出会い系アプリを始める
「今日も残業だ」
毎日残業だけれども、毎日思って言ってしまう。
残業がない日がレアであるのだ。
「流山さん、今日は残業できない日だよ」
「あ、そうでした」
上司が体を伸ばしながら言った。
そんな上司は残業をする気満々な雰囲気だ。
この会社もいよいよ労働基準法を意識し始めたのか、この春からノー残業デーを言うものが設置されたのだ。
アフターファイブを充実させよう!と言うのが会社のいい文句だ。
家族がいる人は家族との時間を大切にしよう、独身の人は資格取得に当ててスキルアップをしよう、と大きな文字ででかでかと周知文章に書かれたいた。
そんなの人事部のエゴだなと誰もが感じていた。
しかし制度としてある以上は従わなければならないのが会社員だ。
「さあさ、早く帰る支度して」
意外や意外、上司が私の席に近づいてきて急かし始めた。
「え、でもまだやる事が・・・」
「それ急ぎじゃないでしょ。何なら今日くらいなら俺やるし。何?何の業務?」
何だろう。
この気持ち悪いくらいの優しさは。
ノー残業デーに居残りをすると上司の評価に響くのだろうか。
そんな勢いもあって、私は言われるがまま会社を出た。
空が明るかった。
こんな明るい時間に帰るなんていつぶりだろう。
新卒で入社した時の研修以来かもしれない。
夕方六時過ぎの銀座には会社員もそうだが、お洒落な服装をした女性たちが多かった。
夜とは全く違う雰囲気の銀座にどこか心がときめいていた。
しかし、この後どうしよう。
何もやることがない。
趣味という趣味は音楽鑑賞や映画鑑賞などで、いきなりのめり込めるものもない。
何となく電車に乗って帰るのももったいない気がしたので、一旦本屋に行くことにした。
本屋にはたくさんの人がいた。
主婦のような人もいる。
子供連れで来ている人がいる。
この銀座の町にこの時間帯にくる人は一体どんな人なんだろうと想像を膨らませていた。
旦那は一流の商社マンでいずれは海外赴任、
そして奥さんは有名私立大学を出てミスコンにエントリーをしたような美人。
そんな二人の間に生まれた将来有望な第一子。
旦那の帰りを待つついでに本屋でも寄ろうかしら、なんて感じだろうか。
私には一生縁遠い存在だ。
特に目的の本があるわけでもなかったので、月刊の女性誌や料理の本などを何となく眺めて店を後にした。
この後はどうしよう。
明るい時間だし、いっぱいお酒を飲んで帰ってもいいくらいの気分だった。
しかしそんな勇気は私にない。
逆に寂しい気持ちになるかもしれない。
どこにも行く当てがなく、気がつくと銀座一丁目の駅まで来ていた。
セイコーの時計台を眺めてため息をつく。
いつか私だって、幸せになってやるんだから。
カバンから定期を取り出して、ホームへと続く階段を一段ずつ降りていった。
目に入ったのは、一枚の広告だった。
「あなたもきっと会える!アプリで探す恋人」
胡散臭いと思った。
今までもこうした広告はたくさん目にしてきた。
その度に、サクラが儲けるためだけのシステムだと思ってきた。
しかし最近友達がこうした出会い系のアプリを利用して恋人ができたと報告を受けたのだ。
同期の特に仲がいい子だけでグループチャットをしているのだが、その友達のニュースはなかなかに私には衝撃的だった。
割と古風なところが自分にはあったのかもしれない。
もちろん恋愛結婚が一番良いが、お見合い結婚も悪くはないかもしれないと感じ始めた矢先のことだった。
もう、そんな時代になったのか。
でも友達がやっているのであれば、少しは安心できるかもしれない。
それに、今までと同じように生活をしても何も変わらないのは自分が一番分かっている。
毎日こうして家と会社の往復だけでは、自分の幸せは掴めない。
ダメ元でもやってみる価値はあるかもしれない。
ダメという事実がわかるだけでも良い。
「今日、暇だし」
本当はこの理由が大きなものだったかもしれない。
幸にして、不幸にして、今日はたっぷり時間がある。
お酒を飲みながら、時間潰しをしてみるのも良いかもしれない。
そんな軽い気持ちだった。
今度友達のグループチャットでダメだった報告をする想像を勝手にしていた。
ホーム内の無機質な椅子に腰をかけて、広告と同じアイコンのアプリを探した。
私は電車を何本か見送って、駅のフリーWi-Fiでアプリをダウンロードした。
なぜか、心が少しだけ軽くなって、ドキドキしている自分を感じていた。