黒き食卓の王子4
外に出ると雪が降っていた。
湖の外に出て早々に見えた景色に、三番目の兄が「久々のシャバだと思ったら冬かよ」とつぶやく。
「……冬、おきらいなんですか?」
「べつに」
べつにという感じでもない言い草だったので尋ねたのだが、三番目の兄はもともとこういうふうなしゃべり方なのかもしれない。
ライナはとりあえず深くは掘り下げずに「そうですか」とうなずいた。
言葉と一緒に吐き出された息も、いつの間にか白くて、無意識に両手に息を吹きかける。
「……ほら」
「ふぁ」
ばさりと視界が暗くなったかと思うと、体が急にあたたかいもので包まれた。
突然顔が隠れたことでライナがいなくなったと思ったのか、ぴぴぴっ!と慌てたような鳥の鳴き声が聞こえたが、ライナがもぞもぞと顔を出すと『ここにいた!』というような鳴き声に変わって、首元につっこんでくる。
「これは」
「寒いだろ。被ってろ」
鳥がつっこんできたのはライナに被せられた布の中だった。
その布は、どうやら三番目の兄が寄こしたらしい。
ライナが口を開いてお礼か、あるいは他の言葉をしゃべるよりも早く、三番目の兄はさっさと踵を返してしまう。
なにかを言い損ねたライナの首元から、鳥が顔を覗かせて、ぴっ?と首をかしげた。
なんとなく、ライナも同じように首をかしげてみせたが、首回りに巻きついた布が三番目の兄の思いやりなのはわかっていた。
結局、湖の中での生活はひと月ほど続いた。
本当はすぐにでも出るつもりでいたのだが、水中と地上ではもしかしたら、井戸の中と同じように時間の流れが違うのかもしれない。それなりに時間が経っていることに気づいたのは、七ヵ月の後の一ヵ月しか人の姿であれない鯨の魔女が、一ヵ月が過ぎて鯨の姿に戻ったときだった。
「そういえば、どうして湖なんだろう」
「なんか言ったか?」
どうして鯨が湖にいるのか。
そういえば最初に旅立つ前に、王妃から話を聞いたときにも思ったことを思い出す。
上がってきた湖面を見下ろしてなんとなく感じていたことをライナが伝えると、三番目の兄は「アイツが言うには」とライナの隣に立って教えてくれた。
「『湖は小さめの海で、海は大きめの湖でしょう』だとよ」
「鯨の魔女さん……お義姉様が?」
「やめろわざわざ言い直すな」
三番目の兄は居心地悪そうにライナを横目で見やったあと「……いかにもアイツの言いそうな屁理屈だよ」と付け足した。
「……湖は小さめの海で、海は大きめの湖……」
それでいいのかと問うような視線に、三番目の兄はしれっと答える。
「アイツがそういうならそうなんだろ」
ライナはちょっとびっくりして三番目の兄を見た。
ライナが自分の兄達のことについて知っていることは多くないが、今のところ一番長くいっしょにいる三番目の兄については、あまりお口は良くないというのはこの一ヵ月で知った。
一応は自分のお嫁さんであるところの鯨の魔女――それとも三番目の兄のほうをお婿さんと言ったほうがいいのだろうか?――が相手でも関係なく、ざっくばらんに遠慮がない。
王や王妃に口答えをしたことのないライナにとって、三番目の兄の態度は内心驚きで、そうしてなんとなく、羨ましいようなよくわからない気持ちになるのだった。
けれどこのときは、当たり前のように三番目の兄が言った言葉は、それとは違う気持ちでライナの心に落ちていった。
それがどういう気持ちなのかは、やはりライナにはよくわからなかったけれど。
彼女がいうなら、ここは海。
「……それなら、水たまりは、小さい小さい海かな……」
先に歩いていった三番目の兄が、振り返ってライナを呼ぶ。
その後ろについて行きながら、ライナはクロダイならば『それなら涙はもっと小さな海だね』と言うかもしれないと、なぜかそんなふうに考えた。
ライナの首元で、髪の間を巣にして収まった鳥が、歌うようにぴぴぴっ!と鳴いた。
□
ライナと、鳥と、三番目の兄。
あとは、鯨の魔女がくれた荷物。
それら一行の旅路が終わりを迎えたのは、湖を出て一週間後のことだった。
「……あの廃墟みたいなボロ城か?」
三番目の兄の眼差しの先には、数百年前から建っているといわれても信じられるような形相の古城があった。
「実際数百年前から建ってんだろ」
鯨の魔女の話を思い起こし、三番目の兄が「それにしてもよく崩れてねぇな」と呆れたような感心したような感じでつぶやく。
三番目の兄の言う通り、その小さな古城は今にも崩れ落ちそうに見えた。
長い年月、誰も足を踏み入れていないのだろう。
緑に覆われて、ほとんど森と一体化しているような古城は、もちろんライナが父母と共に暮らしていた城よりは立派だったが、しかし城というよりはどちらかといえば塔のような外観をしていた。
近づくと、風と雨に長い間晒されてぼろぼろになった外壁には、よく見ればとても古い文様がたくさんあしらわれているのがわかった。
きっと当時はとても綺麗だったのだろうとうかがえる精緻な出来の装飾は、ここはえらい人のための場所なのだと教えてくれる。
「ここが……」
年月によって溶けるように森に還りつつある城。
まるで魂が抜け落ちたあとの肉体のような空虚さを感じる。
巻き付く蔦が、まるで今にも崩れ落ちそうな古城を支えているようだった。
ぴぴーっ、ぴぴぴっ、ぴぴっ。
「……あ」
ライナの首元から鳥が羽根を広げて飛び出した。
小さな姿を目で追った先。緑で覆われた場所に、扉があった。
蔦と茨の絡んだ、重そうな鉄の扉。
「三番目の兄様」
呼ぶと同じように気づいた兄が、顔を顰めて扉に近づいていく。
その手がほとんど埋もれているような扉に触れそうになったときだった。
ンモォオオウゴォオオオオオオンンン!!!
「……はっ!?」
「! 三番目の兄様っ」
ライナが呼びかけるよりわずかに早く。
響き渡った奇妙な鳴き声に、三番目の兄が咄嗟に飛びのいた。
ぴぎぎぎーっ!? ぴ、いぃぃぃぃっ!
今度の鳴き声は、狂ったようにライナのもとに戻ってきた鳥のものだった。
首元に飛び込んだ鳥を受け止めたライナは、突如として聞こえた声の主を探した。
果たして、それはライナ達から少し離れた場所にいた。
見たことがないほど大きな、黒い牝牛。
古城の前に広がる野原。
おそらくかつては小さいながらも綺麗な庭だったのだろうその、今は草花が好き放題に生い茂っている場所に、まるでふっと湧いて出てきたかのように、その黒い牝牛はいた。
黒い、黒い、牡牛の、やはり黒い目がライナを見る。
途端、ライナの頭の中で、鯨の魔女から聞いた言葉がオルゴールのように再生された。
『あの城に眠るのは魔女に呪われた王子。魔女の呪いが王子の命に茨の棘のように絡みつき、やがて長い年月の果てに、魔女の呪いと魂だけの王子の境目は混じり合った』
気をつけるようにという鯨の魔女の忠言。
「っ、ライナ!」
駆け寄ってきた三番目の兄が、ライナを押し倒した。
野に転がったライナが体を起こすと、さっきまでライナがいた場所の木に、牝牛の角が突き刺さっていた。
ライナの背筋に、隙間風のように、今まで感じたことのない危機感が通り抜けていった。
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