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熊の魔女


「お嬢さん、お嬢さん」


先程から後ろから聞こえてくる声に、ライナは振り返ることなく道を進んでいた。


ライナが森へ入って三日経った。


魔女が出ると噂の森の奥深くには、人っ子ひとりいない。

生活に森が必要不可欠な狩人も、滅多に近寄らない魔女の森。

小さな頃からさんざん脅かされてきた森は、入ってみると存外日差しがぽかぽかと暖かく、食べ物も豊富にあった。

ブナの茂みや茨のバラの花、そよ風と鳥の声。

耳が拾う音といえばそれくらいで、人も家も一度も見かけなかった。この日までは。


「ねぇ、お嬢さん。聞こえているよね」


だんだんとちょっと不安そうな声になっていく。

ライナはもちろん聞こえていたが、魔女の森の奥深くにいる人間に迂闊に返事をしてはいけないことくらいわかった。

ここは魔女の森だ。

こんなところに、ちょっとそこまで散歩にでもきたような手ぶらで身軽な出で立ちの、いかにも軽々な人がいるわけがない。


それならやはり、魔物かさもなくば魔女の手先に違いない。

突然こんな森に似つかわしくもない、のっぽな男性の姿が目の前に現れて『こんにちは、お嬢さん。あなたのお名前は?』と聞いてくる状況を、懸命なライナは罠のほうからこちらへやってきたのだと思った。


だから先程からずっと、男のことを気に留めず、道を歩き続けている。


「お嬢さん、お嬢さん」


気にしないこと。気にしないこと。

そういう鳴き声の動物だと、ライナは自分自身で思い込む。

なにせここは、父王様が結果的に両手両足を失った魔女の森。

世間知らずのライナのような少女が、用心するに越したことはないのだと、お兄様たちをきっと連れ帰るようにと言った言葉を思い出す。


いいですねライナ。あなたは賢い良い子なのだから、きちんとこの母の言うことを守って、お兄様たちを助けだしてくるのですよ。けっして、寄り道や、知らない人について行ったりしてはいけません。


それにライナは、いつものように『はい、お母様』と答えた。

両手と両足をちょっと気にして、さすりながら。


けれど、いったん外に出てみると、ライナは王妃の言いつけの意味がよくわかった。

こうして城を出て早くも三日目に見知らぬ男に声をかけられたことだけではなく、外の世界はさまざまにライナの目を引いた。


森の空気は澄んで、湖の水は新鮮でつめたく、落ち葉のベッドはやわらかい。

日の光は暖かく、たまに雨が降るときは、木のうろの中に入って、リスとともに雨を眺めた。

朝は夜露を溜めた葉っぱの水を飲んで、キイチゴを摘み、歩き疲れたら腰を下ろして頬を撫でるそよ風と揺れる花を見た。


日がな一日怖い顔をしている王妃様やぼんやりとしている父王様にも、森の生活を教えてあげたい。

どうせ雨漏りをする家ならば屋根がなくても同じなのだからと、ライナは森をすっかり城よりも気に入っていた。


しかし、そんなライナの考えを知ったら、父王様はともかく王妃様は怒るだろうし、あなたの使命を思い出しなさいとお説教をするだろう。

それに、ライナも自分のやらなければならないことを忘れたわけではなかった。

だから、今もこうして、見知らぬ人の話に耳を貸さずに歩いている。


「お嬢さん、お嬢さぁん」


ライナはぴたりと足を止めた。

自分を追いかけてくる男の声がいよいよ泣きそうなものになってきたからではなく、突然目の前に子熊が飛び出してきたからだった。


「あ、熊だね」


勝手についてきていた男が見ればわかることを呟いたとき、近くの茂みから、もう一匹子熊が這い出てくる。


「二匹いるね。兄弟かな?」


のんきに男が呟く傍らで、ライナはゆっくりと後ずさりをしていた。

ライナは絵本の中でしか熊を見たことはなかったが、犬のような子熊の愛らしさよりも、自分の直感に従ったのだ。子熊がいる場所には、親熊もいる。どんな動物でも、子連れは共謀だ。わが子を守ろうとせんばかりに、とても攻撃的になる。王妃様といういい例を思い出す。


「あ」


後ろに下がったライナの背中が、後ろにいた男にぶつかった。

ライナよりもずっと背が高い男は、とっさのことで驚いたのか、ライナとぶつかって尻餅をつく。

ライナもいっしょに転んでしまい、その音に反応して、子熊がこちらを見た。


「あわわわ」

「あわ……わ?」


はじめてライナが返事をしたとでも思ったのだろうか。

慌てたライナの声に、男がちょっと嬉しそうな顔で覗きこんでくる。

それどころでないライナは、いますぐ男に静かにしてほしいと思ったが、それを言うと今度は自分が静かではなくなってしまうので、結局何も言えなかった。


子熊たちと、ライナたちの目が合う。

そのとき、近くの茂みからまた音がした。

出てきたのは親熊だった。のそりと立ち上がった姿は、ライナが今まで見た男性の中で一番大きかった背後の男よりも遥かに大きい。


ライナはとっさに、後ろの男の手を掴んで駆けだした。


「あっ、ちょ、ちょっとまって」

「熊が!熊が!熊が!」

「うん、熊だね。……そうじゃなくて、熊って背中を見せて逃げちゃダメだったような」


ライナは自分が賢くない判断をしたことを悟った。


「そういうことはさきに言って!」

「え、あ、うん、ごめんね……」


先に言うもなにも、口を挟む間もなく走り出したのはライナである。

理不尽なことを言っているとライナ自身もわかっていたが、なぜか男は少し嬉しそうに返事をした。


しかし、そうこうしている間にも、背後から唸り声が届く。

親熊が追いかけてきたのだ。


「大変だ。怒っているね」


あまり大変そうに聞こえないのんびりとした声が、後ろを確認して言う。

ライナに返事をする余裕はなかったが、ふと手の中からするりとすり抜けていった感触には気がついた。

驚いたライナが振り返ると、そこには追いかけてくる熊がいるばかりで、男の姿はどこにもない。


ライナは何が起こったかわからなかったが、足を止めるわけにはいかない。

とにかく少しでも熊から距離を取ろうとする。


そのとき、ライナの前を一羽の鳥がよぎった。


それは、今まで見たこともないほど綺麗な鳥だった。

ライナは鳥と話したことなどなかったが、まるでその鳥が、こちらへおいでと言うようにすぐ前を羽ばたくのを見た。


鳥に誘われるように、足の向きを変える。

導かれるようにして木々の間を走り抜けていると、ふいに開けた視界に、人が現れた。


「……うおっ!?」


驚いたのはライナも同じだったが、声はその人物から発せられた。

そこにいたのは若い男だった。長い茶色の髪を一つに結んで、上等な服を着ている。

ライナよりよほど王族のような出で立ちだと思ったとき、男の顔が、王妃様に似ていることに気がついた。


「……お兄様?」

「………えっ!?」


考えるより先に口から落ちた言葉だったが、よく見れば、男の足元にはふくふくとした子熊が一匹いた。

男は今まさに子熊を抱き上げようとしていたかのような姿勢で、ライナは根拠のない直感を覚えた。


「お兄様、わたしはライナと申します。あなたは熊の魔女にさらわれという、わたしの一番目のお兄様ですか? もしそうなら、わたしは今、大きな熊に追われているのですが、この末の妹を助けてくださいませんか?」

「……えっ、えっ、え……妹!? 追われ、ああ~~!?」


この選択が賢いものかはわからなかったが、どの道、ライナには他に道がなかった。

突然の出来事に、子熊を腕に抱いた男は、混乱したように声を上げた。


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