鯨の魔女5
「兄様。私はいささか困惑しております。女きょうだいばかりに囲まれ、王家の唯一の男としてよほど私達よりも蝶よ花よと周囲の女性達にちやほやされて育った結果、紳士的を超えて勘違い女を量産するほどに女性というものに等しく甘く育った兄様といえど、幼い少女を誑かすなど……確かに老若問わずに女性を虜にすることにかけては世界一と言われた兄様ですが、そこまで分別がなかったとは」
ぴぎーっ! ぴぴっ、ぴぴぴーっ!!
「流石に守備範囲が広すぎると言わざるを得ません。まったく、こんな少女に手を出すなんて、『しっかり者の妹達はともかく、オデロのことは心配でならん』と最期まで兄様を気にされていた父母に長女としてなんと申し訳をすれば……」
ぴぴぴぴぴーっ! ぴいいいーっっ!
「はい? それを言うなら私も同じではないかと? はあ、確かに私が一番年下の王子を娶ったのは事実ですが……私は長女なのですよ。妹達に先を譲るのは当然のこと。と、いうより、順番的に私には選択肢は残されていませんでした。自ら年端もいかぬ少女につきまとっている兄様とは事情も異なりましょう」
ぴいっ……! ぴぴぴぴっ、ぴいいーっっ!!
なにか声が聞こえる、とライナは暗闇に閉ざされた視界の中で思う。
重たい瞼がゆっくりと持ち上げられて、水に濡れたようなぼんやりとした光景が見える。
ここはどこだろうか。
そう考えて、そういえば湖に落ちたのだと思い出す。
ライナの体にはすべすべとした布がかけられ、どうやら寝台に横たわっているようだった。
寝起きで頭はぼんやりとしており、起き上がれるようになるまで時間がかかった。
何度か瞬きをくり返していると、乱暴な足音が近づいてきた。
「おいてめえら! ちったあ静かにしろよ、子どもが寝てんだろうが! ぺちゃくちゃぺちゃくちゃぴいぴいぴいぴいうるせぇぞ! それとオレを余りもののように言うのはやめろ!」
突然の大きな怒鳴り声にライナはびっくりして今度こそ本当に目を開く。
声を上げた人物は、ライナのいる寝台のすぐ横に立っているようだった。
ライナが目を覚ましたことにはまだ気づいていないようだ。
会話をしていた声のほうに顔を向けて、苛立ったように文句を言っている。
「確かに、ごめんなさい。貴方が不満だったと言っているわけではないわ」
「んなことぁどうでもいいんだよ今はあ! 静かにしろって言ってんだ!」
「確かに、ごめんなさい。でも、貴方のほうがうるさいわよ」
ぴい……ぴっ……ぴい……。
冷静な女性の声に小さく同意するような鳥の鳴き声が続く。
ライナも内心で同意しかけて、はっと鳥のことを思い出して起き上がった。
「あの……」
「……おまえらが騒ぐから起きたじゃねえかよ……」
蚊の鳴くようなライナの声は、隣に立っていた人物にはしっかりと届いたらしい。
びくりと反応して、言われたことを気にしているのか今度は小さな声で苦々しく呟くのが聞こえる。
「貴方の声に反応したのではなく?」
「減らず口叩くんじゃねえ。……おい、おまえ、ライナっていうのか?」
上から見下ろされて、そこでようやくライナは隣に立つ人物の顔を見た。
まだ少年の面影を残した、かなり年若い青年だ。
ぎゅっと不機嫌そうに寄せられた眉と、襟をくつろげて着崩したような恰好がちょっと荒んだ空気を感じる。
いかにも大人の男性だった一番目の兄とも、おっとりとして落ち着いていた二番目の兄とも違う……。
そこまで考えて、ライナは思い至ったことに瞳を丸くした。
「……三番目の、兄様?」
「……そういうおまえは、オレの妹だってな」
そこでようやく、ライナは自分が三番目の兄のところへ辿り着いていたことを理解した。
◇
「事情はわかった」
ライナの旅の目的、これまでの旅路、呪いを解くための方法を探していること。
それらの話を聞き終わると、青年――ライナの三番目の兄は、端的にそう言った。
ライナが完全に覚醒した後、早速話し合いの場が設けられた。
話の間中、三番目の兄は何も言わず黙って聞いていた。
しかしその鋭い眼光は、ずっとライナを射抜いていたので、ライナは話しながらも気になって何度か気が逸れかけた。
一番目の兄とも、二番目の兄とも違う、三番目の兄の雰囲気はちょっと怖い。
最初の確認以外には、三番目の兄はライナには話しかけてこなかった。
代わりに、ライナの話が終わると、じろりと鯨の魔女を見やる。
「おまえ、オレに何も言わなかったな。どういう了見だ? あぁ?」
「あら、私が鯨の姿から元に戻ったのはついこの間だということをお忘れかしら」
「戻ってから数日は経ってるだろーが」
「まあ怖い。貴方が幼い妹が心配なあまり、無鉄砲に飛び出していくのを懸念していた妻になんて言いぐさかしら」
「ウソくせえ……」
胡乱そうな青年の態度にも慣れているのか、鯨の魔女は冷静そのものだった。
「あら。妹の存在を知ってから、貴方がそわそわしていたのは事実でしょうに」
それで、三番目の兄はすっかり黙ってしまった。
ライナはもっとも歳が近い兄をこっそりと見やる。
三番目の兄は今はライナを見ていないが、最初に顔を合わせた時、その目には突然現れた妹への戸惑いが見えた。
ライナとしても、別にどういう想像をしていたわけでもなかったが、三番目の兄の王子らしくない態度に心のなかで驚いていた。
ただ、他の兄達がことさらに王子らしかったかと聞かれるとそれもよくわからないし、そもそも自身もれっきとした姫であるはずのライナも自分を姫らしいと思ったことはない。
もっというなら王族らしい暮らしもしたことがなかったので、そんなものなのだろう。
ただ、王子らしくなくとも、三番目の兄は確かに他の二人の兄達に似ていた。
この青年が、ライナの三番目の兄。
つまり、ここがライナの旅の終着点ということなのだろうか?
「三番目の兄様、鯨の魔女さん、あの、呪いのことですが」
「ライナ、どうぞ私のこともお義姉様と呼んでくださって構わないのですよ」
おずおずと口を開いたライナは、すぐさま飛んできたおっとりとした声に目を丸くする。
「おまえ……今日はじめて会ったばっかの義理の妹に、図々しいな」
三番目の兄が横目で鯨の魔女を呆れたように見やる。
「現実で会ったのは、ね。以前にも水面越しにお話ししたわ」
「……もしかして……」
ライナに向けて、鯨の魔女はたおやかな笑顔を向けた。
そこで改めて、ライナは鯨の魔女を見つめた。
寸分の狂いもなくきっちりと切りそろえられた前髪と、後頭部でティアラのようにまとめられた後ろ髪。
引きずった裾が絨毯のように見えるほど長いドレスをまとった彼女は、ライナが七つになるまで見てきた人間のなかで、誰よりお姫様らしい。
まるで絵本の中から抜け出てきたかのような女性に、ライナは見覚えはなかった。
だが、鯨の魔女の言葉に心当たりはある。
「あの時、水面に映っていた“わたし”は……?」
「そう。貴方の姿をお借りした、私です。無作法なことをして申し訳ございませんでした」
「……それは、わたしが兄様方の呪いを解く旅を中断したから……?」
「あら、そんなふうに思われないで。貴方は何も悪くありません。貴方には何の責任もないのですから。ただ、狭量な男が力を使って軟禁紛いのことをしているのを見逃すのは、流石に身内としてどうかと思っただけのことで……まぁそれも、石を投げ込まれて追い出されてしまいましたけれど」
「?」
「ああいえ、こちらの話ですわ」
「おい鳥がめちゃくちゃうるさいぞ」
首をかしげるライナに、気にしなくていいというように鯨の魔女は微笑む。
その横で三番目の兄が指摘した通り、鯨の魔女の耳横では、ぴーっぴーっぴぴぴぴーっ!となにやら必死に訴えるかのごとく鳥が鳴いていたが、彼女はまるで聞こえていないかのように無視していた。
「しかし、結果的には良かったのでしょうか。どこかの甘えた男が自分よりも遥かに年下の少女につきまとっているだけでなく、『新婚ごっこをしたかった』というような頭に花畑が広がっている動機で足止めをしていてくれたおかげで、ちょうど私が人に戻れる期間、七ヵ月の後の一月の期間に会うことができました」
鯨の魔女はやれやれというふうに優雅に首を振りながら「不幸中の幸いというところでしょうか。まったく昔から悪運の強い方です」と言う。
その横の空中ではずっと鳥が断末魔のようなすごい鳴き声を上げていたが、終いには鯨の魔女の手に握られてキュウ……と呻いて静かになった。
「すみません、わたしの鳥が」
まさか死んでしまったのではないかと内心気が気でないライナがそう言って鳥を受け取ると、鳥は幸いにも死んではおらず、ライナの手のひらにすり寄ってきた。
自分でちょっかいをかけたようなものなのに、よほど鯨の魔女が怖かったのか、ライナの手に縋りついて離れない。
「まあ、『わたしの鳥』? ふふ、そうですか。それはそれは。よかったですね」
一応自分と共に来たのだからそう言ったほうがわかりやすいだろうと思っての発言に、鯨の魔女はなぜか目を瞬かた後、鳥に向かって笑いかける。
さっき握りつぶされそうになったせいか、それに対して震えながら、ぴ、ぴ、と小さな鳴き声しか返せなくなっている鳥を手に置きながら、ライナは今までのことを整理した。
「……あの、それでここは、鯨の魔女さん……お義姉様のお宅で間違いないですか? ……湖の中の?」
「ええ。そうです。貴方達が過去の幻影の呪いに追いかけられていたので、パンくずで呼び出されてすぐにお越しいただきました。魔女と呼ばれるほど達者ではありませんが、私も多少は魔術が使えるので水鏡で時々様子を見ていたのですが、間一髪のところでお助けできてよかった。あの過去の呪いに触れたらどうなるかは、流石に私も存じ上げませんので」
過去の呪い、とおうむ返しにライナがくり返す。
ええ、と鯨の魔女は上品に頷いて、小首をかしげた。
「数百年越しに呪いが解けそうになって反応しているのかしら。もうずっと見かけることもなかったので、ひょっとしたら消滅しているかもしれないと思っていましたが、残りかすは健在でしたね。まあ、こびりついた汚れはしつこく残るものと決まっていますから、意外でもないわね」
「……汚れってなんのことだよ?」
「年甲斐もなくいつまでも初恋を引きずった女の、何百年モノの傍迷惑な恋情のことです。いいえ、もうこうなってしまえば執着と言ったほうが正しいかしら?」
怪訝そうに尋ねた三番目の兄に、鯨の魔女はとうとうと言った。
けれど、その答えをもらってもライナも三番目の兄もよくわからず、それぞれがそれぞれの表情で(つまり、ライナはいつもの無表情で、三番目の兄は仏頂面で)戸惑いをあらわした。
鳥だけが、ライナの手の上で、なんだか都合の悪いことが起こった人が視線を逸らそうとするように、どこか居心地悪そうに縮こまっていた。
「そうね。せっかくだから、昔話をいたしましょうか」
鯨の魔女は、ライナと三番目の兄に席に着くようにうながした。
いつの間にか、ガラスの机があらわれて、机を囲むようにこれもまたガラスで出来た椅子が三つ並んでいた。
机の上にはやはりガラスのグラスがあり、中にはしゅわしゅわと泡を立てる飲み物がなみなみと注がれている。
どうぞと差し出されてどうもと頭を下げ、ストローに口をつけると、甘い味とぱちぱちとした不思議な感触がした。
「『三人姉妹』の兄である『恋知らぬ王子』、そして王子に恋をした『魔女』の呪いのお話を」
そうして鯨の魔女は、おとぎ話を語りはじめた。




