値引きされていないお刺身なんていつぶりだろう
自宅に着いたのは七時過ぎだった。
いつもは会社にてパソコンのモニターと睨めっこしている時間帯だ。
帰り道の商店街はいつもより人が多く、家族連れで買い物をしている人が目立った。
珍しく早い時間に会社から解放されたので、手のこんだ料理を作ってみようかとスーパーに立ち寄ったら、値引き商品があまりないことに驚いた。
いつも千羽子が帰宅する時間帯は、スーパーの閉店時間とかぶっている。
陳列棚には値引シールが貼られている商品が多いのが千羽子にとって通常の光景だった。
「高いな・・・こんな高いの買えないよ」
心の声だった。
一人暮らしであるがゆえに。節約は必須だった。
実家の岩手の母もあまり頼りたくはなかった。
大学の学費を全部工面してくれたこともあり、親子間でもお金のやりとりは極力避けたかった。
それでもたまにこうして少しだけ贅沢するのも許されるのではないかと思い始めた。
そうだ。
いつもと同じ毎日じゃ何も変わらない。
少しでも変化が欲しい。
そうすることで自分のこうした後ろ向きな気持ちが変わって、明るい未来を見られるかもしれない。
それが例え六百円のお刺身盛り合わせを買うことであっても、千羽子にとっては十分に大きい変化だ。
いつもは残された、誰にも手にとってもらえない商品を買っているのだから。
千羽子は一番身が厚いものを選んで、手にお刺身五点盛りだけを持って、意気揚々とレジに向かった。
洗い物は増えるけれど、今日だけは頑張ってみよう。
そう決めて、お刺身やツマをお皿に移した。
いつもはスーパーで購入したパックのまま食卓に並べて、そのまま箸で食べている。
A4サイズのノートを広げるといっぱいになる小さなテーブルの上に、色とりどりで新鮮なお刺身が並ぶ。
それだけで、心は満たされるようだった。
同期との飲み会も本当に少なくなって、月一回あるかどうかにまで減っていた。
ただ連絡が途切れないことだけが救いだった。
千羽子は醤油皿に醤油とわさびを出してテーブルの前に座った。
どのお刺身から行こうか。
その前にお酒を用意しないと。
今日も節約のためにウイスキーの水割りにした。
お店の飲み放題ではビール一択だが、家では節制をしなければ。
波並とコップに水とアイスとウイスキーを注いで再度テーブルの前に腰を下ろした。
久々に食べたお刺身は心が躍るような美味しさだった。
舌に広がる魚の甘みが凝った心を優しく溶かしてくれる気がした。
お刺身をちびちびとかじりながら、お酒を大量に体に注いでいく。
五点盛りのお刺身盛り合わせを全て食べ切る頃には、すっかり千羽子は酔っ払ってしまった。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。
テレビの小さな音だけが部屋に響いていた。
酔ったままベッドの上に上がっていたようだ。
血管にアルコールが全速力で走る感覚がする。
今日は少し飲みすぎてしまったみたいだ。
久しぶりの値引きされていないお刺身に心踊らせ、勢いも増してウイスキーのボトルは半分から底が見えるまでに量を減らしていた。
ゴロンと横になるとテレビでバラエティ番組をやっているのが何となく分かった。
この時間にテレビを見るのも久しぶりだ。
世の中は自分が知らないところでもしっかり回っていて、自分が知らなくてもしっかりと回っている。
そう考えると切なくなるばかりだったので、気分を変えようとスマートフォンをいじることにした。
帰宅時にダウンロードしたあの出会い系アプリはなぜかどこの設定を見ても通知をオフにできなかった。
そのためディスプレイには消すのが大変なほどの通知が表示されている。
「暇だし、読むだけ読んでみようかな」
特にこれと言ってやることもなかったし、酔った体を動かすのにもう少し時間がかかりそうだった。
であれば惰性であることは十分承知しているが、メッセージを読むくらいは良いかなと思った。
アプリを開くと可愛いピンク色のハートが動いていた。
そういえばこのハートマーク、テレビのコマーシャルでも見たことがあるかもしれない。
広告料を払えるほどの収入を得ているのか。
それはきっとサクラの人が頑張って稼いでいるからなのだろう。
通知をオフにする設定をアプリ上で探しているうちに、このアプリのメッセージ機能を使うには男性だけ課金しなければならないことを知った。
その金額は月額千円だった。
月額千円で恋人ができると考えれば安い出費で必要な投資かもしれない。
しかしできなかった場合、年間一万円も取られるのだ。
月額は千円だが、年間払いもできるようでそちらは一万円ぽっきりだった。
男性はお金を払ってでも、恋人が欲しいのだ。
そう言った人たちがここに登録をしている。
女性は完全無料でメッセージ機能以外のこともお金は発生しない。
真のサクラは女性の方にいるかもしれない。
アプリのホーム画面にはメールマークがぴょんぴょんと飛んでいた。
未読のメールがあるためだ。
メールマークの上には数字が表示されてあって、現在の未読数を表している。
その数は何と五十件。
びっくりするくらいの数だった。
登録して間もないのに、少なくとも五十人の男性が千羽子との連絡を希望している。
何となく五十人の男性に囲まれる自分を想像したが、想像したことを後悔した。
でも、なぜか今は悪い気はしなかった。
お酒のせいもある。
気持ちが昂っていて、どんなことも楽しいと思えてしまう。
考え方を変えれば、五十人の中に一人くらいは千羽子と意気投合する人がいるかもしれない。
五十人の恋人を作ることだって可能かもしれない。
親指で画面をスクロールする感覚は、自分が優位に立って男たちを吟味している感覚に似ていた。
どの人にしようかな、と急に優勢になって千羽子は少しだけこのアプリを気に入った。
少しすると、一件だけ、未読マークがついていないメッセージがあることに気がついた。
それは電車内で見た初めてのメッセージではなく、先ほどきたばかりのもののようだった。
さらによくよく見てみると返信をしてるように見える。
「・・・???」
既読してしまったのであれば仕方がない。
再度見れる権利を得たということだ。
千羽子は恐る恐るそのメッセージをタップする。
すると、初めて見たメッセージと同じように、冒頭に男性からのメッセージがあって、簡単な自己紹介があった。
驚愕したのはその次だった。
千羽子は、いつの間にか返信をしていた。
「え・・・嘘・・・」
しかも最悪なことに、返信内容が不味かった。
『私の恋人になる?』
酔いが一気に覚めた瞬間だった。
いつの間に?
これは私が?
もしかして酔って返したとか?
それにしてもこの内容って・・・
千羽子はいつの間にか正座になって、スマートフォンの画面を凝視していた。
サクラに、連絡を返してしまった・・・
不覚。
その言葉がぴったりだった。
こうして千羽子の出会い系アプリの初メッセージが送られた。