鯨の魔女3
七つのライナを旅に出した王妃も驚くかもしれない。
あるいは今頃やきもきしているだろうか。
少なくとも、七つよりも八つに近づくくらいまで帰ってこないとは、父母も予想していなかったのではないだろうか。
そう思った次の瞬間にはもう、果たしてそうだろうか、とライナは内心で首をかしげる。
王妃も父王も、ライナを送り出す時に『いつまでに帰ってきなさい』なんて言わなかった。
ライナはずっと、無意識にそのことを考えないようにしていたけれど。
「クロダイ、どうしてこんなことをしたの?」
やっと口を開いたライナの問いかけは、いつも通りの声音だった。
けれどもう先程からずっとやましいことがある人の表情をしていたクロダイは、あからさまにぎくりと肩を強張らせて、逸らしていた視線を恐る恐るライナに向けた。
「……怒っている?」
「わたしが怒っているって言ったらどうするんですか?」
「……地面に膝をついて、キミの爪先にキスして謝るよ」
無言ではあったがライナがちょっとひくと「それが不満なら、ボクをぶってくれてもいいよ! なんでもする!」と慌てて付け足されたが、その勢いにライナは余計にひいた。
クロダイはいよいよ絶望的な顔をしたが、ライナは彼に爪先に口づけてほしいわけでもなければぶちたいわけでもなく、説明してほしかっただけなので、改めて尋ねた。
「クロダイ、どうしてこんなことをしたの? ここはどこ?」
――――どうして、こんなことをしたのか。
今のライナは、少なくとも自分達がいる場所が『普通』ではないことはわかっていた。
頭にかかっていた霧が風に吹き飛ばされて晴れたかのように、ライナは思い出していた。
ライナは兄達を探す旅の途中で、今は三番目の兄のもとへ行く途中だったはずだ。
ここでライナがぼんやりしていた間の記憶を思い出せば、確かにおかしなことだらけだ。
よくよく考えれば、鮮やかな紫色の木など、ここには現実では見たことのないものがたくさんある。
温かいたくさんの食べ物、見たこともない色をした景色、綺麗なドレスに、清潔なベッド。
灯りのあるこじんまりとした家。そこで大切に髪の毛の一本までも宝物のように慈しまれるライナ(自分)。
そうだ、どうしてずっと気づかなかったのだろう。ライナはため息をつきたくなる。
絵に描いたようなおとぎ話だ。そうして、おとぎ話は、絵本の中にしかないのだ。
「キミが気づかなかったのは、不思議なことじゃないよ。ボクがわからなくさせていたんだ」
沈痛な声が聞こえて、ライナはクロダイを見た。
クロダイは、どういうわけか、彼のほうこそがつらそうな顔をしていた。
理屈はわからなかったが、ライナを誤魔化していたらしい張本人のほうがずうんと肩に山でも落ちてきたかのように落ち込んでいるので、ライナも冷静になる。
「……どうしてこんなことをしたのか、と聞いたね」
「はい」
とうとう長い脚を折りたたみ、子どものように膝をそろえて座り込んでしまったので、仕方なく背を撫でさすってやる。
なぐさめるような小さな手に、クロダイはようやくぽつりぽつりと話し出した。
「キミの望みがわからなかったんだ……」
「え?」
「まじないを……魔法を使ってキミの望みを全部叶えたいと思った。だけど、キミが何を望んでいるのか、眠っている間にこっそり聞いてもわからなくて……だから」
「だから?」
ライナはやや困惑しながらも続きをうながした。
ためらうように一旦口をつぐんだクロダイは、じっと見つめるライナの瞳を覗き返す。
座っていてもクロダイはライナよりも大きい。
彼がライナを見下ろすと、男の人にしては長めの白金の髪が、ライナの顔の周りにカーテンのようにかかる。
「だから、ボクのしたいことをしたんだ」
気づかないうちに、彼と共にずいぶんと長い時間を過ごしていた。
ライナは、クロダイしか見えない視界で、瞬く太陽と月のような瞳を見つめる。
「キミの旅が永遠に終わらなければ、ボクのもとに辿り着かなくとも、ずっとこのままいっしょにいられると思った」
目を丸くするライナを見ながら、クロダイはゆっくりと瞬いた。
続けてやや気まずげに、打ち明け話をする。
「……だから、ボクの夢に引き込んだんだよ」
「夢?」
「正確には、ボクの夢でちょっと現実を歪めたというか……本来ある世界の上に、まじないをかけたんだ。これだけ力のあるまじないを使えたことはなかったから、ボクもちょっと驚いちゃった」
えへ、とたまにやる語尾にハートのついていそうな甘い声は、たぶん今はわざとなのだろうとライナにもわかった。クロダイの口振りは綿のように軽やかだが、先程からずっとライナから視線を逸らさず凝視しているし、その瞳には心なし怯えが映っている。
大の大人に、そんな濡れた犬のような哀れっぽい目で見られてライナは戸惑った。けれどよくよく考えてみたら、クロダイがあんまり大人らしくないのは今にはじまったことでもなかったので、すぐにまあいいかという気分になった。
「クロダイには、特別な力があるんですね」
「! そ、そうだね。こういったことは昔ちょっと教えてもらって」
「それなら、ここから出してもらえますか? 三番目の兄様を探しにいかなくちゃ」
ライナの言葉にぱっと嬉しそうにしたのに、その後のライナの言葉に今度はしおしおと項垂れる。
「……どうしても?」
濡れた犬が次は甘えた子犬のような眼差しになった。
ライナは無意識に女性に慣れている普段のクロダイの様子を思い出しつつ、きっぱりと頷く。
ようやく状況がつかめてきたので、ライナはさっさとしたい気持ちになっていた。
「どうしても。できないの?」
「……できないって言ったら?」
明らかに気が進まない様子のクロダイは、さっきのライナと似たような返しをしてきた。
それにライナはしばらく黙って考える。
「さっきの湖に語りかけてみます。答えがなかったら、飛び込んでみるとか」
水面に映ったライナ自身が語りかけてきたことは、いかにもおとぎ話的ではあったが、クロダイの仕業ではないらしい。
よくわからないが、水面の向こうのお相手は、ライナの状況を知って話しかけてきたようだった。
クロダイが投げ込んだ石の波紋が消えると、もう水面の向こうのライナはしゃべらなかった。
だが、水辺で待ちつづけていれば、また気まぐれに話しかけてくることもあるかもしれない。
どうせすでに気づかぬ間に数か月以上も無為に過ごしていたのだから、いまさらちょっとやそっと待ったところでライナは気にしなかった。
「やっぱり仕方ないからボクといっしょにここで暮らす!とは言ってくれないんだ……」
よよよと泣き崩れたクロダイの背を撫でてやる。
なんだかんだとクロダイは口で抵抗をつづけたが、べつに今更クロダイの駄々に付き合う時間がちょっと増えたところでたいして変わりはしない。ライナがそのようにして隣で待っていると、やがて彼も諦めたのか、しまいには深々とため息をついて諦めたようだった。
「わかった、わかった、わかったよ。ライナはボクより現実を選ぶんでしょ。ボクは外の世界ではすぐに綺麗なドレスも温かい寝床も美味しいご飯も用意できない役立たずになるけど、本当にいいんだね? こんな小さな体で頑張るライナの傍にいることしかできないんだよ? とっても無力なんだよ?」
「もともとそんな感じだったよ」
「どうしてそんなひどいこと言うの!」
事実だけど!と涙目になりながらなじってくる。
ライナは首をかしげながら、そんなことをクロダイは考えていたのかと思った。
「べつに、役に立つからクロダイといっしょにいたわけじゃないです」
「えっ……そ、それって……ライナ、ボクのこと、好」
「勝手についてくるからいっしょにいただけで」
「ああ……まあそうだけどね……」
どきどきとした表情をしていたクロダイが、がっくりと肩を落とす。
クロダイは、いじけた様子のまま、けれど本当に仕方なさそうに立ち上がった。地面の小石を靴の先で湖に落としているのは、せめてもの反発なのだろうか。
若干拗ねた気配を残したまま、クロダイがライナに向き直る。
けれど、結局ライナに向き直ると、自分よりも遥かに小さい子どもの前でいつまでもいじけているのもどうかと思ったのか、それともそんなことは少しも思ってはいないけれど切り替えたのか、真面目に口を開いた。
「だけど、ボクがしばらく役に立たなくなるのは本当だ。夢をずっと見続けるにも体力がいるらしい。おかしいな、ボクなんてずっと眠ってるようなものなのに、現実で夢を見るのは寝ながら夢を見るよりもずっと大変なんて。でも、心配しないで、ライナ。目が覚めたら、鳥がキミを導くよ」
その発言の真意を問うことも、聞き返すような間もなかった。
容貌だけはどこまでも王子様そのものな微笑みをクロダイはライナに向ける。
次の瞬間、ライナは森のなか、ひとり立っていた。
「……クロダイ?」
木ばかりの周囲を見回しても、一面、緑、緑、緑、緑ばかり。
立ち竦むライナは、ぴぴ、という久しく聞いていなかった鳴き声を聞く。
驚いたライナの肩に、いつの間にかあの鳥が止まっていて、ライナが見ると、またぴぴぴと鳴いた。




