鯨の魔女
そういえば結局、クロダイは何者なのだろうか。
ライナはちらっと思い出したが、ライナを見てにこにこと笑っている男を見ているとなぜか尋ねる気持ちはなくなって、口からは違う言葉がこぼれ落ちた。
「クロダイ、食べないの?」
クロダイは、朝起きたら当たり前のような顔をしてライナのすぐそばにいた。
まるでずっとそばにいたかのような旅の道連れの姿に、ライナはびっくりして黙りこんだあと、とりあえず朝食を食べることにした。
「うん。ボクはライナが食べているのを見ていればお腹いっぱいなんだ」
「……そう、なの?」
どういう理屈なのかライナにはまったくうかがい知れないところだった。
だが、たしかにクロダイは最後に会ったときと変わらない姿で、痩せたところやお腹のすいているそぶりもない。
ライナは基本的に、人に“二度目”を尋ねることはない。
尋ねる前にひとりでたくさん考えて、納得して、黙っていることが多い。
けれども、その時はすこし考えてから、もう一度尋ねた。
「本当におなかはすいていないの?」
クロダイは、ライナの問いかけに目を丸くした。
ライナは、取り出したラズベリーパイに、詩をそらんじるように口ずさむ。
「二番目の兄様のお料理は、世界で一番おいしいお料理」
男が料理を、それもラズベリーパイのような甘いデザートをなんて、父王が知ったらどう思うだろう。
考えたが、そもそもライナはあまり父王を知らない。いつもお酒の匂いをさせて、疲れたようにぐったりとしている姿しか見たことがないから。
けれどきっと、二番目の兄のつくった料理を食べたら、どう思うにせよありつかないなんて勿体ないことはしないだろう。
ライナだって、鷲の魔女の家にいる間、二番目の兄が作るたびにできたてをすぐに食べていた。
ライナのそばから離れようとしなかった鳥も、たまにライナが好きな料理を嘴でつまんで、ライナの口まで持ってきた。
口を開けるようにつんつんと唇をつつかれているライナに、二番目の兄が『鳥の給餌だね』と笑って教えてくれたことを思い出す。
そこで、ライナはふと鳥の姿が見えないことに気がついた。
「鳥は……」
「……鳥?」
「……ずっと一緒にいた鳥。いなくなっていて」
鳥を探すライナに、しばらく黙ったあと、クロダイが優しく言った。
「鳥なら、きっとまた戻ってくるよ。……それに、ボクのことも気遣ってくれてありがとう、ライナ。でも、ボクは今は食べられないんだ。だから、その美味しそうなパイは、ライナがぜんぶ食べて。ボクはそれを見ているだけで楽しいから。……あ! そうだ、ボクが食べさせてもいい?」
「……え?」
姿の見えない鳥を探して、ライナの注意は明後日の方向に逸れていた。
そのため、クロダイの言葉を聞き逃したライナは、振り返って固まった。
「はい、あーん♡」
「……」
食べやすいよう一口大にされたパイを、満面の笑顔をたたえた男が差し出してくる。
ライナはその光景を見つめて、ライナの口を嘴でつついてきた鳥のことを思い浮かべた。
「……食べないの?」
「……自分で食べられます」
ライナは七つである。
手ずから食べさせてもらわないとならない赤子ではない。
いつもの無表情ではあったが思わずむすりとしたライナに、クロダイは首をかしげる。
「うん、そうだね? でも、ボクがキミに食べさせたいんだ」
ライナは困惑した。
男の言うことが理解できず、黙りこむ。
クロダイの詩を歌うような声が、柔らかく言った。
「キミの二番目のお兄さんは、キミがラズベリーパイの作り方を聞いた時『いつでもおれが作ってあげる。ライナが食べたい時に』って言っただろう?」
ライナは意外なことを言われて目を丸くした。
たしかに、二番目の兄は、ライナがラズベリーパイの作り方を尋ねた時にそんなことを言っていた。
あんまりに二番目の兄のつくるラズベリーパイが上手だったからか、それともその時はぐれていた旅の道連れに後であげるようにか、ライナが自分にとっても意外にもした質問に、作り方を丁寧に教えてくれた後に笑ってそう言った。
「二番目のお兄さんがキミに『そうしたい』って思ったように、ボクもキミに『そうしたい』んだ」
「……どうして?」
「うーん……そうしたいから、かな? したいこととか、やりたいことに、理由はあんまり思いつかないな。けど、ボクのしたいことがキミがされたくないことならしなくていいよ」
「……でも、もし、誰かがしてほしいってわたしに望んだことを、わたしがやりたくないって言ったら、その誰かは困る?」
クロダイの深刻にならない口調のせいか、ライナはゆっくりと考えることができた。
本題からどんどんとずれていっていることにクロダイは怒ることなく、にっこりとする。
「人の気持ちは、その人にしかわからないことだよ。時にはその人自身にも。本当の気持ちはとても繊細で、『本当であってほしい』気持ちの後ろに隠れてしまうこともある。だから、本当の気持ちを見つけたら、つかまえて、自分が大事に守るんだ。誰かが困るかどうかは、その後、考えればいいんじゃないかな」
ライナの中にクロダイの声がすっと入っていった。
まるで新緑を撫でた春風のように、胸を通り過ぎて、後にはミントの香りのような感覚が残った。
それは、ライナが今まで感じたことのない感情だった。
顔はいつもと変わらない『お人形さん』だったが、内心戸惑いながらおずおずと口を開く。
「……もし、それで、誰かが嫌な思いをしたら……?」
「キミがしたくないことをしないことで誰かが嫌な思いをするなら、それはその誰かがどうして嫌なのか考えることなんじゃないかな。大切なのは、ライナがどうしたいか、どうしたくないか、自分でわかってあげること。それに、もしも誰かに嫌な思いをさせてしまったら、ごめんなさいすればいいんだよ」
どこか自分に言い聞かせるようでもある言葉に、ライナはすっかり黙ってしまった。
そうして、ひとまずは、と今の状況に立ち返ってくる。
クロダイの手にあるラズベリーパイを見つめると、それは口元まで運ばれてきた。
ライナが嫌か、嫌じゃないか。
ライナがしたいか、したくないか。
それを、きちんとわかったかどうかはわからない。
だけど、とライナは思う。
鳥の餌付けのように小さく口を開いて、パイを待ちながら。
嫌か嫌じゃないか。したいかしたくないか。
それを聞かれること自体は、嫌ではないと。
◇
森は進むごとにどんどん緑が深くなる。
鷲の魔女の家を出て四日が経った。
鷲の魔女の話では、ちょうど折り返し地点くらいにきているはずだった。
夜の闇や、朝露の冷たさや、獣や虫の呼吸に満ちた森を、ライナたちは進んでいた。
これまで特に道に迷うことも、食べ物に困ったことも、怖い目にあうこともなかった。
森というのはもっとおどろおどろしいものかと思っていたが、今のところはそれほどでもない。
「熊に追いかけられたり、木の根に躓いて転んだり、虫に肌を食われたり、小さくて綺麗な足に豆ができたり、手の皮が擦り剥けたり、枝に引っかかってドレスの裾が破けたり、そういうことは『それほどでもない』ことには入らないと、ボクは思うけどね」
後ろで膝にライナを抱き抱えたクロダイは、けれどそうは思っていないようだった。
ライナの腰に回った腕が肘置きのように、兄達よりも身長のある体が背もたれになって、まるでライナ専用の椅子のようだ。
ベッドも椅子もない森で、ふたりきりで過ごすうち、クロダイはいつの間にやら率先してライナの家具になろうとした。
ライナも、最初こそ大の大人を背もたれにするのはどうかと躊躇ったが、あまりにクロダイが普通の様子でにこにことしているので、最近は慣れてきて当たり前になっている。
「たしかに、お姫様の恰好では、ないですね」
ライナは気にしていなかったが、クロダイはライナの服装がどんどん見すぼらしくなっていくのが気になるらしい。
クロダイのほうはなぜかライナと同じようにしていても、ぴかぴかきらきらの恰好のままなので、余計に気になるのかもしれないと思う。
「ライナはどんな姿でもお姫様だよ」
まあ、それは父王と王妃の子なのだから姫ではある。
ライナがごく当然の答えを返すと「そうじゃなくて」と言いながら、にっこり笑ったクロダイが覗き込んできた。
「ボクにとっては、はじめて見た時からライナはお姫様だ」
自分で言うのもなんだがどこからどう見てもお姫様らしくないことを知っていたライナは、無言になった。
一緒に旅をするうちに、クロダイと呼ぶようになったこの男が、どうにも女性全般に優しいことに気づきはじめていたからである。
それは、大体彼自身の話を催促すると『妹達が~』に始まり、これこれこういうことがあって大変だったけどどこそこのお嬢さんが親切にしてくれて、とか、どこそこの音楽のお上手なお嬢さんと即興で演奏を行ったことがあって、とか、話の節々に女性が出てくることから察せられた。
賢明なライナは、今しがた聞いた言葉にはあえて触れず「でも」と呟いた。
旅の道中についた細かい傷だらけの自分の手を広げて見ながら、ぽつりと。
「お姫様は、王子様を助けには行きませんよね」
ライナは確かにお姫様だったが、魔女にさらわれて囚われているのは王子様の兄達。
囚われの王子様、助けに行くお姫様、さかさまの役割。
ライナは、旅に出てからもっぱら寝床をつくるために使っている、懐の短剣に触れながらぼんやり思った。
「王子様を助けに行くお姫様がいたっていいと思うけどなぁ」
クロダイはなんとなく雰囲気がふわふわとしていて、いつも周囲に花が飛んでいるように見えた。
姫で、女の子であるライナよりもよほどメルヘンちっくで夢見がちなこともたまに言うので、ライナはそのたび、びっくりしてちょっと黙る。
けれども、ライナが真面目に真剣に考えている傍らでそんなふうなふわふわとしたことを言っている相手を見ていると、どのような考えも、終いにはどうでもよくなってしまうのだった。
「でも、やっぱりライナはボクのお姫様だよ」
微笑むクロダイを、ライナは無表情で見つめ返す。
降り出した雨を避けるため、木のうろの中。
冷えた空気から逃れるように自然とぴったりとくっついて、一つの毛布を被っている。
真っ暗な森の中、しとしとと降る糸のような雨。
「……クロダイは、ぜんぜん王子様という感じじゃないです」
「ええっ」
見た目以外は、と心の中で付け足す。
クロダイと出会ってわずかな間でも一緒にいれば、たぶん誰にでもすぐにわかる。クロダイのできることといえば、占いなどの魔術の類を除けば、七つのライナとどっこいどっこいなのだった。むしろ、ライナのほうがまだできることが多いくらいで、一緒にいるとライナは静かに驚くことばかりだった。
「……むしろ、王子様らしいってことなのかな」
「えっ、えっ、ほんとう? あれ? でもさっきは……え、どっち?」
本物の王子様なら、何もできなくても大丈夫だろう。
なにせ、自分がやらなくても代わりにやってくれる誰かがいればどうにかなる。
そわそわと落ち着きなく嬉しそうにしているクロダイを下から眺めながら、ライナは、その点はクロダイは王子様らしいと思った。
けれどやっぱり、完璧な王子様らしくはなかったから、クロダイと話している時にままあるように、それならばまあ自分もとりあえずお姫様ということでもいいのかな、とライナはどうでもよくなって目を閉じた。
◇
その日、ライナは夢を見た。
夢の中でもライナは眠っていて、一枚きりの毛布にすっかりくるまり丸まっていた。
『ライナ、ライナ、ボクのお姫様』
眠りに落ちる前に聞いていたのと同じ声が、子守歌のように何かを言っている。
『ライナ、ボクにキミの望みを教えて』
ボクは占いができるんだ、まじないもちょっとはね。
かつて魔女が教えてくれたんだ。
“できないことよりできることを誇るのは、兄様の良いところね”と、妹もかつて褒めてくれた。
それは褒めているのではなく皮肉なのではないかと夢うつつにライナは思ったが、とても瞼が重たくて、思考もたっぷりのミルクの中に沈んでいるようにまとまらない。
『ライナ、良い子であろうとするキミはとても素晴らしい親思いの美徳さを持っている。母親に告げられて、顔も行方も知らない兄達を探しに、深い森へと訪れた。試練を試練とも思わないキミの賢さは、キミに夢を見させない。だけど、おさなごころというものは、繊細で壊れやすく、夜空の星のように得難く、やがて昼間の光のもとで見えなくなるもの。おさなごころの瞬く夜の間は、どんな夢でも見ることができる』
普段から詩でも歌うように話す声は、今は本当に詩を奏でているようだった。
何を言っているのか眠りの中で思考が溶けるライナにはさっぱりわからず、けれど、子守歌のような心地よい音に身をゆだねる。
『瞼を降ろせば、夜の帳。夢の中。星の輝きを秘めた瞳を閉じ込める。この夜の中で、叶わない夢はない』
だけど夢はいつか覚めるものだ。
ほんの瞬きの間だけ、見せたいものを見せてくれるだけならば、ずっと見えないほうがいい。
そう思うのに、ミルクに一滴ブランデーと蜂蜜を落としたような甘い声が入ってくる。
わたしの望み。
わたしの夢は。
ライナは夢の中で口を開く。
そこからこぼれ落ちる音は聞こえなかったけれど、代わりに何かを請うような声が聞こえた気がした。
「ライナ、キミをちょうだい。代わりにキミの望みを叶えてあげる」




