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鯨の魔女2



「ライナ、ぼんやりしてどうかした?」


クロダイに呼びかけられてライナは目を丸くした。


ライナの目の前には、白い石でつくられた食卓がある。

食卓には、湯気の立つスープ、たっぷりのアーモンドを練りこんだケーキ、綺麗な模様のミートパイに、ふかふかの温かなパン、濃いミルクがなみなみ入ったピッチャーがあった。

その豪華さに、ライナはしばし言葉を失う。


「食事のメニューが気に入らない? ジュースにする?」


顔を上げると、真向かいに座ったクロダイの姿がある。

ライナはすこし考えた後、いいえ、と首を横に振った。


「ただ、びっくりして……こんなにたくさんのご飯は見たことがなかったから……」


言いながら、ライナは内心でそうだっただろうか?と首をかしげる。


「これからはなんでも食べられるよ。ライナの好きなもの全部出すよ」


確かにお城では、ライナに小さなお腹を満たすほども満足に食べられことは多くなかった。

けれどとても近い最近、ライナはお腹いっぱいに何かを食べたような気がする。それも、ライナが今まで食べたことがない、とびきり美味しい何かを。


「食べものだけでなく、なにかあったら言ってごらん。キミの欲しいもの、叶えたいこと」


にこにことするクロダイを見ていると、思考はお茶に落とした一滴のブランデーのように溶けていって、ライナは何を考えていたのかわからなくなる。


目の前には、見たこともないような豪華な食事。

そこにある奇妙な既視感を、とろけるような声がかき消していく。


「さあ、冷めないうちに食べて食べて。あ、ボクがあーんしてもいいかな?」


頬を染めてなんだか妙にうきうきしているクロダイに、ライナはすこし黙った後、首を横に振った。




クロダイは一体なにが楽しいのかまったく謎なことに、ライナに甲斐甲斐しく世話を焼いた。

近頃のライナは、クロダイと一緒にいない時がない。

ライナがぴしゃりと扉を閉めてしまわない限り、いつの間にかすぐ傍らにいて、にこにことライナを見ている。ひょっとしたらそういう類のおばけなのではないかと思い始めるほどだったが、べつに困ることもなかったので好きにさせていた。


クロダイはライナの身の回りのことをやりたがった。


「ライナ、お腹はすいていない?」

「すいてないです」

「ライナ、新しいドレスはどう?」

「いらないです」

「ライナ、一緒に寝よう」

「一人で寝られます」

「ライナ、ライナ、ライナ」


もっとも、ライナは物心ついた頃には身の回りのことは自分でできたので、具体的にクロダイがしていたことはライナの周りを四六時中くるくる春風みたいにつきまとうことくらいで、つまりはそんなに変わりなかった。


ライナはむやみやたらなクロダイの親切の九割くらいを遠慮したが、なんだかんだとクロダイが尋ねてくることは『ライナがやってほしい』ことというよりも『クロダイがやってあげたいこと』という感じだった。

あんまり続けて断っているとだんだん濡れた犬のような眼差しになってくるので、一度断った後にライナが折れるということが多い。

特にしてほしいとも思ってはいないが、別にクロダイがしたいことがライナのしてほしくないことというわけでもなかったので、好きにさせていた。


ライナとクロダイがふたりで過ごす家はこじんまりとしている。

青紫から薔薇色までの葉っぱをつけた木々が周囲に生えていて、道の目印に置かれた丸石の他は、地面は草に覆われて森の中の草原のよう。


庭の畑にもいろいろなものが植わっている。

ローリエやラベンダー、カモミール、パジル、オレガノ、ローズマリー。

たくさんのハーブを植えて、食べたりお茶にしたりする。辺り一帯を埋め尽くすくらいになっているキイチゴはたっぷりの砂糖と煮詰めてジャムにして、新鮮な小麦で焼いたパンにつけるのだ。

他にも豆やラデッシュなどの野菜も庭にはあったので、ここにきてからついぞ食べ物に困ったことはなかった。


それだけではない。

家の近くには底に石が敷き詰められた綺麗な池があって、なんとそこには水の代わりにジュースが湧いていた。

飲むとチェリーパイとカスタードクリームとパイナップルとローストターキーとトフィーとバタートーストが混じったような、なんとも素敵な味がする。

どれもこれもライナには馴染みの薄い豪華な食べ物だったが、全部二番目の兄のところで食べたことがあった。


二番目の兄?


二番目の兄のことを思い出すと、他にも何かが記憶に引っかかっている気がしてくる。

だけどいつも、ライナがそれがなにか理解するより先に、クロダイが帰ってきて思考はうやむやになる。


ここはまるで、おとぎ話に出てくる善い魔女の住む家のようだとライナは思う。


そう、おとぎ話。


『だいたいおとぎ話の結末なんて決まっている』


『不遇な子や健気な子が幸せになるか、悪者か愚か者が不幸になるか』


そう、それがおとぎ話のセオリー。

大人が寝物語に子どもに聞かせる教訓。


『だから、もしもある日、いかにも『おとぎ話』のようなことがはじまったら』


そして、あなたがハッピーエンドに辿り着きたいなら。


「やることは、最初から決まっている……」


“そう、それなのに。ライナ、どうしてあなたはこんなところにいるの?”


無意識に口ずさんでいた言葉に、真下から返事が返った。

たった今、目が覚めたかのようにぱちぱちと瞳を瞬く。


“どうしたの、ライナ。おばけでも見たような顔をして”


いつの間にか、家を出て歩いてきていたらしい。

目の前には、草原の先に広がる湖がある。

ライナはその湖畔のふちに立っていた。


「……わたし?」


揺れる水面には、ライナが映っている。

そう、それは確かにライナの顔だった。

けれど水面に映るライナは、ここにいるライナと同じ動きをしていない。


「……あなたはだれ?」


“ライナ、あなたはここでの生活が嫌?”


ライナの問いかけには答えずに、水面の中のライナが尋ねる。

ライナは戸惑いに黙りこみ、じっと水面を見つめたが、やがて慎重に口を開いた。


「……嫌じゃない」


“それはどうして?”


何のための質問なのかわからず、ライナはますます困惑する。

けれど、なぜかきちんと答えなくてはならないという気持ちになって、仕方なく考えこむ。


ここでの生活。

それはつまり、クロダイと共に暮らしていることについて。

嫌ではないのは、クロダイはライナの嫌なことをしないから。


“それだけ? 本当に?”


『されたくないこと』をされないからではなく、『してほしいこと』を叶えてくれたからではなく?


水面の向こうで、ライナと同じ顔がじっとこちらを見ている。

いつも、王妃の言葉に『はい、お母様』とそれしか言葉を知らないように答えていた少女。

おしゃべりの相手がいないから、いつも言葉少なで、どういう顔をしていればいいのかわからないから無表情だった。

水面に映る顔は確かにライナのものなのに、ライナならば決して口に出したりしないことを、他でもない自分に向かって問いかけてくる。


“今まで、『ライナ』を一番にしてくれる人はいなかった。けれど、ここではあなたの願いはなんでも叶う”


ライナは最早、水面に映る自分がどんな顔をしているのかわからなかった。

果たして本当に、水面に映る通りの、お決まりの『お人形さん』の表情なのだろうか。


“一番欲しかったものがなんなのかわからなくても、欲しいものすべてが掌のなかにすっぽりと納まっていのなら、一体なんの不満があるの?”


「……不満?」


不満などない。

だからこそ、ライナはどうしたらいいのかわからなかった。


近頃のライナは途方に暮れていた。

ライナは感情を表に出すことが得意ではないため、傍目から見ればいつも通りの『お人形さん』だったかもしれないが、何かを忘れている気がしてならなかった。そうしてそれは、本当は忘れてはいけないことで、他でもないライナがここにいる理由であったはずなのに、どうしてかライナはこうしていることに不満がない。


だから、途方に暮れる。


ライナは突然、二番目の兄の言葉を思い出す。


『今まで、つらかったろう』


あれは、どういう意味だったのだろうか。


食べるものも着るものにも不自由していたこと?


気がついたときにはもう仲の悪かった王妃と父王の間に一人だったこと?


いつも悲しげで不満そうな王妃と、お酒を呑んで酔っ払って寝言のようなことばかり言う父王のこと?


『姫』も『城』も名ばかりとなっている誇りをそれでも忘れてはいけなかったこと?


ライナが育てられてきた時間のすべてが、兄達を救うためだけにあったことをお祝いの日である誕生日に知らされたこと?


ライナは生まれながらに姫だったが、ライナのほとんど唯一の友達である、おとぎ話の書かれた絵本に出てくるお姫様は、大抵ライナとは違った。


一般的な不幸を考えればきりがない。

それくらいは幼いライナにも理解できた。


けれど、自分の置かれた環境が『つらかった』ものかはわからない。

なぜなら物心ついてからというものライナの状況はずっと同じだったし、城の近くにしか出歩いたことのないライナには自分と他の人を比べられるようなこともなかったから。


そして、ライナ自身もまた、とくに『つらい』と感じていると思ったことはなかった。

正確に言えば、考えたこともなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。


自分に兄達がいて、母の嘆きも父の喪失も息子を失ったためだと知っても、ライナの胸に落ちたのは『だから、お母様はわたしを愛さないのか』『だから、父王様はあんなふうなのか』という納得だけだった。


だって他に、なにを思えばいいのかわからなかった。


生まれた時からずっと傍にいるライナより、傍にいない兄達を求める両親。

ライナよりよほど愛されている兄達。兄達のために生まれたライナ。


呪いにかけられていても幸せを見つけられる兄達。

呪いなんてないのに幸せじゃないライナ。


「……幸せじゃ、ない……?」


頭の中に浮かんだ言葉に、自分で驚いた。

ライナは『つらい』と思ったことはなかったが、『幸せ』だと思ったこともなかったのだと気づく。


二番目の兄に言われたのと同じようなことを一番目の兄にも言われた時、ライナの胸に吹いたのは温かい春風ではなく、たとえるならば冬に吹く凍えるような北風だった。


“ライナ、この夢のなかにいるあなたは幸せ?”


水面の向こうのライナが問いかける。


夢、と呆けたようにライナがくり返した時だった。


「ダメだよ、妹よ。彼女に手を出すのはやめてくれ」


背後から抱きすくめられ、持ち上げられたライナの踵が浮く。

湖に身を乗り出さんばかりに前のめりになっていたライナは、それで水面から引き離された。


耳元で、とろけるように甘く、穏やかな声が聞こえる。

ライナは、聞きなれたその声が、似つかわしくない固い音を発するのを聞いた。


「まだ夢の途中なんだ」


“……夢ならば、もう、数百年は微睡んだではないですか”


「ボクはまだ、眠ったままだよ」


遅れて、ぽちゃん、という音。

先程までライナの姿を映して語りかけてきた水面が、投げ込まれた石の波紋によってかき消える。

ライナはそれを、自分を抱き上げているクロダイの手から落ちた石であることを知った。


「クロダイ」


クロダイは、ライナが呼びかけるまで動かなかった。

そうして、ライナの呼びかけにゆっくりと顔を上げると、気まずそうに微笑んだ。


そこでようやく、ライナはあることに気がつく。

気がついてしまえば、どうして忘れていたのかと思った。


それは、ライナがここにきて、すでに六か月余りが経っているということ。


ライナがもうすぐで、八つになるということだった。

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