操られる側と操る側
トカゲは火の中で生きられる。
現代の日本人が聞いたら「そんな馬鹿な」と思われるようなこの話は、ギリシアの少なくとも一部の学者達の間で、なんと約2000年もの間、信じ続けられた。
実験をすれば直ぐにでも間違っている事が分かるのに、誰もそれをしなかったのだ。
――否、していた者もあったのかもしれないが、その結果は社会には受け入れられなかった。
ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスは、弟子が無理数を発見すると処刑してしまったという。彼の信念では、無理数は存在してはいけなかったからだ。
旧ソ連で信じられていた農業のルイセンコ仮説。この説は疑似科学に分類されるほど根拠に乏しかったのだが、この説に基づいた農業が行われてしまい、その結果として凄まじい規模の餓死者を出してしまった。似たような話は中国にもある。毛沢東は雀を害鳥だとし退治してしまったのだが、その所為で害虫が増え、多くの餓死者を出してしまった。
愚かな外国の話だと笑うだろうか?
だが、近年の日本にもこんな話はある。「ない事の証明は極めて困難」という論理学の常識を無視し、「原子力発電所の安全性は科学的に証明された」などという非合理的な話を多くの日本人は信じた。そして、危険性を訴えていた人間達の忠告を蔑ろにし、福島原発事故を招いてしまったのだ。
そして、多くの人を死に追いやり、国土の一部を使用不可能にした。
「……こういうエピソードを観るとですね、人間が合理的な生き物だっていうのは間違っているのじゃないか?ってつい私は思ってしまうのですよ。人間ってのは基本的に馬鹿で愚かで自分の頭では考えない生き物なのじゃないですかね?
だから、馬鹿な宗教に騙されて洗脳なんかされちまうんですよ」
少し酔っていたかもしれない。
都内のバーで偶然居合わせた男との会話が盛り上がり、私はそんな事を話してしまっていた。
迂闊と言えば、迂闊だったかもしれない。
ただ、男に私を怪しんでいる素振りはなかった。まぁ当然だ。その程度で疑う人間はいない。
ただ、男は私の話には同意しなかった。
「果たしてそうですかね?」
そう疑問を口にしたのだ。
「“宗教を信じる”っていうのは、人間の本能の一つだって説があります。食べ物を食べたり、子供を育てたりするのと同じ。その本能により、人間は集団の結合力を高め、強力な組織的な行動が執れるようになるのですよ。
もちろん、その本能にはデメリットもある訳ですけどね。とんでもない内容を信じてしまう。それで、まぁ、宗教を利用した悪徳商売なんかが成り立ってしまう訳ですが」
私はそう言った彼の顔を思わず眺めてしまった。彼は何を思ったのか、「頭の良し悪しとはまた違うのじゃないか?って話ですよ」と説明を加えて来た。
「オウム真理教には、頭の良い人達がたくさん入信していたでしょう? 高名な学者にも宗教を信じている人達はたくさんいますよ。それに脳内麻薬のオキシトシンが分泌されると、人は簡単に騙されてしまうのだそうです。神経倫理学でも時折話題に出るテーマなんだそうですが。
人間はその本能が働いてしまうと、頭がどれだけ良くても“それ”を信じてしまうのじゃないでしょうかね? そういう仕組みを持っているんだ」
妙に衒学な男だ。或いは、学者か何かなのかもしれない。
「なるほど」と私は笑った。
「そして、その人間の仕組みを利用して、うまくやっている奴が世の中にはいるって訳だ。その本能を利用して人間を操っている」
彼は頷く。
「そうです。その通りです」
私はまた笑う。
もし仮にこの男の言う事が正しいのだとすれば、私は操っている側の人間だろう。実は私は自己啓発セミナーを運営している。もちろん詐欺だ。やっている事はインチキ宗教とそんなに変わらない。
今日も生徒達から金を巻き上げてきたところだった。連中は疑いもせず、むしろ有り難がって私に金を払う。愚かな連中だ。私はああいう連中が大嫌いだ。
ところがそれから男はこう言うのだった。
「でも、もし仮に人間の目的が“仕合せになること”なのだとすれば、そういう誰かを操っている人達も単なる犠牲者だと言えるかもしれませんがね」
「は?」
と、私は思わず声に出してしまった。
「“犠牲者”って、何の犠牲者って言うんですか?」
私は誰の犠牲者にもなっていない。
しかし彼はなんでもないように「“遺伝子”の犠牲者ですよ」などと言うのだった。
遺伝子?
「“リチャード・ドーキンスの利己的な遺伝子”
知っているでしょう?
我々は遺伝子の乗り物に過ぎないって有名な仮説ですよ」
私は彼の言葉に何も返せなかった。
「我々にある欲望は遺伝子に操られた結果芽生えたものなのです。そして、その欲望に従って生きたところで、仕合せになれるとは限らない。いえ、むしろ不仕合せになる場合の方が多いのじゃないでしょうかね?
なら、そういう人は、遺伝子の犠牲者だって言えるのじゃないですかね? 遺伝子に操られて他人を騙し、遺伝子に操られて自らをも不仕合せにしていく……
オウム真理教の教祖様はたくさんエッチしていたっていうし、最近では中国で愛人100人とかって偉い人が横領で捕まっていますよ。当に遺伝子の望む通りに動いているって感じです。そしてそれで身を亡ぼしてしまっている。
さてさて。人間というのは…… いえ、生物というのは業が深いものですね」
私は彼の言葉にやはり何も返さなかった。ただし、彼が正しいと思っていた訳ではない。が、それでも、なんだか無性に自分の肉体が憎らしくなってしまっていた……