小さくても、フルカウルのレーサーレプリカだ。

 加速。

 アナログの速度計が、トップスピードを告げる。


 背後の内田、きょとんとしているが、すぐに我に返る。

 何が起きたか考える頭も時間もない。

 するべきことは、猫の撲殺。

 やつの首には今もウォレットが光っている。

 加速。


 彼方から、サイレンが響く。

「そこのハイエース停まりなさい」

 と、拡声器。

 内田、バックミラーを見る。

 白と黒の車がいる。

 確認しなくてもわかる。横腹には神奈川県警の文字。パトカーだ。

 内田、脊髄反射で、アクセル。

 こちらもトップスピードへ。


 窓の景色が猛スピードで流れる。

 運転席に健一。

 パトカーはクラウンGRS200。車の性能は群を抜いているが、ディフェンス・オンリー。攻撃はできない立場上の不利あり。

 ハンドルを握る。

 前方2台の流れを見据えて。

 猫とオートバイ。ありえないものを見ている気はするが、今はそれについて考察している場合ではない。小さな命はそこに実在しているのだから、今できることをするだけだ。


 走る蓮。

 脳とマシンが直結する。

 視界の遠く、北東に、ピンクの点が見えている。

 これを帰巣本能と呼ぶのかはわからない。ただ、そこにママがいるのを蓮は知っている。

 北東へ。新宿へ。

 だがそのためには、どこかで左折せねばならない。


 遠くに、高浜台の交差点。

 膠着した三つ巴、コースアウトは即死を意味するチキンレース。

 左折のために減速すれば、ハイエースに轢き潰される。


 健一、後方から流れを見ている。

 銀色のオートバイの尻を。妙に左に寄りたがっているような。

 もしや、と思う。

 一時的にでもハイエースを減速できれば、流れが変わるかもしれない、と。

 健一、カッと目を開く。

 糸のようだったのがギョロ目になり、急加速。ハイエースの横につけ、暴力的な体当たり。


 飛び上がる内田たち。

 すれすれのところでハイエース逃げる。

 アクセルから足が離れる。

「警官のくせに何しやがる!」

 窓をあけて怒鳴り合う。

 健一、のほほんと。

「ごめぇんねぇぇ! ちょっとお話聞かせてもらって、いいかなぁ!」

 前方へ視線を送る。

 想いが届いたわけでもないだろうに、蓮のオートバイ、高浜台を左折する。

 よし、と見送って。

 横を見ればハイエースはいない。逃げる気満々で加速し、高浜台を左折する。

 健一も走りつづける。


 国道246号線を、まっすぐに。

 脳裏の地図のピンクの点を目指して、蓮が走る。


 つづいてハイエース。

 もう正気ではない鬼気の顔。


 後方から見守るクラウン。

 どうすればあの子猫たちを保護できるのか考えあぐねながら。

 信号にさしかかるたびサイレンをつけ、周囲の車にお詫びをしながら通行止めをする。

 やがて前方に、多摩川がみえる。新二子橋を渡れば東京都内。管轄外だ。

 健一、無線をつける。

「あー、ごめんねぇ、亮ちゃん? おれ。今から有給とるねぇ。届け出しといてくれるぅ?」

 無線のむこうがキレている。

「ちょっと先輩、ふざけんじゃないですよ! せめてパトカー返してから言ってください! いつもいつもいつもいつも誰が後始末してると思ってんですかクソッタレ! 先輩なんか、ニューナンブの角に頭ぶつけて死んじまえ!」

 うるちゃい子でちゅねリョウちゃんは。

 呟いて健一、無線を切る。

 対向車線に、警視庁のパトカー。健一のクラウンを、不審者を見るような目で見ている。

 健一、細い目に戻っている。

 年寄りキラーの微笑みで、会釈。

 つられて警視庁も会釈し、パトカー同士がすれちがう。









【DIAMOND Vol.10】


 都内に入るとますます道は混む。

 だが、何かの撮影と思われるのか珍しいものに見慣れているのか、誰も子猫たちに注目はしない。かわいいねと指さす通行人がいるくらいである。

 車の流れもゆっくりになる。

 蓮は、ローギアに落として車のあいだを器用にすり抜けしはじめる.

 猫の目は赤を認識できない色盲なので、信号は青と黄しか見えていない。だが光の位置で覚えたのか。赤信号では路肩のブロックに足をつき、ちまちまとブレーキングしている。

 そしてシグナルブルーで交差点へすべりこむ。

 高架下の直線道路。

 懲りない内田がまだ追ってくる。

 外川がふりまわす釘バットはさすがに脅威で、周囲の車に苦い顔をされている。

 追いつきそうで追いつかない。

 車線も増えて、見通しがきかなくなる。

 ちょこまかと走る銀色のオートバイがどこにあるのか、健一ですら見落としがちになり、つい冷静さを欠きそうになる。

 外川、窓から半身を出して伸びあがる。

「あっちだ!」

 指さすほうへ、内田がハンドルを切る。

 隣車線へ乱暴な車線変更をかけ、あやうく他の車と接触事故になりかける。

 つっかかられた桃色の軽自動車、運転席のお嬢さんが泣きそうになっている。

 右から左へ自在に抜けていく蓮、釘バットをよけて車の海へ。


 上馬の交差点。

 信号は青。

 蓮、ほとんど減速せずに交差点へつっこむ。わずかにリアブレーキかけて後輪スライドさせ、鮮やかな急旋回。左の環状7号線へと消えていく。

 ひゅう、と健一、賞賛の口笛。

 躍起になって窓からバットふりまわすハイエースにつづき、健一は普通にノーテクで左折する。


 信号が赤。

 交差点最前列へ蓮が滑りこみ、数十台後ろへハイエースが着く。

 外川、ダッシュで歩道へ飛び出していき、通りすがりの子供から、ライフル型ウォーターガンを奪う。

 子供がワッと泣きだす。

 母親がおびえて子供を抱きしめる。

 無視して外川、蓮にむかって撃つ。

 ジンジャーが悲鳴。肩の傷にかかったらしい。

 蓮、信号機を睨む。

 青になる。

 蓮が発車。

 走りながら追って撃とうとするが、ウォーターガンは当たらない。

 後ろから来たハイエースに飛び乗る。

 オートバイは車の流れのなかで右に左に逃げていく。

 ハイエース、助手席から狙い撃つ。

 よけながら蓮はクラッチを、優しく揺するように紡ぎはじめる。ハープでも弾いてるかのようなクラッチの動きとともに、小回転がより正確に複雑になる。外川は気がついていないが健一にはその動きが見えて、絶句している。とんでもないやっちゃ、とボヤきつつ。

 ウォーターガン、弾切れに。

 カッとなって外川、ウォーターガンを投げ捨てる。しかしそいつは道路標識に当たる。バウンドして跳ねかえり、ハイエースのフロントガラスにぶつかって割れ、残り水をぶちまける。

 内田の視界が、泥だらけ。

「こンンンンンの、馬鹿野郎!」

 すでに痣だらけの外川の顔に、ゲンコツを。


 信号待ち。

 歩道の主婦が、停止線の最前列の、銀色のオートバイに目を留める。

 通りすぎてから振り返り、二度見してから、スマホで写真。

『もしかして、この子のこと?』

 ツイッター送信。


 蓮、走りつづける。

 世田谷代田を抜け、首都高4号線の高架下、甲州街道へ。

 大原の交差点を、蓮のオートバイが流れるようにリアブレーキで通過していく。

 半地下のような薄暗さのなか、銀色の美しい弧を描いて。


 首都高、新宿料金所が近づいてくる。

 ピンクの点が、脳裏で点滅する。

 メルセデスベンツ販売店のわきを左折すれば、そこはもう超高層ビル群。天空まで無機的にそびえる新宿の摩天楼である。だだっ広いアスファルトは、小さな連には、飛行機も飛ばせる滑走路のように映る。

 もうすぐだよ。

 ジンジャーに語りかける。

 あそこに、ままがいるよ。

 ジンジャーの腕がすこしだけ緩む。

 疲れているのだと蓮は感じる。

 脇をきゅっと締め、あとすこしだよ、と合図を送る。

 ジンジャー、きゅっと腕をしめ返してくる。

 蓮と、ジンジャーと、オートバイ。

 3つがひとつの生き物になって、十二社通りへ。


 車の流れが途切れる。

 そこへハイエース、轢き殺すつもりで突っ込んでくる。

 蓮、逃げる。小ターンで避け、歩道へ。

 歩道橋がある。

 塗装の剥げかけた薄緑の階段へ。ありったけの前のめりの姿勢になって前輪を浮かせる。


 ウイリーか?と健一は思う。まさかそんな無茶を、と目をこらす。

 いや、ちがう。

 健一、クラウンの中で叫びそうになる。

 やめろ。

 無理だ。


 けれど、蓮はスピードを緩めない。

 ガガガとものすごい擦過音をたて、オートバイが歩道橋の階段を駆けのぼる。

 登りきったところで微ブレーキの急旋回。そのまま右折し、新宿中央公園へ。

 摩天楼どまんなかに陣取っている、広大な森へ。


 ハイエースは角筈の入口から公園へ。

 車両止めがあるのもかまわず力ずくで車体を押し込み、馬力で侵入。

 先回りして、歩道橋の出口へ。

 網をひろげて待ちかまえている。


 蓮、跳ぶ。

 歩道橋、てっぺんから踏み切り、ハイジャンプ。

 網も、ハイエースも、飛び越えていく。


 健一、恐怖で目を閉じる。

 しかし悲鳴は聞こえない。

 薄く目をあける。

 空いっぱいに、銀色の弧。

 むせかえるほどの春の命にあふれる緑の中へ、吸いこまれていく。


 ハイエースが追う。公園の中へ。

 平日の昼間とはいえ人はいる。轢かれそうになる人々の悲鳴があがる。

 健一は路肩にクラウンを停め、走って追う。


 大きくバウンドし、オートバイが着地する。

 後輪にドリフトかけて方向転換。

 子供プールのジャブジャブ池は、オフシーズンで、まだ水が張られていない。

 丸くて広くて乾いたプール、ど真ん中を、オートバイが駆けていく。

 人々は小さなオートバイを見送る。

 それから、後ろからきたハイエースに驚いて逃げる。


 蓮、そのまま公園大橋へ。

 だがハイエースが先回り。橋を塞ごうとする。

 蓮、左へそれる。

 階下にあるのは片道二車線道路と緑地帯。

 蓮、加速。

 ブロックで踏み切る。

 前輪が浮く。

 蓮とジンジャー、正中線の整った美しいフォームで、空へ。

 遠くへ。

 スーパー・ハイジャンプ。


 けれど。

 花壇の土が予想よりも柔らかく。

 蓮のクラッチさばきに、誤算が生じる。


 後輪が浮く。

 オートバイが飛ぶ。

 だが、飛距離が足りない。

 高いフェンスのふちに、タイヤがかする。


 青空に。

 蓮と、ジンジャーと、オートバイ、3つに分かれて散っていく。


 蓮、地面に叩きつけられる。

 静かな遊歩道。

 立入禁止区画の、ちいさな森。空が見えないほど樹々が茂り、暖かな芝と腐葉土が蓮を包む。


 蓮の目の前に、キックボードが転がっている。

 魔法が解けたのだろう。

 錆びたキックボードはダクトテープも千切れ、ハンドルが折れている。

 蓮、体を起こす。

 キックボードのサドルを撫でる。

 ありがとう、きみもぼくの友達だったね、と。

 想いをこめて。




 離れた樹上に、紅葉。

 木の枝で作ったパチンコを構える。

 遠くに、走る健一。

 腰を狙う。

 パチンコを打つ。

 ホルスターの銃に当たって、跳ねる。

 天高く跳ねあがり、消えたようにみえた銃が、落ちてくる。

 紅葉の腕に。


 県警公式拳銃、ニューナンブM60。

 紅葉はキセルに火をつける。

 咥えキセルで、ニューナンブを抱く。実弾装填を確認し、長距離ライフルのように構える。

 紅葉の片目が、スコープ化。

 黒い十字の照準の中に、蓮たちの遊歩道が映る。

 紅葉の肉球が、安全装置のゴムを飛ばす。撃鉄を起こす。


 キセルを吹き捨てる。

 それと同時に、引金を。









【DIAMOND Vol.11】


 ガサッ、と音がする。

 ふりむいて蓮、飛びすさる。

 毛を逆立てて、うなる。

 木の枝をかきわけて、内田が現れる。

「探したぜぇ、クソネコちゃん」

 蓮、にげようとする。だが逃げられない。

 後ろから外川が現れる。

 外川の腕に、ジンジャー。青ざめた顔をして、目を閉じて、後ろ首をわしづかみにされ、ぶら下げられている。

 内田、外川へ。

「その汚いの、まだ殺すなよ。釣りにぁあエサが必要だからな」

「へい、アニキ」

 じり、じり、と間合いと詰めてくる。

 蓮も後ずさる。

 内田の右手に釘バット。左手に網。

 ふりおろされる釘バット。

 蓮、躱す。

 芝に釘バットが刺さる。

「・・・ンのやろ」

 内田、網を両手でひろげる。

「手伝えよ外川!」

「へ、へいっ!」

 外川、つかんでいるジンジャーをどうしようか考え、芝の上に乱暴に落として釘バットを持つ。

 ジンジャーは動かない。

 彼女を中心に輪を描くように、蓮が逃げる。

 内田が網を投げる。

 ぎりぎりで逃げる。

 網が拾われ、また投げられる。

 蓮、また逃げる。

「しぶてぇな、ったくよぉ」

 俺たちもだがなと外川が笑う。

 内田、蓮だけを見ていてその声も耳に入っていないよう。

 追われ、また逃げる。

 くりかえしているうち蓮に疲れがみえてくる。

 瞬発力が弱まってくる。

 枯葉に足をとられる。

 その瞬間。

 網が、空を覆う。


 体が浮く。

 網に捕らわれ、網ごと吊られる蓮。

 死にもの狂いで暴れる。

 爪が剝がれる。

 剥がれた事にも気がつかないほど、もがく。

 内田の高笑い。

 外川が釘バットをふりおろす。

 暴れる蓮に、なかなか当たらない。

 何度も打たれる。

 蓮の、足に、腹に、かすりはじめる。

 だがその釘が、網にひっかかる。

 蓮の爪も。

 網がすこしずつ破れはじめる。


 バツッと派手な音がする。

 網が、裂ける。


 蓮が飛び出す。

 けれど網に、首のチェーンがひっかかる。

 内田の手が、チェーンをつかむ。

「手こずらせやがって、このガキ!」

 チェーンを締めあげる。

 ハ-ドウェア・ウォレットが揺れる。

 蓮、さらに暴れる。

 けれど苦しい。息ができない。

 暴れても、暴れても、苦しさが増していく。


 薄れていく意識の中。

 祈る。

 神様、としか呼びようのない何かへ。


 おねがい。

 ぼくにも、せかいをかえるぱんちを、うたせて。

 じんじゃを。

 あのこをまもる、ぱんちを。

 どうか。

 いちどだけ。


 銃声が轟く。


 銀のチェーンが砕ける。


 落下する蓮、解き放たれる。

 地を蹴る。

 跳ぶ。

 むきだし全開の爪で、内田の頬へ、右ストレート。

 眼球に刺さる。

 のたうちまわる内田の頭を蹴り、ジャンプ。

 外川が釘バット構えてジンジャーの前に立ちふさがる。

 鼻に咬みつく。

 食いちぎる。

 鉈のようにふりまわされる釘バットをよけ、顔を踏み台にしてジャンプ。

 腐葉土まみれの爪が、鼻の傷に深く食いこむ。

 蓮、ジンジャーのもとへ。

 後ろ首をくわえて、ラスト・ジャンプ。

 茂みのむこうへ。

 ひた走る。


 内田が釘バットを外川から奪ってつかんで、ふりあげる。

「このガキ!」

 蓮の消えた茂みを叩こうとする。

 だが。

 その腕を、後ろから伸びてきた腕がつかむ。

 内田が暴れる。

 だが腕はびくともしない。まるで鉄の棒につながれたよう。

 内田、驚愕の顔。

「すみませんがね、お兄さん」

 健一である。

 にっこりと笑顔で。

「今度こそ、お話をうかがわせていただきますね」




 樹の上に、紅葉。

 ニューナンブの銃口から白煙があがっている。

 正確に、わずか3ミリもないチェーンを撃った、自分の射撃の腕に、満足げな顔をして。

 小枝のパチンコにニューナンブをセットし、構える。

 健一の、腰のホルスターめがけて、撃つ。


 健一の腰に、小さな衝撃。

 あれ、と思って自分の腰を見る。いつものニューナンブがある。

 なんだか熱いが、気のせいか。

 内田へ向き直る。









【DIAMOND Vol.12】


 内田の腕とつかんだまま、健一は考える。

 外川がじりじりと後ろへ移動しようとしている。このデカブツを、内田をつかんだまま、どうやって連行しようか、と。

 遠くからサイレンが聞こえる。

 数台が停車する音がして、亮二を先頭に、複数の制服警官がかけあがってくる。

 あれれ、と健一、空いてるほうの手で頭をかいて。

「どうしたの。リョウちゃんも、有給?」

 亮二、呆れ顔。

「先輩と一緒にしないでください。私はちゃんと上の許可とってきたんです。時間なかったんで逮捕状までは無理でしたけど」

「許可とってたら間に合わないこともあるじゃん。第一に市民の安全を守るのが、おれたちの仕事だし」

「税金払ってないのは市民じゃありません!」

 制服警官のひとりが外川に手錠をかける。

 つづいて内田にも。

 へーへーおまえさんは出来がいいねと呟いて、健一、天を仰ぐ。

「大体いつも先輩はわかってません。組織って、仕事って、そういうもんじゃないでしょう!」

 健一、しゅんとして頭を垂れて。

「ごめんなさい、お母さん」

「お・・・!」

 亮二、怒り頂点。もう言葉もない。

 顔を真っ赤にして言葉を探して探して探して、叫ぶ。

「どうして素直にありがとうって言えないんですか、あなたって人は!」

 健一、笑って、あっかんべ。


 芝生では警官が内田へ、パトカーへ移動するよう促す。

 だが内田、尻込みしている。

 なにくわぬ顔をしながら、散歩を嫌がる犬のように。

 健一、内田の視線をたどる。

 芝の中、なにやら光るものがある。

 つまむ。

 蓮が落とした、ハードウェア・ウォレット。

 ちら、と内田を見る。

 内田、目をそらす。

 制服警官がジップロックをあけて差し出すところへ、ハードウェア・ウォレットを落とす。

 内田、がっかりの顔。

 健一、なるほどの顔。

 まぁ諦めたまえ、と健一、内田へ手をひらひらさせる。


 内田はジャケットのポケットの中で、健一たちに気づかれないよう、スマホを操作している。

 さあ行くぞ、と腕ととられる。

 抵抗はしないが、歩かない。

 見えない画面を、カンで打つ。

 何度か失敗する。

 エラーのアナウンスがワイヤレスで耳に届く。

 やがて、やっと繋がる。

 けれど口をひらくことができない。

 たすけてください、と、心で文字を打つ。


 そこへ突進してくるものがある。

 もう何も見えない顔で、一直線に。

 生垣もフェンスも踏みつけて。

 優香である。

 警官たちは、本能で、一歩引く。

 内田が自分のポケットに気をとられ、顔をあげるのが遅れる。

 邪魔。

 とすら思わなかったにちかいない優香。空気中の虫を無意識にはらような顔で。

 上段の回し蹴り。

 クリティカル・ヒット。

 いやな鈍い音がする。

 ゴフッ、と血の泡まみれの内田が、スローモーチョンで落ちる。

 大介が後ろからロードバイクで追ってきていて、中継カメラを担いでいる。

 警官たちへ爽やかな会釈。

 うちの熊がすみませんねぇ、とばかりに。


 尻ポケットに挿してる大介のスマホの中で、ライブ中継の視聴者たちから、やんやの喝采。

 超一流の技への賞賛と、投げ銭の嵐。

 コメントがものすごい速さでスクロ-ルしていく。


 走り去る優香と大介を見送って。

 健一、おや、と思う。

 倒れる内田の、ジャケットの中で握っていたのだろうスマホが、反動で飛び出す。

 宙を舞う。

 健一、キャッチする。

 耳に当てれば、コウドウカイノオジキ、とやらの声。

 健一、なるほど、の顔。

 ハンズフリーを解除して、通話録音モードへ。

 内田、もうだめだ、の顔。

 健一と亮二、顔を見合わせて、深くうなづく。おもわぬ美味しい証拠ゲットに、かすかに興奮しつつ。

 もう見えない優香の背中へ、ふたりで敬礼。

「市民の善意のご協力に感謝します」

 



 新宿中央公園、北エリア、水の広場。

 夕方になればスケボーの子供たちで賑わうが、今は誰もいない。

 巨大な噴水が陽を浴びて、滝になって飛沫をあげる。


 蓮が歩く。

 ぼろぼろのダンボールにジンジャーを乗せて。

 ダンボールの端をくわえて引きずり、そりのようにして、ジンジャーを運んでいる。


 噴水の前で、蓮が停まる。

 優香が走ってくる。

 もう蓮しか目に入っていない。どこまでも一直線に。

 そして。

 噴水の前で、気がつく。

 蓮が、運んでいるものがあることに。

 かすかに悲鳴をあげそうになる。だが蓮をおどかしてはいけない、と、こらえる。


 目をこらす。

 汚れたダンボールの上のそれは、猫、らしい。

 優香の頭に、一気に走馬灯がよぎる。

 食費かかる、医療費かかる、手間かかる、時間もない、責任が重い、とにかく引き取って治療してから里親募集したっていいじゃないか、ああ、だけど。

 ああ、だけど。

 脳内の「里親募集」の文字に、赤ででっかくバッテンをつける。

 優香が決断するまで、0.1秒。


 おいで、と両手をひろげる。

 服が汚れるのもかまわずに膝をついて。

 今日からこの子も、あたしの産んだ子。命をかけてお守りするよ。

 だから、ここにおいで。


 蓮、オーラを感じたのか。

 ダンボールを置いて、数歩、退く。


 優香、どうか逃げないでくれと祈りながらダンボールへ。

 まだ息があるのを確かめる。

 持ってきたキャリーバッグに静かに収める。

 後ろの大介を、指で呼ぶ。

 大介、バッグを受け取る。

 無言で。

 地面にカメラを置き、遠隔操作モードにして優香を映してから、ロードバイクにまたがる。

 バックヤードは任せろ、と。




 樹の上で。

 紅葉が見ている。

 俺の仕事は終わった、と、音もなく樹から舞い降りる。

 交通量の激しい通りを眺め、箱根方面へむかう車を目で探す。

 そろそろ寝ぐらへ帰るか、と。

 しかし頭上から何かにつかまれ、紅葉、宙に浮く。

 何事か、とふりかえる。

 爽やか笑顔の悪魔、大介である。

 ショルダー型のキャリーバッグにジンジャーを入れた姿で、紅葉を肩に担ぐ。

「ごめんねぇ。きみがいると再生数が伸びるんだぁ」

 あっはっはっ、と笑って、紅葉を連れていく。

 こいつだけは苦手なんだと紅葉、憮然とした顔で観念する。しばらくは江戸で暮らすしかなさそうだ、と。

「あくまで噂なんだけどさ。きみって夜中になると木の上でオカリナ吹くって、ほんと?」

 トトロじゃねぇわ馬鹿野郎。




 静かな広場。

 滝の音がする。

 優香は、膝をついたまま。

 蓮をみつめる。

 声はない。

 心で、語りかけてくる。

 行かないでくれ。そばにいてくれ。あなたがいないと生きていけない。


 キャリーバッグもない。網もない。釣り餌もない。なにもない。

 空っぽの手をひろげ、全身で懇願している。

 恥も外聞もなく。


 蓮の記憶が流れていく。

 兄弟たちの顔。一緒にいた仲間たちの顔。

 彼らの最期の顔。

 キャバクラの黒服たち。

 路地裏の通行人たち。

 彼らが猫たちへしてきたことを。


 だけど。


 産んでくれた母猫のこと。

 おぼろげに覚えている空気の匂いは、優香に似ていた。


 水の広場。

 噴水が空へと打ちあがる。

 優香が泣いている。

 声もなく。

 ただ、慈悲を乞うている。


 蓮の胸に、痛みが走る。

 その人を、哀れに思う、はじめての感情。


 この胸の痛みの意味を知るために。

 最初で最後、一度だけ、ニンゲンを信じてみても、いいのかもしれない。


 蓮は歩きはじめる。

 優香のほうへ。

 大人になるために。

 大切なものを守れる、強い存在になるために。


 母をも守れる男になるために。

もし少しでも面白いと思っていただけたら、ブックマーク、評価をお願いします。

読者様からの反応がたったひとつの、執筆のご褒美になってます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ