黒き食卓の王子2
鯨の魔女の城は、本当に湖の中にあった。
準備が整うまでその辺を見て回っていていいと言われて、ライナは水中の城を探索していた。
「きれい」
透明な壁の向こうに、澄んだ青の光景がどこまでも続いている。
たゆたう水草の間を、魚が悠々と泳いでいる。
水面越しに差す陽光が、天から伸びるはしごのようにきらきらと輝いていた。
今まで見たことのない水の中の景色を、ライナは不思議な気持ちで見上げていた。
「きれいだね」
誰にともなく感想をつぶやいた後で、ひとりでなかったことを思い出す。
ライナの肩の上には、小鳥がちょこんと乗っている。
ライナについて回っているのはいつもと変わらなかったが、鯨の魔女が話をはじめた辺りから、鳥はまるで置物のように静かになっていた。
「……どうかしたの? お腹すいた?」
ぴい~っ……ぴい……っ。
ライナが尋ねても、弱々しい鳴き声が返ってくるだけ。
目覚めたばかりのライナにべたべたと羽をくっつけてきた鳥は、今は心なしかしぼんでいるような気もする。
「ソイツ、元気ないのか」
ふいに横から声をかけられて、ライナは振り向く。
「……三番目の兄様?」
少し離れたところに、三番目の兄が立っていた。
ライナに呼ばれると、こちらへ一歩近づいてくる。
だが、ライナを見下ろせるところまでくると、戸惑ったようにぴたりと足を止めた。
「……あ~、その……」
「……わたしになにかご用でしたか?」
自分と一番歳が近い三番目の兄も、ライナよりも遥かに背は高い。
めいっぱい首を伸ばしたライナと目を合わせて、三番目の兄は首に手を当てた。
「……別に用はない、けど……」
その口調に、ここにきてはじめて年相応の少年らしさを感じた。
そうはいっても当たり前だが、三番目の兄はライナより年上だ。
ライナが先に口を開いてでしゃばるのもどうだろうか、と思って口をつぐんで待っていたが、いつまでたっても三番目の兄から次の言葉は出てこない。
ライナは黙っている間、透明な壁の向こうで目の前をよぎっていく魚の数を数えていた。
しかし、三番目の兄が一向に話し出さないことがわかると、しまいにはそれが百を超えたあたりで、自分から口を開いた。
「この鳥、さっきからなんだか元気がなくて」
そう言うと、三番目の兄はこちらを見た。
「……兄様なら、原因がわかりますか?」
「………見せてみ」
歩み寄った三番目の兄に、肩から手に移動させた鳥を見せる。
ライナも三番目の兄もてのひらの中の鳥を見ているから、互いに目が合わないことを気にしなくてもよかった。
話題を探す必要もなかったから気楽で、たぶんそれはライナにとってだけではなく、三番目の兄にとってもそうだったのだろうと思う。
「別にどこも悪くなさそうだな。ここにきてからそう経ってないから、空気の問題でもないだろ。ここ水中だけど普通に酸素はあるし……仮病じゃね? それか、そういう気分か」
「仮病? ……鳥が?」
「嘘つくのは何も人間だけじゃねえ」
「……兄様は、お医者様なんですか?」
ライナの疑問に、三番目の兄はちょっと驚いたような顔をした。
見上げるライナと視線が合っても、今度は気まずそうにはしない。
ライナに「いや、」と頭を振って否定した後、ちょっと考えてから言い直した。
「……まあ、ここでは医者みたいなこともたまにはしてた」
「そうなんですか」
「魚限定のな」
ちょっと視線をずらすと、外には水の世界が広がっている。
確かにここではそうそう魚以外の動物を見ることはないのかもしれない。
「すごいです」
ライナは純粋に賛辞を述べたが、三番目の兄は仏頂面のままだった。
「アイツ……鯨の魔女のまじないとやらで、魚の言葉がわかるんだよ。鯨の時にも、やれどこが痒いだのやれ腹が減っただのと好き勝手オレを使うためにな」
相変わらず口調はとげとげとしていて愛想がなかったが、ライナはやはり、そこまで怖くはなかった。
どうしてか。それはたぶん。
「三番目の兄様も、ここでの暮らしが、お嫌じゃないんですね」
深くてしずかな水の底で、ライナの声もまたとてもしずかに落ちていった。
三番目の兄は、またちょっとびっくりしたように目を見開いてライナを見ていた。
思いもよらないことを言われてびっくりしたというよりは、ライナ自身を見てびっくりしているように思えた。
「……おまえ……」
「一番目の兄様も、二番目の兄様も、とても幸せそうでした。どちらも御子もいて」
「……はっ!?」
三番目の兄から素っ頓狂な声が上がったが、ライナは考えに手いっぱいで気づかなかった。
よく考えたら、七年も経っているのだ。
七つのライナにとっては人生のすべて。
その時間は、息子をすべて失った母である王妃にとっても、新しい生活にすっかり馴染んでいた兄達にとっても、きっと短いものではなかった。
父王についてはわからない。
ただ、大人はお酒の力を借りると起きていても夢を見ることができるらしいが、それはたいてい悪夢だという。
いつもお酒を飲んでいる父王は、現実よりも悪夢の中に生きていた。
そうしてたぶん、いつもため息と涙のない日がなかった王妃も、悪夢のような現実にいた。
ライナにとっての世界のすべての現実に。
「あたたかい毛布も、綺麗なお洋服も、おいしい食べ物も、お話するだれかも」
もしかしたら最初から考えればわかったことなのかもしれないが、ライナはとくに考えなかった。
ライナがしたことは、母である王妃の言葉に、ただ『はい、お母様』と“良い子”のお返事をしただけ。
なぜなら、それは、おとぎ話のセオリーだったから。
「ちゃんと、兄様達にはあったのに」
悪い魔女なんてどこにもいなかった。
助けを求める王子様も本当はいなかった。
ここは絵本の中じゃないから、おとぎ話のセオリーにはならない。
お姫様を助けにくる王子様もいないし、だから、ライナの存在もなんでもないのだ。
「わたし、来ないほうがよかったですか?」
一番目の兄の時はわからなかった。
二番目の兄の時は言葉にできなかった。
自分と一番歳の近い三番目の兄の前に立って、ようやくライナの中から言葉が落ちた。
ちいさく息を呑んだ音が三番目の兄から聞こえた。
だが、ライナのそれは別段、拗ねた気持ちの言葉ではなかった。
単なる純粋な疑問だったのだ。
鯨の魔女は数百年も何もなかったと言っていた。
それがここにきて突然。
そうやって考えると、ライナは自分の訪問が、まるでおとぎ話を壊してしまったような気分になるのだった。
「――――いいえ、ライナ。可愛い子」
たおやかな、優しい声が唐突に聞こえた。
気づけば、ライナの目の前に、魚の尾のようにドレスをひらめかせた鯨の魔女の姿があった。
魔女は―――本当は魔女ではない呪いをかけられたお姫様は―――そっと唇の前に指を立てる。
「おとぎ話は、大人だけのものではない。知っているかしら。わけのわからない、ひっくり返したところで教訓なんて少しも見つけられない、何のために生まれたのかさえ知られない、しっちゃかめっちゃかでくだらない、滑稽なおとぎ話もあることを」
鯨の魔女は、驚いて止まっているライナの手を取った。
あまり表情が変わらない、それだけは少し、ライナと似ている女性。
彼女は魔法のまじないをとなえるように、ライナにそっと囁く。
「それは、子どものおとぎ話。自分だけを照らすお日様。眠れぬ夜のお星様。誰かのものではない、『ライナ(あなた)』だけの物語」
だから貴方は、誰かに悪く思う必要などない。
人が皆、至るべきところに至るように、貴方もまたここにいる。
「だってこの物語は、貴方が主役なのだもの」
―――ぴっ、ぴぴぴっ、ぴっ!
まるで同意するかのように、肩の上で歌うように鳥が鳴いた。




