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賢きライナと黒き食卓の王子  作者: ウユウ
エピローグ
21/21

そしておとぎ話は幕を閉じ




「それでライナ姉様はどうしたんですか?」


 花畑での午後のティーパーティー。

 お行儀よく足を揃えて椅子に座る、ちいさな王子が話を急かす。


「バカ、鷹息子! そんなのもちろん、ライナ姉様が呪いを解いてぜんぶ元通りになったに決まってるじゃない!」

「そうよー! ライナ姉様が邪悪な魔女の呪いを解いたから、あんたのとこの鷹のおばさまもうちの熊のお母さまも今こうして人のすがたなんじゃない!」

「熊娘ふたりはだまっててください」


 ふたりして父親の膝の上に乗り上げたちいさな姉妹姫の合唱。

 ちいさな王子は、この、自分よりいくつか年上で元気のありあまっている従姉妹たちとのやりとりなどもうなれっこというふうに文句を返す。


「コラ、息子よ。レディーを相手にそんな口の利き方はないだろう。まったく、お前は誰に似たんだか……」

「レディーがどこにいるんですか?」


 母に叱られても、すんと澄ましてそっぽを向く。

 この自分たちよりもちいさな従兄弟の態度に、ぐわっとふたりのちいさな姫がいきり立つ。


「ここよ! ここよここよここよ!!」

「そうよ! ここよここよここよ!!」

「あーうるさいうるさい……」


 うんざりしたようなちいさな王子の呟きに、よく似た可愛らしい姉妹はなお一層いきり立つ。

 その様子はちいさいながらもちょうど熊が仁王立ちして威嚇するようなポーズだった。


「いまうるさいって言った!? アタシたちに!?」

「おとーさま! おかーさま! アイツ叱って!」


 三人のいとこ達はいつものこの調子で、見慣れた光景に大人たちも苦笑したりニコニコしたり食事に集中していたりといつも通りだった。

 そうしてやっぱりいつもの通りに、ふたりの熊娘の父親である、ライナにとっての一番目の兄が疲れたように子ども達を宥めた。


「コラコラコラ、仲良くしなさい」


 しかし、魔女と呼ばれた母親たちならまだしも、王子だった父親の言葉くらいなんのその。

 ぜんぜん聞かずにピーチクパーチク囀る子ども達の合唱が晴天に響く。


 困り果てた一番目の兄と、お茶を飲みながらおかしそうにしている二番目の兄、三番目の兄は大きな口を開けてキッシュを食べていた。つまり、一番目の兄以外はぜんぜん気にしていない。

 母親たちも、なにせいつものことなので、熊の魔女は「あらあら」と微笑ましそうに、鷹の魔女は「やれやれ」と仕方なさそうに、そうして最後に鯨の魔女が、ティーパーティーから合唱会に変わりそうになった頃に「まあまあ」と言った。


「ライナ姫のお話の続きを聞かなくてもいいのですか?」


 この呪文はいつだって効果絶大だった。

 子どもたちはぴたりと動きを止めて、再び仲良くテーブルを囲む。


 可愛らしいお花畑。くるんと猫脚になった白いテーブル。クッションの敷き詰められた椅子。温かいフレーバーティーにたくさんのお菓子と食事。優しいそよ風と春の陽射し。そっと足を忍ばせて近寄る穏やかな午睡の気配。麗らかなティーパーティーのお供には、いつもおとぎ話がぴったりだった。


 三人の子ども達が、皆めいめいに大人しく座り直したことを確認してから。

 語り手に相応しい、鯨の魔女の声が水のように流れはじめる。


「『ボクを連れだして』とこいねがう眠りの王子に、ライナ姫は『もともとそのつもりです』と答えました」

「プッ。オデロおじさまカワイソ―」

「けれど、心を取り戻して長い眠りから目覚めたものの、呪いのせいで眠りの王子は黒き食卓の上から離れられませんでした」

「腕はうごけたのにね」

「呪いは解けかかってたけど不完全だったんだ」

「そう。そこで賢いライナは、私が教えた呪文を思い出しました」

「鯨のおばさまが?」


 魔女三姉妹の長女にふさわしく、優雅にティーカップを持ち上げてうなずく。


「ええ。そう、あの時も私は『ええ。ひとつ、とびきりの強い呪文をお教えいたします』とライナに告げました。兄様の呪いは、恋に破れた魔女の呪い。かけられたほうも同じ痛みを味わわなければ、永遠に解けることがない」

「なんでそんな変な呪いにしたのかしら? その魔女はオデロおじさまが好きだったんでしょ? 失恋しないといけないとはいえ、他の人に恋をさせるなんて」

「どうせなら、『アタシのことを好きにならなきゃ目覚めない呪い』とかにすればよかったのにね」

「恋ができると思ってなかったんじゃないか? できなかったら魔女の勝ち、できたらオデロ王子の勝ち」


 そうね、と鯨の魔女はしずかに相槌を打つ。

 もしかしたら自分と同じだけの痛みを知ったら許せると思ったのかもしれないわね、と。


「それで、鯨のおばさまがライナ姉様に教えた呪文って?」

「大抵の殿方への撃退呪文は『愛しています。結婚してください。貴方の子どもが欲しいです』が効果てきめんなので、この呪文を聞くと殿方は家や職を抑えられていない限り、スタコラサッサと逃げていくものなのですが、ライナ姫の場合はこの呪文は意味がありませんでした」

「なんで?」

「オデロおじさまが喜んじゃうからじゃない?」

「オデロおじさまはライナ姉様がだいすきだものね」

「そうですね。あの男は年の差というものを考えたことがないのかしら? ライナ姫はまだ子どもで、自分は容姿だけ若作りのものすごい年寄りでしたのにね」


 まったく恥知らずだと言わんばかりの鯨の魔女に、彼女の婿、それまで黙ってもくもくと食事を口に運んでいた三番目の兄が、どの口が、よく言うよ、と呆れた目を向けたが、誰も気にしなかった。


「とにかく。心を折らせなくてはいけないのに、そんな手放しで喜ばせるようなセリフは逆効果ですから。だから、ライナ姫に私が教えた呪文はこうでした」


 ライナ姫は、鯨の魔女から教えられた呪文をくちずさみました。


『アナタナンカキライヨ。カオモミタクナイ』


 呪文が唱えられるやいなや、ぱりーんっとオデロ王子の心が割れる音が響きました。


「くっっっっだらねぇ…………」


 三番目の兄は、いつ聞いても同じところで同じ感想を零した。

このお話の主人公のお姫さまといっしょに古城へと向かい、城の中で分かれた三番目の兄は、妹姫と離れている間に古城に取り憑いた幽霊やら頭が三つも四つもある犬やらに追いかけられていたせいで、毎回この話を聞くときは思い出すのもうんざりだという様子を隠さなかった。


「それで、それで?」


 一番若いおじの悪態など気にも留めずに、子ども達がテーブルに乗り出す。

 物心ついた時からもう何度も聞いているはずなのに、子ども達はいつだって、このおとぎ話が一番好きだった。


「そうしてふたりは気づいたのです。心が割れたと同時に、黒き食卓――――つまり、オデロ王子を寝かせていた、その机が真っ二つになったことを」


 オデロを前によろめいたライナが、黒き食卓を叩いてしまったとき。

 一瞬だけ目を開けて、オデロは再び目を閉じた。

 そうして、オデロの取り戻した心が割れるのと同時に、黒き食卓は崩壊して。


「『すべての呪いが解けたのでした』めでたし、めでたし」


 鯨の魔女の語りが終わる。

 テーブルについたのは三姉妹と三兄弟、そして、彼らのそれぞれの子どもたち。

 かつて恋に狂った魔女が、恋知らぬ王子にかけた呪いは、黒き食卓と共になくなった。


 熊の魔女と一番目の兄にはふたりの娘。

 鷹の魔女と二番目の兄にはひとりの息子。

 鯨の魔女は三番目の兄と共にいる。

 三兄弟は両親のところへも行って喜びあった。


 そして、呪いを解いたお姫さまと、眠りから目覚めた王子さまは――――。




 おとぎ話のセオリーは決まっている。

 良い子は報われ、悪い子は罰せられる。


 自分は果たしてどちらなのだろう、とライナはずっと疑問だった。

 けれども、と兄達を探す旅を終えた後から、ライナはこう考えるようになった。


 大人のための教訓と、子ども達のための夢物語。

 童話はいつもハッピーエンドで終わるのがセオリーで、けど、ハッピーとはなんだろう。




「――ライナ姫! ライナ姫!」


 後ろから追いかけてくる声に、ライナは一瞬、横の茂みに飛び込んで隠れようかと悩んだ。

 しかしすぐに、馬の蹄の音がどんどん近づいてくるのを聞き取って、仕方なく諦めた。

 茂みに隠れてやり過ごそうとしても、うまくいくとも限らない。


 少女から女性に差しかかりはじめてから、ライナはすくすくと成長した。

 以前は小枝のようだった手足も、しなやかな若木のようにすらりと伸びて、今ではきっと母である王妃の服も着ることができる。

 無事に帰ってきた兄達のおかげで、ずいぶんとましになった身なりをわざわざ汚すこともない。

 そんなふうに考えて立ち止まったライナのもとに、やがて、馬に乗った男性が追いついてきた。


「ライナ姫! 先程お伺いしたらもう発ったと聞いて……」

「王子さま。はい、短い間でしたが村の方々にはお世話になりました。王子さまにもお礼を」


 ライナは淑女らしくスカートの両端を持って挨拶をした。

 さっきまでどうやり過ごそうかと考えていたかなどおくびにも出さない。

 幸か不幸か、長じてもライナはあまり表情豊かなほうではなかった。


「……本当にもう行かれるのですか? 次の行先はまだ決まっていないのでしょう? もう少し我が国にも滞在されていかれても」

「もとより目的のない気ままな旅路です。今までもひとところに長く滞在することはありませんでしたので」


 いかにも残念そうに引き留めてくる王子に、ライナはそう言った。

 もう何度同じようなことを言って断ったかわからない。どうやら滞在中に知り合いになったこの国の王子は、王の末子ということもあって特別に可愛がられて育ったのか、自分がほとんど出ることのない国の外からきたライナの話に大層興味を示した。あれやこれやと外の話をねだられ、そろそろ発とうかという頃には、すっかりライナに弟のように懐いていた。

 出立を宥めるのも一苦労だったが、追ってくるとは。

 ライナは今頃蜂の巣をつついたようになっているであろう王城の様子を想像して、ちょっと哀れに思った。


「そんな……で、では、また近いうちに戻ってきてくださいますか? 私はまだまだライナ姫から聞きたいお話があります」

「わかりません。仰る通り、次の行先はまだ決まっていないので」


 そんな、と絶望したように王子がまたつぶやく。

 そこまで惜しんでもらえると申し訳ない気もするが、次いでばっと勢いよく顔を上げた王子に面食らう。


「……では」

「はい」

「私と結婚していただけませんか!」

「はい?」


 同じ返事でも一度目と二度目ではまったく意味が異なったのだが、そんなライナの心のうちも露知らず、王子はその答えをずいぶんと前向きに受け止めたようだった。ぱあっと表情が明るくなった王子に、ライナはちょっと考える。そうして、今の状況があんまりよろしくない方向に転がりはじめていることに気づいた。


「あの、王子さま、今のはお返事ではなくて」

「そ、それは……私とは結婚できない、と?」


 一転して希望から絶望へと突き落とされたような顔をされる。

 しかし、その問いへの答えの言葉を、ライナは『はい』以外思いつかなかったので、なるべくそれをやさしい声で言うことにした。


「はい」

「なぜですか?」

「なぜと言われましても、できません」


 いくら声がやさしげでもきっぱりはっきり断ったつもりが、すぐ打ち返されてしまってライナは内心で困った気持ちになった。

 けれども、戸惑いはしたが、それほど動揺はしていない。

 昔のライナだったら、まさか求婚を断られた紳士が往生際悪く食い下がってくるようなことがあるとは夢にも思わなかっただろう(なにせ、絵本の中のお姫さまと王子さまにそのようなやりとりはないから)。


 けれども、今のライナは知っている。

 百回断られても折れない男性もいる。

 だから、一度くらい断られてもめげない男性もいるのだということを。


 そして、絵本を閉じたあと。

 ハッピーエンドの終わりに、どんな物語が続いているのかも。



「――――ライナ」


 春風のようなやわらかな風、花の匂い。

 瞬くほどの瞬間に、宙に花びらが舞って、つむじ風が起こった。

 ちいさな竜巻はやがて収束して、花びらの中から白くうつくしい手が伸びる。

 それにぎょっとした王子の顔を見ながら、ライナは背後から現れた手によって、その腕の中に引き寄せられた。


「ライナ、探したよ」


ライナを後ろからぎゅっと抱き締めて頬ずりをする。身長差があるせいでライナは抱っこされた猫のようにぷらんと爪先が宙に浮いた。


「――――オデロ」


かぐわしい花の香り。うつくしいかんばせ。

その場にいる全員が王族という状況でも、彼ほど王族らしい高貴な雰囲気を持っている者はいない。

魔法のように(実際おそらく魔法)突然現れた得体の知れない、しかし只者ではないことのわかる男の登場に、王子はぽかんとしている。


「うん、ライナ」


ライナが呼びかけると、ぱっと華やぐように破顔する。知れば知るほど『歩くお花畑』というあだ名がいかに彼にぴったりか思い知るようだ。

ライナはひとつ溜息をついてから、自分に頬ずりする男に言った。


「オデロ、降ろしてください」

「……はぁい、ライナ」


さっきとは違ってちょっと不満げではあったが、オデロはしぶしぶライナを降ろしてくれた。

オデロの登場によって蚊帳の外になっていた王子は、はっとしたようにライナに尋ねた。


「……あの、こちらは?」

「王子さま、こちらは―――」

「やあ。はじめまして、王子さま」


ライナの紹介が終わるどころかはじまる前に、オデロがにこやかに微笑みかけた。大変優雅な礼でお辞儀をする。そうして顔を上げると、後ろに花の幻覚が見える麗しいかんばせでこう言い放った。ライナが止める間はまったくなかった。


「ボクはライナの夫です」


輝かしいばかりの笑顔だった。





お姫さまによって呪いの解けた王子さまは、お姫さまと共にいることを望みました。

けれどもお姫さまのほうはというと、自分が何を望んでいるのかわかりませんでした。


『ライナ。難しく考えなくてもいいんだよ。まだ何も思いつかないというなら、これから何だって思いつけるということだ。キミの行く先は、たとえるならば、まっさらな紙なんだ。そこに何を描くかは、全部キミの自由で、キミの望み次第。思いつくままにしてみても、何を描くか決まるまで彷徨って見てもいい』


途方に暮れるお姫さまに、お姫さまに助けられた王子さまは語りかけました。

王子さまは、自分を救ってくれたお姫さまの力になりたいと思っていました。


『だけど、どうか覚えておいて』


キミの望みが何であろうとも。

キミがどんな道を選ぼうとも。


『ライナ、ボクがキミを愛するように、キミは誰かに愛される。それは決してキミにとって良いことばかりではないかもしれない。愛のことを祝福と言う人もいれば呪いと思う人もいる。そしてそれはきっとどちらも間違ってはいないんだ。それでもボクは、キミに降りかかる愛のすべては祝福であればいいと願っている。かつてボクにかけられた呪いのように、ボクがキミに呪いをかけることを切望する日が来ないことを願っている』


ライナ、キミは愛される。

たとえキミにまだ愛がわからなくても。

愛されることからはけっして逃れられない。


『キミは、ボクに、愛される』


そうして、それを、他ならぬキミは忘れてもいい。

人から向けられる想いを負担に思うことなくいてほしい。

どうか、覚えておいて。

ボクの気持ちも、この言葉も、なにもかもすべて。


『忘れてもいいと覚えておいて』





そうして、お姫さまと王子さまは結婚しました。

ふたりは仲睦まじく、いつまでも、いつまでも……





『結婚』というのはハッピーエンドの代名詞ではない。

それは、関係の続く限り、相手にいつまでも付きまとわれるという契約である。


「……まあでも、離婚もできるし」


 ピッ…!? ピギャーッッ!


 森の道をてくてくと歩くライナがこぼした言葉に、まとわりついていた鳥がびっくりしたように跳ね上がる。

 突然気が狂ったように騒がしくなった鳥は、なにかを抗議するように忙しなくライナの周りを飛び回る。


「クロダイ。言いたいことがあるならオデロになったらいいじゃないですか」


 あの旅でライナにくっついてきていた鳥がオデロだったと知ったあと。

 オデロは無事に呪いが解けても、ときどき思い出したような頻度で鳥の姿になっていた。せっかくつけた名前だしと、鳥の姿の時は以前のように呼んでいる。


「っライナ! ごごごめんね! ボクがふらふら迷子になってキミの傍を離れていたのが悪かったから!」

「怒ってないですよ」


 ライナに言われてはじめて、そういえば自分にはしゃべれる口があるということを思い出したのか、今度は人間の姿になったオデロにまとわりつかれる。どうせまとわりつかれるなら鳥のほうが小さくて邪魔ではなかったので、ライナはちょっとだけ後悔したが、ちゃんと返事はしてあげた。


「ほ、ほんとに?」

「はい」

「じゃあ……離婚しない?」

「今すぐは」

「今すぐは!?」


 とても騒がしい。

 耳を塞いだライナにオデロが絶望的な顔をする。


「怒ってないけど、そんなに気にするなら迷子にならなきゃいいのに」


 旅の間中、気ままに人と鳥の姿をいったりきたりするクロダイもといオデロは、目を離すとすぐにあっちへふらふらこっちへふらふら迷子になっていた。

 迷子という歳でもないし(なにせ、相手はライナよりも数百歳は年上だ)、魔法を使えるオデロだから放っておいても別に危険ではないことがわかっていたので、慣れてしまった今はライナもそんなに心配していない。

 十日かそこらいなくなって至るところに葉っぱをつけた姿で茂みから出てきたり、逆になぜかたくさんのお金をもってけろっと帰ってきたりするので、ライナもあんまり気にしなくなっていた。


「えっ。それはボクがいないとライナは寂しい……という……」


 なぜかちょっと嬉しそうにするオデロに、ライナは首をかしげて考える。


「いなくなってる間に、また自分のことも忘れちゃってるかも……とは思ったことがあります」


 そうしたらきっともう二度と会えないだろうから、たしかに寂しいだろう。

 ライナがそうやって言葉をまとめるより先に、ライナの言葉を聞いたオデロが「なんだそんなこと」とにこにこする。


「だいじょうぶ。ボクとキミのどちらが忘れてもまた会えるよ。そうしたらまたボクはライナに求婚するだろう」

「忘れたのにどうやって?」

「ライナはきっと記憶がなくても『クロダイ』の姿のボクを可愛がってくれるし、ボクの記憶がなくてもまた会えたらきっとすぐ好きになっちゃうよ。キミだけを数百年待った男だもの。それに、忘れてもいいと言ったでしょう?」


 にこにこしているオデロの言葉に、ライナは突然胸の中に春風が吹きこんだような気持ちになった。

 オデロと話していると、ときどき体の中にいっぺんに春がきたような、不可思議な気持ちになる。

 ライナは自分の中のその心につける名前を知らなかったけれど、それをけっして居心地が悪いとは思わなかった。

 ライナが自分の知らない心に内心でそわそわと感じているときも、オデロはいつも、絵本を閉じるときの眼差しのような優しい目をしていたから。

 その眼差しは時折、たとえばライナが二番目の兄の焼いたラズペリーパイにフォークをいれる時に浮かべているだろう色にもなったけれど。それも不思議と、居心地悪くは感じなかった。


「……また、みんなでお庭に集まって、二番目の兄様の焼いたラズペリーパイが食べたいな」

「それは素敵な考えだね。みんなきっと今でもお茶の時間に集まってティータイムを楽しんでいるだろうから、今度お邪魔させてもらおうか? そうしたらライナ、ボクにお茶を淹れてくれる?」


 今もまた、まるでライナ自身がアップルパイかのような熱心な目で見つめてくる。


「いいけど、上手に淹れられるかな」

「ライナが淹れてくれるなら、薄くても渋くても毒でも喜んで飲み干すよ」

「毒だってわかってるときは飲まないほうがいいと思う」

「キミがボクのために淹れてくれるなら、きっと毒だって美味しい」


 頭の中が本当にお花畑のようなことをオデロが言ったにもかかわらず、ライナはそのとき、なぜかふと想像した。


 ライナはオデロといっしょに花の咲く庭にいて、そこに丸いテーブルがある。

 白いテーブルクロスの上には、お茶の時間を七日は続けられそうな料理が並べられて、ライナの兄達や義姉達、それから彼らのちいさな子ども達も揃っている。

 光に呑まれる庭は明るく、輝かんばかりにうつくしい。


 ライナは、自分を見てにこにことしているオデロを、その想像の中の風景を見つめるように眺めた。

 オデロのあだ名を聞いてから、それはしっかりとライナの意識に根を下ろしてしまった。


 ライナは、オデロを見ていると、自分がオデロという名の花畑の中に佇んでいるような気持ちになる。

 そして、同時にこうも思った。


 たとえ花畑のような場所で幸せに生きていくことができたとしても、花を踏まずには生きられない。


 ライナは二度目の旅をはじめる前、ライナの手を取ってオデロが紡いだ言葉を思い出した。


『ライナ、キミは愛される』


 愛されることからは逃れられない。

 愛によって呪いをかけられた王子が、愛を祝福とも呪いとも呼んだ。

 すべては心ひとつだと。


 ライナは愛がなにかをまだ知らない。

 ハッピーエンドのいう幸せの意味も。


 けれど、オデロの言葉は祈りのようだった。

 ライナは、春の光のようなその祈りを、光合成のように取り込んで自分が生きるところが想像できた。

 それは、とても心地の良い想像だった。悪くない、ではなく。


「ライナ……その、キミと手を繋いで歩いてみたいのだけど、どうだろう、お姫様?」


 もじもじと照れたように、けれど仕草だけは王子さまに相応しく優雅に手を差し伸べられる。



 古城で眠る王子を目覚めさせたあと、ライナは気がついたら古城の外に倒れていた。


 人の手の入らない荒廃したうつくしい庭で、王子さまのひざまくらで眠っていた。

 オデロは、風に乗って飛んできたのか、ライナの髪についた花びらを、やさしく取った。

 そうして、そっと眠るライナのほっぺにキスをした。


 オデロはやがて、目覚めたライナに気づくと、とても嬉しそうに微笑みかけた。

 まるで数百年の眠りなどあっという間のことで、誰もいなくなった古城の前にいながら、ライナに出会えたことがはじまりであったかのように思っているかのような眼差しで。

 

 ライナは、きっと自分はこの旅のことについて思い出す時、いちばん鮮やかにこの情景を思い出すのだろうと感じた。



「うん」


 たった一言、ライナが答えるとぱっとほころぶ。

 その様子を見ていると、ライナはもう少しだけ続けてもいいような気もしてくる。

 おとぎ話のセオリーを無視して、もはやなんの意味もない旅を続けても。

 エンドとピリオドを打ちさえすれば、それは一旦のところすべてを降りた幕の向こうに隠す、魔法の言葉に違いないのだから。

 そう、こんなふうに。


<END>


このあとお姫様がドラゴンにさらわれて悪い魔法使いに出会い王子様がとばっちりでこじきの呪いにかかって記憶をうしない愛するひとを忘れて引き裂かれふたりを助けようと旅に出た甥っこ姪っこがオオカミのお腹から脱出した後に巨人に食べられそうになったりするのはすべて<END>の幕の向こうのあるかないかもわからないおとぎ話。

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