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さくらが池

作者: テイク

「むかしむかし、北のそのまた北の、人間が近寄れないほど寒~い土地に白鳥の王国がありました。


 そこには数多くの白鳥が仲良く暮らしていました。その王国は白鳥たちのなかでもいちばん強くてえらい白鳥が王様になって治めていました。王国の誰もが王様を慕い尊敬していました。王様のあたまに着けている金色に輝くかんむりを見るだけで、誰もが輝かしくて誇らしい気持ちになるのでした。


 王様には何羽かの王子がいました。みんな王様に似て勇敢で優しい若い白鳥たちばかりでした。みんな王様よりちょっと小さめの金のかんむりをつけていました。


 毎年秋が近づくと湖に氷が張ります。野原が雪で覆われます。


 その日が来ると王様は王子たちに命じてめいめい王国の白鳥たちを引き連れ、遠い南の国へ飛び立つのです。氷が張ると水草や水の中の昆虫が獲れなくなりますし、雪の中に雑草や木の実が埋もれて食べられなくなってしまうからです。食べ物を獲り、新しい命を育むには南の国の温かい湖がもっともいい場所なのでした。


 その若い王子も王様の命を受け、はじめて一隊を引き連れて南に向かうことになりました。


 王様は王子に言いました。


『よいか、王子。お前の役目は二つじゃ。


 一つは、皆を無事に南に誘い、王国まで連れ帰ること。一羽の脱落者もなく、じゃぞ。


 もう一つはこの旅でお前の伴侶を探すことじゃ。お前が相応しいと思う相手を見つけ夫婦となるのじゃ。よき伴侶を連れ帰るのじゃぞ。よいか、わかったのう・・・』」


「ねえ、ママ。はんりょ、ってなに?」


「そうね。アイが大人になって素敵な人と出会って結婚するとするでしょ。そのお相手の人のことだよ。このお話の場合は、王子様だから王女様になるひとかな」


「ふ~ん」


 アイは赤いカチューシャが好きで、お風呂と寝るとき以外はいつもそれを頭に着けていた。


「つづきね」


 さくらはチラと壁の時計を見た。


「幾度も激しい嵐に見舞われましたが、勇敢で優しい王子がそのたびにみんなを励まし、そのおかげでなんとか全員無事に南の国へ着くことができました。王子は長旅を終えて羽を休めるみんなを眺めながら、出発の前に王様から言われたことを思い出していました。


『王子よ。この旅が終わったら、王子たちの中から最も優れた王女を娶ったものを世継ぎにすることにした。王の后となる女王は国のかなめ。わかるな。そのつもりで、立派な伴侶を迎えるのじゃぞ。よいな』」


「かなめ、ってなに?」


「一番大事なところって意味だよ」


「ふ~ん。王様じゃなくてお妃さまの方が大事なんだね」


「ああ、そうか。そうなっちゃうよね。ま、いいか。


 つづきね。


 その言葉を胸に、みんなの安全に気を付けながら、王子は伴侶となる若い美しいメスの白鳥を探し始めました。


 ところが、思いもかけない、事件が起こったのです』」


 さくらはパタンと本を閉じた。


「ハイ。今夜はここまで。後はまた明日ね」


「えーっ! これからいいところなのにィ・・・」


 娘の赤いカチューシャを取り去り枕もとに置くと、さくらは語気を強めた。


「わがまま言わない。もう九時だよ。読みたかったらゲームばかりしてないで自分で読みなさい。ちゃんとふりがなもふってあるんだし。あとで感想文書くんでしょ?」


「ちぇ・・・」


「そういう汚い言葉使っちゃダメ」


「ちぇ、は言葉じゃありません~」


「まったく。小学校上がったらロクなこと覚えて来ないんだから。とにかくもう寝る時間。ちゃんと目覚ましセットして。明日は自分で起きるのよ。いいわね。じゃ、お休みね、アイ」


「おやすみ、ママ」


 さくらは子供部屋を出て行こうとして、クルッと振り返った。


「すぐ電気消すのよ。マンガはなし。見回りに来るからね」


 そうしてぱたんとドアを閉めた。


 ふう~っ・・・。


 


 冷蔵庫からビールを取り出してベランダに出た。そこから見える景色は昼間もいいが夜もまた格別だった。


 大きな池の周りには雑木林があり、さくらのマンションと同じような棟や一戸建てがあり、その灯りが水面に映って星の灯りとコラボする、美しい夜景が楽しめた。





 夫の和也を単身赴任で南の国へ送り出してもう半年になる。


「わたしたちも一緒に行っちゃだめなの?」


「だって、たった一年だぜ。それにアイも小学校に上がる。マンションだって去年買ったばかりだろう。男一人なら安い下宿で済むけど家族一緒となるとヘタなとこ住めないし。アイの日本人学校の手配とかいろいろ物入りになるしさ。こっちのローンと向こうのナンヤカヤでもったいないだろ。月一ぐらいで帰ってくるから、な?」


 しかし、さくらは知っていた。社内恋愛で結婚したから、まだ社内にはかつての同僚が何人か残っていた。


「お宅の旦那、あっちでヨロシクやってるかもよォ・・・」


 三十手前でまだ独身の元同僚は、寿退社したさくらにいつも心をざわつかせる情報ばかりを吹き込んでくる。


「またそうやって話盛って。ワザとイライラさせて面白がってるんでしょう」


「ホントだって。知ってる? あっちの単身用の社宅アパート、スゴイらしいよ」


「安アパートって言ってたけど・・・」


「どこが。お掃除担当と朝晩のお料理担当のメイドさん付きで、単身手当で夜は遊び放題だってよ。たしかにこっちじゃ安アパート程度の金額だけど、円高パワーで豪遊してるのよ。妻子同伴で赴任した人が帰って来てコボしてたもん。連れてくんじゃなかった、って。めっちゃ損した。世の中不公平だって・・・」


「なにそれ! ・・・うそォ・・・」


「嘘だと思ったら、開発部とか総務の他の子たちに訊いてみたら? あんたの知ってる子、まだいるでしょうに・・・」


 念のため、言われた通りに二三の旧同僚たちに確認してみた。話の大小、枝葉末節は異なるものの、大体が最初の情報と同じようなものだった。


 だから、赴任先には来るなって言ってたのか・・・。





 買ったばかりのマンションの立つ住宅地もまた、造成されて間もなかった。急成長する政令指定都市。足りなくなる住宅事情。宅地開発が相次いで計画され、そのさくらの住む住宅地も急ピッチで造成されたうちの一つだった。山は削られ谷は埋められ、どうしても埋め切れずに残った湿地帯が人口の池になったりした。


 そうした新興住宅地に急遽整備新設された小学校や中学校は荒れることが多いという。


 新一年生になるアイを抱えたさくらも学校周辺から伝わってくる不登校や学級崩壊のウワサに頭を悩ませることが増えていた。不安でたまらなくなり夫の和也に相談しても、


「子供のことはキミの担当だろう。こっちは仕事で精いっぱいなんだよ。頼むよ。そっちでなんとかしてくれよ・・・」


 そういいながらいつも逃げてばかりいた。





 その挙句にこれかと・・・。


 アイを産んでからは夫婦の夜もめっきり減ってしまった。夫は向こうで楽しくやっているのに、こっちは子育てとご近所のお付き合いばかり。もうずっと一人で慰めるのに慣れてしまってもいた。





 一体何のために結婚したのか。


 結婚て、なんだろう。





「夫婦力を合わせて幸せな家庭を築いてゆこうね」


 新婚の時に二人で交わした言葉はすでに色褪せかかっていた。


 さくらは美しい夜景の淡い灯りの中で、飲み干したビールの缶をギュッと握り締めた。


 


 数日後。


 そろそろアイが冬休みの予定を書いたプリントを持ってくるころではないか。


 そんなことを思いながらアイの冬のコートをクローゼットから引っ張り出したりして帰宅を待っていると、ママ、ママっ! と娘が息せき切って帰って来た。


「どうしたの。何かあったの? まさかチカンかなんか出たの?」


「違うよォ」


 と娘は言った。


「ハクチョウ! ハクチョウが出たんだって。前の池に」


「ええっ、ウソォ!」


 慌ててベランダに出て広い湖面を見渡したが残念ながらカラスはいても白い大きな鳥の姿は見えなかった。


 住宅地の西にはまだ、昔そのままの丘陵地帯が広がっている。恐らくは誰か子供がそこから来たサギを見間違えたのかもしれない。


 でも、いい機会だ。子供が野鳥に興味を持つのは悪いことではない。


「それ、ママも見たかったなあ。どこかにパパの双眼鏡があったはず。それで見ればバッチリだよ。アイ、一緒に探してくれる?」


「ウン! 双眼鏡持って一緒にタタリ池に行こうね、ママ」





 タタリ池。


 そんなオドロオドロしいのはもちろん正式な名前ではない。


 マンションを買うときに不動産屋から造成地図を見せられたが、目の前の池は、


「○○造成地第3号貯水池」


 という無骨な名称だった。造成の過程で、どうしても埋められない、住宅やマンション建設には不利な湿地帯を雨水の排水先として池にしたのだろう。あまりにも急いで造成してマンション建設が始まったので、池の名前まで気が回らなかったんだろうと思われた。


 それでは無粋すぎるというので周辺のマンションや住宅地の人々が集まっては、


「希望ケ池がいい」とか、


「霞ケ池」とか、


「この住宅地の名前を取って『ひばりが池』がいい」とか、


「カラスばかりでヒバリもいないのそれはおかしい」


「じゃあ、カラスが池か? 余計わるいわ!」


 などと喧々囂々やっている間に、付近の子供たちが勝手に「タタリ池」と呼び始めた。


「その池に近づく時は絶対に偶数の人数で行ってはいけない。割りきれるから妖怪が出て来て切り殺される」とか、

「奇数で行っても割り切れなかったあまりの子が池に棲む妖怪に引きずり込まれて溺れて死ぬ」とか言い始めた。


 その、「じゃあどっちなんだよ」と言いたくなるような脈絡の無さからして、大方割り算を習うころの三四年生辺りから生まれた「学校伝説」なのだろうと思われた。


 ところが、大人たちが池の名前でもたもたしているうちに、あっという間に「タタリ池」の名前のほうが各家庭の子供を通じて広まってしまった、というわけなのだった。


「ひばりが池」と聞いて、ハテ、と首をかしげる人がいても、


「タタリ池」と聞けば、


「ああ、あの池か」と誰でもわかるようになってしまって久しい。





 白鳥が飛来したのは、そんな「タタリ池」だった。





 そうなると黙っていられないのがこの地区の町内会長だった。


 まだ「一羽見た」というだけの情況で、


「いやあれはサギの見間違いではないか」というような慎重な意見も全て無視し、


白鳥はくちょうが池、もしくは、しらとりが池。そのどちらかにしよう」


 などと言いだし、強引に町内の意見を集約し始めた。


「タタリ池」では人が怖がって敬遠する。土地の値段が下がって資産価値が目減りしたらどうする、というのだ。


 それだけではなく、白鳥の飛来情報を確認するためボランティアで「バードウォッチング班」を募り始めた。なんとしても無理やりにでもこの「白鳥伝説」にしがみつき、少しでも財産価値を高めたいという魂胆がミエミエだった。


 定年して昼間時間のある人。専業主婦がなり手として挙げられた。さくらも声を掛けられた。そんなのに巻き込まれるなんて冗談ではないと思っていたが、真正面から断ると近所付き合いが難しくなる。


「うちはまだ小さい子供がいるので双眼鏡でベランダから監視します」ということにして難を逃れた。


 そんな言い訳をした手前、日に一二時間くらいはベランダに出なくてはならなくなった。もし出なければ、


「三番館の506号室の奥さんは今日はベランダに出ていなかった」


 などとと誰かに余計な告げ口をされかねない。面倒なことこの上もなかった。


 そんなわけでベランダに椅子を出し、干した洗濯物の陰でお昼のサンドウィッチを摘まみながら双眼鏡を睨む日々が続いていた。





 その日々が、ある日突然、終わった。


 最初の一群を発見したのは、池のほとりにキャンプ用の折り畳み椅子を出して空を見上げていた町内会長だった。言い出しっぺだけに、もしガセネタだったらと気が気ではなかったのだろう。


「二時の方向。三羽飛来を発見。手の空いている人は確認してください」


 バードウォッチング班グループラインで会長のメッセージが飛んだ。


 二時ってなによ。北東ってこと?


 さくらのベランダは南向き、六時の方向だから死角だなと思っていると、まさに目の前を大きな真っ白い翼を広げた白い天使がとてつもない至近距離で横切り、池の周りを何周か巡った後に、ぐわっと羽を広げ、水かきを突っ張って、すーっと池に舞い降りた。


「キターっ!」


 グループラインで注意喚起された人々のだろう、その池のあちこちから歓声が響きマンションの壁にこだました。


「しー。お静かに。鳥が驚きます」


 町内会長から追加のラインが届いた。


 お前が確認しろと言ったんだろうが!


 誰もがそう思ったろうが、そんなことを書く者はもちろん一人もいなかった。


 白鳥たちは次々に飛来した。総勢で二三十はいるかも。自前のカウンターを持ってきてカチカチやる人もいた。


 それは荘厳な眺めだった。


 比較的大きな池とはいえ、こんな住宅密集地にこれほど多数の個体が飛来する光景など初めて見る者がほとんどだった。信じられないと誰もが思った。


 会長は手回しが良過ぎた。次の日にはもうTV局や新聞記者が訪れて、池の白鳥をバックに写真やVTRを撮らせる町内会長の姿があった。おまけに専門の先生まで呼んでいた。


 一号館の集会所に「バードウォッチング班」が招集されて白鳥の生態についての講習まで受ける羽目になった。


「オオハクチョウはシベリアの北方、北極圏のツンドラ地帯に生息しており、大体十月から翌年の二月三月まで日本に滞在し、いくつかの家族で群れを作り、越冬地でも家族ごとに縄張りを作り生活します」


「エサは水草や雑草です。たまに水中の虫や植物のタネなどを食べます。各地の飛来地では地元の人がお茶ガラを与えるところもあるようです」


「お茶ガラって、あのお茶を飲んだ後の、急須の、アレですか」


「それ以外にお茶ガラはないと思います」


 その先生があまりに真面目に答えたので、誰かがクスッと笑った。


 それを睨みつけながら、町内会長が立ち上がった。


「みなさん。各マンションと一戸建てに回覧板を回してお茶ガラを回収すると知らせましょう。皆さんには回収とお茶ガラの乾燥をお願いしたいと思いますが」


 えーっ?


 低い不満のつぶやきが上がった。


「すでにTVや新聞などで全国の注目を集めているんですよ。是非お願いします」


 お前が勝手に呼んだんだろうが。


 その場にいた誰もがそう思った。


「だったら、全部のお宅で持ち回りにしましょうよ。監視だけならともかく、残飯集めはイヤだなあ」


「残飯ではありません。お茶ガラです」


「それに今はお茶を飲む家も少ないです。定年でリタイアされたお宅だけで担当いただけないですか。ボクん家、コーヒー派なんで。お茶ガラ出ないんです」


 ・・・


 バカバカしくなって「娘が帰ってくる時間なので・・・」とその場を辞した。


 気分を変えたい。


 一号館の建物を出て、タイル張りのデッキを降り、タタリ池の上に張り出しているウッドデッキに出た。優雅な白鳥でも見て心を穏やかにしよう・・・。


 すると間もなく一羽のひときわ大きな鳥が水面を滑って寄って来た。


 エサをねだろうというのだろうか。ずいぶん人懐こい白鳥だなと思った。


 彼だか彼女だか知らないが、その鳥はあるところまで来るとさくらをジッと見つめるような風を見せ、プイと横を向いた。


 なんだろう、この鳥の、この態度。失礼しちゃうわ。


「ははあん。あなた、見染められたようですよ。ひょっとするとアレはオスかもしれませんね」


 さきほど講義をしてくれた先生がそばに来ていた。きっとさくらと同じで会合の議論のくだらなさに愛想をつかして出てきたものだろう。野鳥好きの人らしく、白髪の上に茶色のベレーを被って茶色いシャツとジャンパー。細い眼をしばたかせながらニコニコしている。


「どこを見れば性別がわかるんですか?」


 興味が湧いて尋ねた。


「パッと見ではわかりません。繁殖のときに眼と眼の間にこぶが出たりとかしますが。たいていはつがいでいるとき、大きな方がオスです」


「ではなぜあの鳥がオスだと?」


「あなたのような美しいひとを見つめてるからです」


「ちょっと、先生・・・。お上手が・・・」


 先生はガハハと笑った。なかなかスミにおけない、油断のならないおじいちゃんだ。そんな冗談を聞いている間も、その「彼」は横を向いたままじっとしている。


「鳥は人間でいうとこめかみのあたりに眼があるでしょう。相手を見つめたいときはソッポ向くようになるんです」


「ああ、そういうことかあ・・・、じゃ、今にらめっこしてる感じなんですか?」


「にらめっこというよりは、ほら、あなたを見つめていますよ。じーっと・・・。あなたを奥さんにしてシベリアへ連れて行ってしまおうとしてるんじゃないですかね」


「あはは。じゃこれ、ナンパですか」


「たぶん、そうですよ。だから『オス』だと言ったんです」


 その先生に言われなければ気づかなかった。


 言われてみると、「彼」はあいかわらずソッポを向いたままだったが、さくらと目が合う度にうんうん、うんうんと頷くように、何度も羽を広げそうな気配を繰り返しては水面に波紋を広げていた。さらによく見ると頭の上の方に微かに、シャンプーのコマーシャルで見る「天使の輪」のような金色に光る細い帯のようなものがある。それが他の仲間の中にいる時の「彼」を見分ける目印になりそうだ。


「これは貴重なデータですよ。今まで最南端の飛来地は兵庫県の加西市、あるいは琵琶湖周辺だとされてきましたが、それよりさらに南で、しかもアルプスを越えて来てます。おっつけウチの研究室の学生が撮影機材をもってやってきます。さっき町内会長さんとマンションの管理会社さんにも許可をいただきましたのでね。今日から彼らが帰るまで、ここに交代で貼りつくつもりです。いやあ、昂奮しますねえ・・・」


「大学の先生でいらしたんですね」


 先生はニコと笑い、


「あなたと『彼』との関係も観察させていただいていいですか。そっちの方がもっと貴重な資料になるかもしれませんねえ。おもしろいですねえ。野生の白鳥が人間の女性に恋をするなんてねえ。ははは・・・」


 先生の冗談に思わず赤面してしまったが、ふと「彼」の方を見たら、もう仲間のところに戻ってしまったのか姿は消えていた。


「白鳥の夫婦愛は強いですよ。オスは一度結婚して旦那になると、どんなに他のメスに取り囲まれようと必ず奥さんを探し出して一緒にいようとするんです。そうして二人で再会を喜び合うんです。人間なんかよりもはるかにパートナーに誠実なんですよ」


 まさか先生の冗談を真に受けるわけはなかったが、部屋に戻ってからもその言葉が頭を離れなかった。


 白鳥の夫婦愛は強いですよ。人間よりもはるかにパートナーに誠実なんです・・・。


 あまりにもボーっとしすぎていてアイが帰って来たのもわからなかったほどだ。


「ママ、どうしたの」


「うん。あのね、ママね、白鳥さんにナンパされそうになっちゃった」


「なんぱ? なにそれ」





先生のスタッフたちは一号館の集会所に間借りして寝泊まりし、交代で池の周りの観察ポイントに張り付き始めた。白鳥たちは朝、近くの田んぼや野原に朝食を摂りに行ったりしても夕刻には必ず池に戻って来た。そのうちに家族ごとに雑木林と池との間の草地の中にねぐらを作り始めた。先生の研究室の学生たちとさくらを含めた「バードウォッチング班」の人たちがその周りにバリケードを築き、不心得者が縄張りを侵さないように配慮したりした。



「いやあ、コブハクチョウが人に慣れているのは例がありますが、オオハクチョウでこれほどの接触はこれまでで初めてじゃないですかねえ。貴重です。本当に貴重なデータですよ」


 時たまにやって来る先生はそんなふうにみんなに語った。


 このまま来年の春を迎えて白鳥たちが無事に北に帰ってゆくのを近くに住む誰もが望むようになっていた。





 ところが、事件は起きた。


 朝、観察ポイントに向かった先生のスタッフの学生が身体に矢を刺されている個体を発見したのだ。


 その痛ましいニュースは池の周辺のマンションや住宅地に瞬く間に知れ渡った。


 急遽先生が呼ばれ、先生の指示で専門の獣医師が来て捕獲作戦が開始された。


 けがをしている白鳥は矢が羽を貫通しているため飛ぶことができない。水面にいる他の個体を刺激しないように切り離し、単独にしてから水深の浅い場所に誘導し、二人のウエットスーツを着たスタッフの待ち構えるほうへ追い込み、特殊な薬剤を散布して神経を麻痺させ、暴れて翼を傷めないように細心の注意をはらいながら無事捕獲に成功した。


 その様子を付近の住民たちは固唾を飲んで見守り、無事捕獲された瞬間、池の周りから抑えた歓声と拍手が沸いた。大声を出すと鳥が驚く。それをすべての住民が徹底して守っていた。


 さくらも捕獲された白鳥を見た。急に胸が締め付けられた。


 その傷を負った白鳥は、頭にあの、金の「天使の輪」があったのだ。


「ママ、あの鳥さん助かるよね」


 娘は赤いカチューシャの下の目を不安気に瞬かせた。


「偉い先生たちが揃ってるから、きっと大丈夫よ」


 いささか興奮しながら、さくらも願いを込めてそう言った。


 すると、またあの「グループライン」が来た。


 一号館の集会所に集まると、


「みなさん。これから自警団を組織して夜間の警備に当たろうと思います。ご協力をお願いします」


 会長は怒っていた。


 だれも異論をさしはさまなかったから、みんな思いは同じだったのだろう。「お茶ガラ」の時には文句を言ったコーヒー党の人も率先して、


「主に男性で組織しましょう。比較的時間の自由の利く人をペアにして。それに冬季でもありますから体調に不安のある方は除いて。この際ですから子供にも影響がある可能性を考えますと警察にも協力を仰ぐべきでは?」


 もう、土地の評価額とかなんとかよりも、みんながみんな同じように、白鳥たちを守るために自分たちに何ができるのかを考え、実行に移そうとしていた。


 さくらもアイを寝かしつけた後や、朝少しだけ早起きして懐中電灯と夫のチタンドライバーを手にパトロールに加わった。もうこれ以上一羽たりとも犠牲を出したくなかった。遊び半分でこんなに可愛い鳥たちを撃つなんて許せない! 誰もがそう思っていた。


 そんなふうに何日かが過ぎていった。白鳥たちはあんなことがあったにもかかわらず、特に動じた風もなく日々を過ごしていた。


 さらにしばらくして怪我の癒えた白鳥が車に乗せられて戻って来た。まだ飛べるかどうかわからないということだったが、奇跡的に内臓に損傷が無かったので、あとは自然治癒力に任せようという話だった。野生の鳥は人間の傍では警戒してエサを食べない。ずっと人間の傍に置くと餓死してしまう。ひとまずは池に戻して、お茶ガラなどを与えながら様子を見ようということだった。


「でも、あんなにひどいことをされた割には、あの子はおとなしくしてますね」


「わかるんでしょうね。いい人間と悪い人間とが」


 人々は口々にそう言い合っては白鳥たちを温かい目で見守り続けた。さくらも毎日群れの中にあの「天使の輪」を頭に戴いた鳥を見つけてはホッと胸を撫で下ろしていた。





 さくらが何度目かの見回りに出た年の瀬も近い夜のことだった。


 ペアになったのは同じマンションのどこかの階のおじいさんだった。こんなことでもなければ、親しく口を利くこともなかったかもしれないと思うと、不思議な気持ちになった。


「じゃあ、お互いに無理しない程度に。何かあったらLINEか呼子で。それでは」


 三号館の前で別れ、おじいさんはお年なので歩きやすいデッキのあるほうを、さくらは池の周りの遊歩道伝いに雑木林のあるほうを懐中電灯を頼りに歩いて行った。


 周囲にマンションや一戸建てのある池だ。完全に暗闇ではなく、懐中電灯が無くても足元は見えた。だが持っていると牽制や威嚇になる。極力池を照らさないように注意しながら足をすすめた。


 雑木林に差し掛かったところで何かの気配を感じた。左手には営巣地を守るバリケードがあり、その気配はそれと反対側、雑木林の中に、暗がりから感じた。懐中電灯を向け、呼び子を握った。


「誰ですか! 返事してください。人を、人を呼びますよ。・・・返事しなさい!」


 返事がない。空振りで笑われてもいい。もしかすると比較的身体の小さな若鳥狙いのタヌキかもしれない。今にも呼び子を口に咥え、吹こうとしたその時、



「・・・待って。・・・待ってください」


 疲れたような、弱々しい男性の声だった。


「誰ですか? そこで何をしているんです」


「すいません。・・・ケガをしていて、動けないんです」


 声のするあたりに懐中電灯を向けながら、自分の声を励みにそこへ近づいた。


「どこです。どこにいるんです」


「ここです。明かりを消してもらえませんか。そうすれば、わかります」


 消した途端に飛び掛かって来るのではとも思ったが、論理的におかしいとも思い、言われたとおりに懐中電灯のスイッチを切った。


 すると一瞬だけ、雑木林の向こうの家々の灯をバックにして白鳥の姿がシルエットになったような気がした。


 シルエットが消えてしまうと、そこに若い男性が横たわっているのが暗闇に慣れた眼に映った。


「まあっ! どうしたんです。大丈夫ですか?」


「すみません。ちょっと、うっかりして、ケガをしてしまって・・・」


 その若い男の服装はあまりにもその場に似合わないものだった。真っ白なスリーピース。真っ白なエナメル靴。どこかの金持ちの家のボンボンがクラブの帰りにケンカでもしてやられたのか。そんなストーリーが似合いそうな風体だったのだ。


 よく見ると、ベストの腹の部分に血が付いている。


「あなた、ケガしてるじゃありませんか!」


「ええ。ですので、さっき申し上げました。ケガをしている、と」


 なんか、言葉のやり取りが可笑しかった。ふと顧みると自分もおかしかった。ケガをしていると言っている人に、ケガしてるじゃないですか、なんて・・・。


「救急車呼びます」


「それはやめてください。しばらく寝ていればなおります」


「でもこんなところで。凍死したらどうするんですか。それに止血しないと」


「血はもう止まりました。仲間たちもこんなふうに眠りますから、平気なんです。お願いですからそっとしておいてくれませんか」


「何を言っているんですか。バカ言わないでください。こんなケガして、こんな場所で、しかもそんな恰好で。見過ごせるわけが無いじゃありませんかっ」


 さくらは青年のそばに寄った。何かコロンをつけているのか、青年からは不思議な香りがした。気が遠くなりそうな、気持ちのいい甘い香りだった。


「とにかく、ここじゃダメです。温かい所に行かないと・・・」


「・・・わかりました」


 と、青年は言った。


「では、あなたのお部屋に連れて行ってください。少しなら、歩けますから」


 そこで、グッと詰まった。


 え? と。


 さくらは単身赴任中とはいえ夫のいる身だ。その夫の不在中に・・・。


 でも、彼は見たところ重傷を負っている。病院には行きたくないし救急車にも乗らないという。何かの事情があるのかもしれないが、冬の最中、雑木林の叢のなかで寝ていれば治る、なんて。そんなバカげたことを見過ごせるわけがない。何か理由があって人目を避けているのだ。もしかすると犯罪者だろうか。だから人目を避けるのだろうか。でも犯罪者がこんなハデな恰好で雑木林に寝たいなどと言うだろうか。さくらに見られたら普通は通報を恐れて逃げ出すかその場でサクラの口を封じる、つまり殺してしまおうとするのではないだろうか。ということは彼は犯罪者ではないのでは? 普通には見えないが、とにかく罪を犯している人ではない。そんな人を放っておいて死なれたらどうするか・・・。


 あまりにも夢見が悪すぎる。それに、これも何かの縁だ。


 それに・・・。


 近くで見る彼は、TVタレントや俳優やモデルばりの好男子、イケメンではないか。


 さくらの逡巡は一瞬にして吹き飛んだ。


 そのせいか、思い悩むポイントが、なんか、ズレた。彼をどうするか、ではなく、どうやって彼を部屋に入れるか、に。もう部屋に入れるのが前提になってしまっていた。


「少しなら歩けると、おっしゃいましたね」


「はい。飛べませんが、歩けます」


 やっぱり、この人はなんか、どこかおかしい。ひょっとして、クスリか? クスリでブッ飛んでいるからだろうか。だから「飛べません」なのか。そう思いつつも、手を差し伸べていた。彼の手は、死ぬほど冷たかった。思わず引っ込めそうになった手を辛うじて耐えた。


「こんなに冷え切って・・・。死んでしまいますよ」


「わりと平熱ですけれど。飛べばあったまりますから」


「・・・」


 もういい。


 もういちいち反応しないことにした。今からさくらがしようとしている行為は人道的行為だ。この人はケガをし、恐らくはそのケガのために精神がおかしくなっている。


「別に、おかしくはないですが」


「え?・・・」


 肩を貸して家々や街灯の灯の下に出た彼の髪の毛を見て驚いた。アルビノ? 俗にいう「白子」なのか、あるいは見た目の年齢よりも実は歳を取っているのか、彼の服や靴と同様、真っ白だったのだ。しかも前髪のひと房に金色のメッシュが入っている。


 あまりにもじーっとその髪に注目していたせいだろうか。


「どうしました?」


 と訊かれた。


「・・・いえ、別に」


 彼と一緒にマンションのエントランスを入ろうとしてハッと気づいた。


 こんなところを他の住人に見られたらどうしよう・・・。


 迂闊にもそれを考えていなかった。一軒家ではないのだ。エントランスだけではない。エレベーター。共用廊下。時刻はまだ12時前。これから帰宅してくる住人も多い。


「弟です」


「甥です」


 それがこの真っ白けっけなのは、どうしてか。


「ハロウィンの仮装です」


 それはもう過ぎた。


「学芸会の・・・」


 無理。


「彼の会社の宴会の・・・」


 ほう、結構な会社にお勤めで、はは・・・。


「実はちょっと病気で・・・」


 服は?


「ちょっと変わった趣味が・・・」


 どんどんレアでマニアックな方向に向かってしまう。どうしよう・・・。


「大丈夫ですよ」


「え?・・・」


 さっきもそうだったが、この人はさくらが何も言わないのにまるで心の中を読んでいるかのように反応してくる。こわい・・・。


「怖くありませんよ。自然なことです」


 それが怖いんだよ・・・。


「あ、奥さん・・・」


 飛び上がるほどに驚いた。


 エレベーターホールで恐れていたことが起こった。下の階の「バードウォッチング班」の旦那さんだ。ジャンパーにマフラー。そして懐中電灯を持っている。さくらと交代でこれからパトロールに出るのだろう。絶体絶命。もう、そのままのことを言うしかない。


「・・・どうも」


「ごくろうさまでした。何か変わったことは? 」


「え?・・・。あ、あの、特には・・・。あの、この方はそこの雑木林で・・・」


「この方?」


「え?」


「・・・あ、じゃあ、これからわたしも行ってまいりますので。おやすみなさい」


 あれれ?・・・。


 旦那さんはそのままスタスタとエントランスに向かって行ってしまった。


「ね。大丈夫だったでしょう」


 と、彼は言った。


 もう、訳が分からない。この人と居ると急速に頭がおかしくなってくる。それなのにこの得体のしれない若者とエレベーターに乗り、絶対不可侵のはずの部屋に招き入れようとしている。この人はケガをしていて、病気で、この寒空に、こんな薄着で、しかも雑木林の中で寝るなどと途方もないことを言う。そんな人を放って置くなんて出来ない。救急車もイヤ、病院もイヤ。交番は? そう言えばまだ訊いていなかった。でもきっと結果は一緒だろうな・・・。


「はい。交番にも行きません」


 ほら・・・。こういうふうに、また怖いことを言う。


「怖くないですよ。あ、人が来ましたよ」


 エレベーターを降りて共用廊下を歩いていると隣の部屋の旦那さんに出くわした。もう、万事休すだ・・・。


「あ、奥さんこんばんは。ご苦労様です」


「・・・どうも」


「バードウォッチング班じゃないんですが、わたしも自発的に見回ろうと。仕事が忙しくてさっき帰ったばかりなんですが、息子にせっつかれましてね。お父さんも見回りしてってね。及ばずながらご協力させていただきます」


「あ、ありがとう、ございます・・・」


「じゃ、お休みなさい」


 旦那さんはそう言ってスタスタ行ってしまった。


 さっきの下の階の旦那さんもそうだが、みんなこの人が見えないのだろうか。こんなにめちゃハデな、クラブで遊びまくってそうな、クスリでもやってそうな人がいるのに。


「あなたにとって、わたしが人間に見えているのと同じですよ。自然なことなんです」


 またヘンなこと言う。人助けしただけなのに、どっと疲れてしまった。


「大丈夫。あなたも慣れます。


 でも、わたしの目は正しかった。このマンションの人たちはみんないい人ばかりだ。この池を選んだのは大正解でした」


 もう、何が何だか・・・。


「着きましたよ」


 気が付くと、部屋の前まで来ていた。


 とりあえず彼を部屋に入れ、ソファーを勧めた。が、彼は床に直接腰を下ろした。彼の言う通り、出血はもう止まっているようだ。


「いちおう、見せてもらっていいですか?」


「どうぞ。自分ではできませんので、ボタンを外してもらっていいですか」


「・・・はあ」


 もう、いちいち疑問を持つのに疲れてしまった。でも傷口を確認しないことにはここまで連れて来た意味がない。


「じゃ、失礼しますね」


 三つ揃いのベストのボタンに手をかけ、その下のシャツをはだけ、ベストとシャツを貫通した凶器が傷つけた痕を確かめた。


 驚いたことに、その痕はちゃんと治療してあった。傷口が縫われ、消毒のための薬剤まで塗ってある。


「親切な先生のおかげで命を拾いました。とても感謝しています。でも傷から入った毒が少し残っていて、先生に注射してもらった薬が効くまであそこで横になっていたのです。そこにあなたが通りかかって・・・」


「・・・そうでしたか」


 そう言うより他なかった。もう理解しようとする努力を放棄した。これ以上この人と居ると頭がおかしくなりそうだった。


「ご迷惑でしょうが、せっかくお招きいただいたので、少し寝かせてもらってもいいですか。なんだか、とても眠いんです。あなたに匿ってもらって安心したせいかもしれません。先生のところでは緊張してしまって寝られなかったものですから・・・」


「・・・じゃあ、ソファーを使ってください」


「いいえ。床の上で結構です。そのほうが、落ち着くので・・・」


「そんな・・・。お客様にそんなところで寝ていただくわけには・・・。


 そうだ。せめてお風呂に入ってください。帰ったら入ろうと思ってまだボイラーを止めていないんです。充分温かいと思います」


「わたしの国ではお風呂に浸かる習慣がないんです。行水なら毎日しているんですが」


「じゃあ、行水でもなんでもいいですから、とにかく・・・」


 言葉がうまく出なかった。彼も察してくれたらしい。気持ちを察するのは得意そうだった。思っただけで伝わってしまうなんて、初めてだ。夫には思っててもなかなか伝わらないことが多いのに・・・。


「お気の毒ですが、それはきっと、旦那さんと心が通じ合っていないのでしょうね。


 ・・・余計なことを言って申し訳ありませんけど・・・」


 そう言って彼はバスルームに行った。


 それを見送り、しばし意識を飛ばしていた。無意識にほっぺたをつねった。マジで、痛かった。


 と・・・、


「あの・・・」バスルームから声がした。


「は、はいっ!」


 慌てて行ってみると、脱衣所で彼が立ち尽くしているではないか。


「あの、わたしは一向にかまわないんですが、服を着たままだと水が浴びれないと思うんです。脱がせていただいてもいいでしょうか」


 水を浴びる・・・。脱がせる・・・。ふたたび思考を停止させねばならないようだ。うん。それしかない。この人は、なんか、ちょっと、違う。普通と、だいぶ違う。


「わたしの国では、これで普通なんですがね。だいたい、生まれてから一度も服を脱いだことが無いんです」


 ああ、もうダメだ。頭がおかしくなる・・・。そんなことを考えているときっと大丈夫ですよ、とか言われるんだろうなあ・・・。


「そうです。大丈夫ですよ。だんだんわかってきていただけたみたいですね」


 嬉しそうに彼は言った。


「ボタンを外すのが苦手なんですよね。そうなんですね?」


「ハイ。生まれてから一度も外したことがないもんですから・・・」


 うん。思考停止だ。それでいこう。


 それしかない・・・。


 さくらは彼に傅いてジャケットを脱がせベストを脱がせシャツのボタンを外し、ベルトを外し、スラックスのボタンを外し、ジッパーを下ろした。


 当然だが、いささかヘンな気分になって来た。


 さくらは人妻で、単身赴任中だが夫がいて、その夫不在の家で、夫とは別の若い男性の服を脱がしている・・・。


「ここまでで、いいですか・・・」


「はい。後はなんとかできそうです。ありがとうございました」


 そう言って目の前でさっさと脱ぎ始めたので、慌てて視線を逸らし脱衣所を出た。バスルームのドアが開けられた時、チラと一瞬だが好奇心に駆られ振り返ってみた。


 真っ白い、女性のような肌なのに、背筋の盛り上がりがスゴかった。服の上からではわからなかったが、肩の幅もウエストの倍はあった。完全な逆三角形。二の腕の筋肉もお尻の筋肉の盛り上がりも夫とは比べ物にならないぐらいのものだ。ラグビーとかボディービルとか、なにか特別なエクササイズをしないとああはならないのではないだろうか。


 ドキドキしてしまい、リビングでお茶を飲もうとして急須や湯飲みを取り落としたりしているうちに、あること伝えるのを忘れたことに気づいた。


 もう一度脱衣所に行きドア越しに呼びかけた。


「あのー・・・」


 がちゃ。


「・・・なんでしょう」


 目の前に全くの無防備状態の裸体が披露されて心臓が止まりそうになった。


 完璧以上の腹筋。ボコボコに割れていた。それにあの胸の筋肉。ターミネーターかと思った。体脂肪率は間違いなくヒトケタ台に違いない。そしてやはり目があの下半身に・・・。


 すぐに目を伏せたが、バッチリ、見てしまった。


 それは反則だ。反則としかいいようがない。夫を単身赴任で送り出している身にはあまりにも目の毒だった。あんな逞しいお持物、はしたないことこの上ないが、夫とは比べ物にならず、これまでさくらの見たお持物の中でも逞しさで群を抜いていた。


「あ、あの、その籐の棚の一番上の引き出しに、夫のパジャマが入っています。それから下着はここです。まだ下ろしていないのをお使いください・・・」


 目を逸らしつつ、そう伝えて脱衣所を出た。


「ありがとう」


 彼は爽やかに微笑んでドアを閉じた。


 リビングに逃げ帰るさくらを追うように彼は戻って来た。ちゃんとパジャマを着ていた。ただし、ボタンを嵌めずに。胸筋と腹筋のモコモコが、眩し過ぎた。


「あ、え、・・・もう? もう済んだのですか」


「はい。ありがとうございました。温かいお湯というのは生まれて初めてでしたが、なかなかいいものですね。わたしの国にもあるとみんなが喜ぶでしょうね」


「あの、もしかして、浴びただけですか?」


「はい!」


 そう言ってニコニコ笑う彼に、もう何かを言う気力が一切失せていた。さくらは黙って彼のパジャマのボタンを嵌めてやった。あの甘くて不思議な香りがリフレッシュされて香って来ていた。頭がクラクラした。こんな香りのソープは置いていないし、どこにもコロンの瓶など持っていなさそうだったのに。これが彼の体臭だとすると、あまりにも素敵過ぎる。


「じゃあ、わたしもお風呂を貰います。恐縮ですけど、そんなところでよろしければそこをお使いください」


 早くもカーペットの上にゴロンと横になって丸く蹲っている彼にそう言った。


「いろいろ、ありがとう。やはりあなたは、わたしの思っていた通りのひとでした」


 あ・・・。大事なことを訊くのを忘れていた。


「あ、あのう、お名前伺うのを忘れてました。わたしは・・・」


「さくら、ですよね」


 やっぱりか・・・。もう、いいや・・・。


「・・・はい」


「わたしはオウジです」


「ああ、あの王子駅の王子ですか」


「はい。王子です。あの、この灯り真っ暗にしてもらってもいいですか。そうじゃないと眠れないもので」


 さくらはテーブルの上のコントローラーで明かりを消した。


「ありがとう。おやすみなさい」


「おやすみなさい・・・」





 温かい湯舟の中で、さくらは湯気の籠る浴室の天井を見上げていた。


 このたった二時間にも満たない間に、不思議がてんこ盛り状態で、脳が追い付かなかった。


 マンションの住人には彼が見えない。


 こちらが思っていることは全てわかってしまう。


 お腹に傷を受けていたが、傷はちゃんと治療されて、治癒に向かっている。


 それらの事実は全て理解不能としか言いようがない。もしかすると、彼は・・・。


 だが、この二十一世紀の世に生き、小学一年生の娘を学校に通わせている母親としては受け入れがたい事実だ。もし娘が同じことを訴えて来ればきっとさくらはこう言って娘を叱るだろう。


「なにバカなこと言ってるの。それはお話しでしょ。フィクション。作り話なの。くだらないこと言ってないで、宿題済ましちゃいなさい!」


 しかし、彼のあの甘い香りを嗅ぐと、そんな些末な現実や事実などどうでもよくなってしまう。それもまた事実だった。


 それは作り物。VR。ヴァーチャルリアリティ。現実にはありえないもの。それが判っていても、わたしたちはそれを現実のものだと認識してそれを楽しんだり恐れたり感じたりする。それと同じなのではないだろうか。


 たぶん、彼のあの甘い香りが麻薬のような作用を産み、自分に架空の世界をあたかも現実であるかのように見せているだけなのかもしれない。


 傷も癒えていることだし、夜が明けたら彼には帰ってもらおう。彼が何者であるのかまだよくわからない。もしかするとアイが読んでいるおとぎ話が産んだ幻想を見ているのかもしれないが、誰であろうと彼をこれ以上受け入れるわけには行かない。さくらはこれからもこの世界の中で全うに生きてゆかねばならないのだから。


 アイの部屋に行き、娘の上掛けを直し、あの童話の本を見つけて寝室に入った。


 リビングにはあえて行かなかった。もしかするとこのまま朝になれば、


「あれ? 王子は?」


 という展開が待っているかもしれない。そうなるなら、その方がいい。娘に読んでやった童話をもう一度読み返しながら、さくらは多くの疑問をねじ伏せて眠りについた。疑問の最後に、彼のあの逞しい肉体がチラついて困ったが、それも強引にねじ伏せ、羊を数えて睡魔を呼び込んだ。





 翌朝、彼は姿を消していた。


 しかし、喜んだのも束の間だった。


 脱衣所に洗濯物を整理しに行くと、しっかりあの真っ白な、穴が開いて血がにじんだスリーピースが残っていた。


 そうだっけ。彼はボタンが嵌められないんだった・・・。


 と、いうことは、彼はパジャマのまま外へ行ったのか・・・。


 さくらは慌てて首を振った。


 考えるのは止そう。とにかくここはまずアイを学校に行かせる。あとはそれからだ。


 朝食を作りアイを起こし朝食を食べさせて、ランドセルを開いて仕度を点検し、髪をとかしてカチューシャ着けて襟の捩れを直してやって、ハンカチ、ティッシュ、ジャンパーを着せ、水筒とランドセルを背負わせた。


「はい。これでよし、と。さ、みんな集合場所で待ってる。行って来な」


 玄関先で靴を履く娘の背中を見ていたら、


「ママー・・・」


 とアイが振り返った。


「この白いくつ、誰のー?」


 飛び上がるほど驚いた。


「あ、そ、それはね、パパのだよ。ほら、ずっと靴箱仕舞っておくとカビ生えちゃうでしょ。だから虫干し・・・、そう。虫干ししてるのよ」


「ふ~ん。でも、パパの他の靴より大きいねえ」


「・・・そお? 気づかなかった。パパ、足が育っちゃったのかな。ほら、もう行かないと。遅れちゃうよ」


「わかったー。行って来まーす」


「気を付けるのよ。知らない人に声を掛けられたら?」


「いかのおすしー」


「いってらっしゃーい」


 ふうっ・・・。


 そのままリビングに戻りベランダに出る。一号館から三号館まで共通のタイル張りのアトリウム。そのポプラの木の下に、このマンションの子供たちがもう集まっていた。母親の姿もある。登校の付き添い当番はまだ先だ。その集団の中にアイが駆け寄り、六年生の子が出発の号令をかけ行列が動き出した。アイがこちらを見上げているのを見つけて手を振った。娘が大きく手を振り返す。その行列が雑木林の横を抜けてこのマンションの敷地から出て行ってしまうのを見届けて、ほっとしてリビングに戻ると彼がいた。


「おはよう、さくら」


「・・・おはようございます」


 彼はパジャマ姿のまま絨毯の上に座ってニコニコ微笑んでいた。


「仲間が心配だったから様子を見に行っていました。大半が朝食を摂りに出かけたみたいです。みんな無事でした。まずは一安心です。さくらたちが見回りしてくれてるおかげです。ありがとう」


「あの・・・。一つだけ訊いていいですか」


 さくらは一つ、ゴクリとツバを飲んだ。


「あなたは、その、・・・白鳥さんなの?」


「そうです」


 ずっとニコニコしたまま、彼はあっさりそう答えた。


「そうだとすれば、ごめんなさい。これ以上あなたと一緒にいられません。頭がどうにかなってしまいそうなの。あなたのことは誰にも言いませんから、お池に帰ってくれないかしら」


「さくらが帰れというなら、今日は帰ります。でも、」


「でも?」


「わたしはさくらをわたしの妻に迎えたい。さくらにわたしのタマゴを産んで欲しい」


 二人の間にしばしの時が流れた。


「ちょ、ちょっと整理させてね。


 わたしは、人妻。結婚してるの。それにわたしは人間。あなたは白鳥。結婚も出来ないし、あなたのタマゴを産むことも出来ない。わかるわよね。わからないか。そうか。だからそういうこと言うんだよね・・・」


「さくらも白鳥になればいい。それで全部解決する」


 ・・・。


「・・・ごめんなさい。このへんでわたし、も、限界です。もうこれ以上、あなたとお話し合いはムリだわ・・・」


「わたしとさくらはお話し合いなどしていない」


「はあ? なんですって?」


「申し訳ないが、お腹が空いた。何か食べさせてもらえないだろうか」


 彼は炊いたご飯には手を付けず、生のコメをくれないかというので、湯飲み茶わんに一合カップで計った一杯のコメを出した。それにお茶。これも、飲むんじゃなくて茶っぱのままがいいという。茶筒の茶葉をそのまま日本酒を飲むときのお猪口に盛って出した。それにキャベツとニンジンをただ切ってあげただけのを生でバリバリカリカリムシャムシャ美味しそうに、食べた・・・。


 最後にダメ押しが来た。


「虫があるといいんだけど」


「・・・ごめんなさい。虫はないんです」


「そうか・・・。残念だな」


「そろそろ、さっきの質問に答えてくれないかしら。わたしとあなたがお話し合いをしてないというのは、どういう意味なの? だって現に今こうしてわたしの質問に答えてるじゃない。あなたのリクエストに応えてお米出したでしょ」


「わたしは、喋ってない。わたしはさくらの心に直接訴えてるだけだ。それを言葉に、さくらの言葉にしているのはさくら自身なんだ。わたしは言葉を知らない。いつも思いを相手に送って感じてもらってる」


 また頭痛がして来た。


「もっとわかりやすく説明して。そうでないと・・・」


 急に彼は椅子から立ち上がった。


「わたしの思いをわかってもらうまでは帰らないし、帰れない。なぜなら、さくらはわたしにとって最も相応しい妻になる人だから」


「え?」


 パジャマ姿の彼はさくらに寄り添い、手を取った。


「そん、そんな、勝手な。わたしの都合とか、わたしの立場とか、わたしの意思・・・」


「さくらがわたしを必要としていれば、あとのことは大したことじゃない」


 彼の両手がさくらの頬を包んだ。彼の唇がさくらの唇に重なった。甘い息がさくらの中に吹き込まれると、時が止まった。


 あの甘い香りがさくらの身体中を浸し、じんわり痺れさせた。


 これはなんだろう。


 麻薬とはこういうものか。力が入らない。頭ではこれ以上彼を自由にさせてはいけないとわかってはいる。だが自由が利かない。いやそれどころか積極的に唇を寄せ彼の赤い唇をついばんでしまっている。彼の羽毛のように柔らかなタッチでおとがいや首筋を愛撫されてゾクゾクした快感を得て悦んでしまっている。これ以上はダメだ。危ない!


「・・・やめて・・・」


「でも、わたしの手を握ってるのは、さくらじゃないか」


「嘘・・・」


「嘘じゃないさ。わたしの手を握って誘ってる。わたしの服のボタンを外してるのは、さくらじゃないか」


「え、なんで、どうしてェ・・・」


「言ったろう。わたし以上にさくらがわたしを必要としてるんだ、と。さくら自身が心の中でわたしを求めてるんだ」


 さくらの手が、はだけた彼の厚い胸板を這う。腰に回して自分に引き寄せ、さらにその白い肌に口づけまで捧げようとしている。


「えっ、やだ、や、ええっ、そ、ああ、ああっ!・・・」


 見えない蜘蛛の糸が次第にさくらを絡めとってゆく。柔らかな彼の羽毛がさくらの身体を流れるたびに、ゾクゾクが、とまらない。


 どうして。誰か、説明して、助けて、誰かあ・・・。


「抗うのはやめなさい、さくら。自分の心の声に耳を澄ませなさい。声を聴きなさい。そうすれば、ずっとラクになる。昨日までの自分と違う自分に生まれ変われる。本当だよ。


 さあ。心を開くんだ、さくら。さくら・・・」


 わたし、どうしたらいいの。オウジ、オウジ・・・。


「やっとわたしの名を呼んでくれたね。いいんだよ。わたしに身を委ねればラクになれる」


 小学生の娘を持つ三十路前の女なのに、初めて恋を知って戸惑う少女のように心が揺れる。


 そのさくらの身体を、いっぱいに広げれば二メートル以上もある大きな翼がやさしく包んだ。その羽毛の柔らかさに全身が愛撫され、蕩けてしまう。


「ああ、素敵。なんて気持ちのいい・・・」


 翼がもう一度開いたとき、さくらは一糸まとわぬ素裸になっていた。急に心細くなって王子の身体にしがみつく。その筋肉質の身体を抱きしめる。


 と。さくらは下腹に感じる王子の分身に気づいた。昨夜バスルームで見た、彼の逞し過ぎる分身はさらに力強く張り切って漲り、聳えていた。


「ほしいかい? さくら」


 王子は優しく言った。


「さくらが全てをわたしに捧げるなら、わたしの全てはさくらのものだ。夫婦めおととは、そういうものだよ。わたしたちは、夫婦になるんだ。そして一生離れない。いつでも、どこでも、どこまでも、二人一緒だ」


「うれしい・・・。オウジ、抱いて。わたしを抱いて、オウジ・・・。オウジ、お願い。わたしを、わたしを・・・」


 たった数分前には思いもよらなかった言葉を、思いを、さくらは口にし、胸に浮かべていた。


 すると、次の瞬間。


 一瞬でさくらの意識は白い世界に飛んだ。


 そこはブリザードが吹き荒れる下も上も辺り一面全てが白で覆われた世界。


 白い闇の世界。命を育むことができない、死の世界だ。


 そこで生きる者は厚い氷の下の海に潜むか、深く地に穴を掘りそこに蹲って嵐が止むのをただひたすら耐えるしかない。海に潜れない者、凍った大地に穴を掘れない者には死が待っている。翼のある者だけが冬の間この地を去り、夏になれば還ってきて地と水と太陽がくれた豊富な食物を食むことができる。


「見えるかい、さくら。これがわたしの国だ」


 白い闇の向こうから声だけが聞こえる。


「オウジ、どこなの。わたし、怖い・・・」


「ここだよ。わたしはお前のそばにいる。お前をしっかりと抱いているよ」


「もっと、しっかり。ちゃんと抱いていて。そうじゃないと、怖い、怖いよ・・・」


「案ずるな、さくら。おまえはわたしと契った。おまえは悦びの果てに意識を飛ばしてわたしとともに今の祖国の姿を見ているのだ。わたしの心の中に深く入りこんで、わたしの意識と共にこの風景を見ている」


「こんな、こんなところがこの世の中にあったのね。ここがあなたの国なのね。なんて厳しい、なんて寂しい・・・」


「だが、この厳しい地のおかげで我々を害するものは誰も近づけない。我々は安心してこの地で命と愛を育むことができるのだ。春になれば我々は国に帰る。この地で育んだ命を、大地と太陽が与えてくれた豊富な食べ物を得られる地で大きく育て、さらに殖やすことができる・・・。


 さくら。わたしと一緒に飛んでみないか」


「飛ぶですって? 無理。出来るわけない」


「見てごらん」


 王子が羽を広げてさくらの身体を曝した。さくらは、自分もまた大きな翼を持っているのを知った。


「なにこれ・・・」


「おいで、さくら」


 ベランダの掃き出し窓が開かれ、池を渡ってくる、冬にしては温かな南風が部屋に吹き込んできた。


「見ててごらん。飛び立つときは、こうするんだ」


「あっ・・・」


 ベランダの手すりを軽々と乗り越え、王子の身体は空に向かって飛びだし、さくらの視界から消えた。


「王子!・・・」


 慌てて窓の外に飛び出したその先のくうを、一羽の大きな翼を広げた美しいオオハクチョウが向かい風を翼一杯に孕み天高く舞い上がって行った。


「簡単だろう。さくらも出来るよ。大きく翼を広げて思い切って飛び出してごらん」


「ちょ、え、でも・・・」


 なぜ翼が生えているのか、どういうしくみでそうなるのか。翼があるからといってそれが力学的にというか物理的にというか空を飛べる保証がどこになるのか・・・。


「大丈夫。さくらは飛べる。わたしを信じて飛び出すんだ。さあ!」


 池の上を大きく旋回しながら王子はさくらに呼びかけた。


 信じる。


 言葉は単純だが、それを安易に試す勇気はさくらにはなかった。


 麻薬でそういう幻覚を見て飛び降りて死ぬ人の話をきいたことがある。さくらが今しようとしているのはそれではないか。さくらはアイを置いて死ぬわけには行かない。だが、そうした常識と慎重さがどんそん消えて行く。目の前には王子の言葉と王子の翼だけがある。


 飛ばねば。その言葉だけがくっきりと残る。


 目を閉じ、手すりを超えた。


 さくらは大きくくうに身を躍らせた。


「きゃーっ!」


 さくらの身体は重力に従い地面に向かってスーッと落ちて行った。


「翼を後ろから前に! ゆっくり力強く風を抱くんだ。風を抱け、さくら!」


 無我夢中で言われたとおりに大きく翼を広げ、前に向かって一掻き、二掻き。すると不思議に風を捉え、落下は止まり、一瞬だけ胸と二の腕に傷みが走ったが、すぐにさくらの身体は重力に逆らって上昇を始めた。


 あのベランダの手すりを超えた瞬間、さくらは完全にオオハクチョウになっていた。


「あ、あ、あ・・・」


 信じられないことが、現実に起きた。さくらは、飛んでいた。


 するとそばにスーッと王子が寄って来て語り掛けた。


「飛んでる。飛んでるよ、さくら。言っただろう。さくらは飛べるって」


「本当だ! わたし、飛んでる・・・」


 さくらと王子は二人並んで、三号館から一号館、池の周りを廻って住宅地や雑木林の上を超え、何度も旋回を繰り返しながら、さらに高度を上げていった。


 風は冷たかった。でもそれが何故か心地いい。


 こんなに素晴らしい世界があったなんて。


 飛行機のキャビンから窓の外を眺めたことは何度もある。だけどこれはその視界と全く違う。自由が、違う。


 重い身体が無い。眼下の景色以外何もない。なにも掴まるところがない。それだけでは不安だが、さくらには翼がある。羽ばたけば羽ばたくだけ、さくらは自由に飛翔できる。機械や道具は一切ない。生まれたままの丸裸で空を泳いでいる。今までの世界が全て眼下にある。


 飛ぶ前は半信半疑だったが、実際にこうして空を舞っているとクヨクヨ考えていたことどもが全てバカバカしく、取るに足りないもののように思われた。


 すると住宅地の西の田んぼや川に朝食を摂りに行っていた王子の仲間たちが一羽、また一羽と戻って来てさくらの周りに並んで飛びはじめ編隊を作った。


「飛ぶときは脚をまっすぐ後ろに伸ばす。すると風がもっと友達になってくれるよ。


 みんなが言っている。おめでとうと。わたしたちは認められたよ。


 さくら、わたしたちは夫婦めおとになったのだ」


 と、王子は言った。


 池に降りよう。


 王子がみんなに言うと、仲間たちは一羽ずつ順番に編隊を解き、下へ向かって急降下して行き次々に池に着水していった。


「水に降りるときは脚を出して。すると翼が立つ。飛び立つときと同じように大きく羽を広げてふんわりと。水かきで水を蹴って水に踏ん張るようにしてブレーキをかける。わかるかい?」


「うん。やってみる」


 少しずつ翼を絞り、王子とさくらは旋回しつつゆっくりと高度を落とした。そうして仲間たちが両側に居並ぶ中をなんとか危なげなく着水することができた。


 身体を水に委ねた。水が温かい。そのうえにプカプカ浮いていると楽しい気分になる。ふとみると、さくらのすぐそばに王子が降りて来た。水しぶきの少ない、完璧な着水だった。


 王子はすぐにさくらに寄り添ってきた。


「・・・出来たじゃないか」


「・・・うん」


 見上げる王子の横顔に優しい微笑みが浮かんでいた。


「見てごらん」


 さくらは王子の視線の先を追った。


 さっきまでいた、三番館506号室のベランダがあった。リビングの窓が空いていて、洗濯物が風に翻っていた。さっきまでさくらがいた、人間の世界だ。


 ウッドデッキのほうに人の気配がした。茶色いベレー帽の先生が観察に来ていた。


 さくらは水の中で忙し気に脚を動かしてそちらの方へ寄って行った。


 おはようございます。


 つい、いつもの通りに挨拶してしまったが、先生は口をパクパクしていて声が聞こえなかった。いつもの優しそうな笑みを浮かべてさくらを見下ろしていた。


 昨日まで、先生と同じ世界にいて同じように池を見下ろしていた。そのことを思うととてつもない不思議が起きたわけだが、違和感はまったく覚えなかった。そこに、池の上に浮かんで先生を見上げるのが当然のことであるかのように、さくらは感じていた。


 王子が寄って来た。


「あの人が言っているよ。私の言った通りでしょう、と。ご結婚おめでとう。そう言ってくれているよ。


 人間だけれど、あの人はわたしたちの心が読めるようだな・・・」


「・・・うん」


 さくらは応えた。そして先生に向かって二度ほど頭を下げ、翼を動かして見せた。


「さくら。妻になってくれて、ありがとう」


「王子・・・」


 二羽のつがいは向かい合わせになってお互いのあたまの上を突き合わせた。人間から見るとそれはまるでハートマークを作っているように見える。





「とても楽しかった。そして素晴らしかった。こんな世界があったなんて、知らなかった・・・」


 三号館506号室のベランダで、二人は並んで池の上に羽を休めている白鳥たちを見下ろしていた。


 二人とも人間に戻り生まれたままの素裸でいるのだが、不思議なことに恥ずかしいという感情がない。それにどうも周りの人間からは見えないらしい。どうやら昨日王子がお隣の旦那さんの目に映らなかったのと同じ理由らしい。どうしてなのかはわからない。


「それは、わたしにもわからない」


 と、王子は言った。


「わたしたちはみな、身体の中にどこにいても方角がわかる力を持っている。どんな嵐に見舞われても空が曇って太陽の陽射しを浴びなくても、わたしたちが方角を見失うことはない。


 さらにこの旅に出る前に、わたしは王である父から特別の力を譲り受けて来た。おそらくは、それにかかわりのあることかもしれない。わたしの国の代々の王に伝わっている力だ。王は国の民を守るために、その力を使うのだ」


 気だるさは、こころよくまで愛を交わした後の満足感に似ていた。


 これは夢ではない。


 さくらはたしかに飛んだ。いつもの家を、今目の前にしている風景を、住宅地を、全てを手のひらに収まるほどに小さく見下ろす、高い空を飛んだ。その証なのか、少し胸と二の腕がだるい。腹筋も少し張っている。明日当たり筋肉痛が来そうな予感がある。初めてスポーツジムに行った日、これと似たような感覚になったのを思い出す。


 だが、こうして落ち着いて気だるさを帯びる現実に戻ってみると、さらに自分の家に戻り顧みると、重力に囚われて両足を床に着けてみると・・・。空に舞い上がっていたときには些末なことに思えたすべてのことが、さくらに重くのしかかって来ていた。


 今の生活。ご近所のこと。町内会。小学校。夫の和也のこと。さくらの両親。義両親・・・。あまりにも些末な、だが無視できないことどものなんと多いことか。人間であることの、なんと重いことか・・・。


 そして、アイ・・・。


 夫を含め、それ以外は目を瞑って置いても、娘だけは、アイだけは、別だ。


 可愛いアイを置いて行ってしまうなど、絶対にない。王子とのどんなに素敵な快楽も、すばらしい世界も、アイなくしては全て色褪せる。アイだけは、絶対に、手放せない・・・。


「簡単なことだ」


 さくらの心を読んだ王子は、彼女の髪を撫でながら優しく言った。彼女の髪にも、王子と同じ金色のメッシュが入っていた。


「さくらの娘は、わたしの娘だ。アイも一緒に、いざなえばいい・・・」





 学校から帰って来たアイは、さくらの髪の金色のメッシュと初対面の王子を見て不思議そうな顔をした。


「ママの友達。オウジさんていうの。ごあいさつは?」


「こんにちは。・・・真っ白だね」


 子供は遠慮がない。だが、王子も人間ではない。


「アイだね。さくらから聞いているよ。わたしは王子。一緒に遊ぼう」


 夕食を食べパジャマに着替えたアイは、白いシャツに身を包んだ王子のあぐらのなかにすっぽり収まり、本を読んでもらっていた。


「白鳥たちが池で穏やかな日を送っていたある日のことです。水草を食べていた白鳥たちの池のほとりに猟師がやってきました。


「りょうし、ってなに?」


「動物を捕まえて殺してその肉や革を売って仕事にしている人だよ」


 さくらは彼の白いジャケットとベストに開いた穴を裏地をあてて繕いながら、王子の声に耳を傾けていた。


「猟師は言いました。


『おお。立派な白鳥がいるぞ。白鳥の肉を食べると長生きできるという言い伝えがある。村に持って帰れば高く売れるぞ・・・』


 そう言って猟師は白鳥たちの群れに静かに近づき、弓に矢をつがえて的を絞りました。


 シュッ・・・。


 くああー! 


 池の群れからひと際甲高い白鳥の声が上がりました。


 矢は猟師が狙った鳥ではなく、頭に金のかんむりをつけた若い大きな白鳥に当たったのです。


 それは、王子でした。王子は王様から言いつかった教えを守り、仲間を助けるために仲間をかばって身を投げ、撃たれたのです・・・」


「王子、かわいそう・・・」


 アイは本ではなく、王子の横顔を見上げ、悲しそうに涙ぐんでさえいた。本の中の「白鳥の王子」への感情移入なのか、もしかするとすでに目の前の王子と心を通わせててもいるのか・・・。


「同じだよ」


 王子はアイに童話の続きを読んでやりながら、同時にさくらにも語り掛けていた。


「本の中の王子でも、今目の前にいるわたしでも。アイはさくらと同じで、心の優しい勇敢な王女になるだろうね」


 もし、アイが今の生活ではなく王子と共に、王子の娘として生きることを望むなら・・・。


「・・・そこへ村の娘が通りかかりました。娘は森の動物たちの友達で、動物の大好きな心の優しい娘でした。いつも森のくまやきつねやこじかやうさぎやへびたちと一緒に遊んでいたのです。もちろん、鳥たちとも友達でした。


『まあ、たいへん。いったい誰がこんなにひどいことを・・・』


 池のほとりで撃たれて苦しんでいる白鳥を見つけ、娘は心を痛めました。


『あの猟師だよ』


 青いカワセミが教えてくれたほうを見ると、その猟師は二本目の矢をつがえようとしているところでした。


『やめなさい! それいじょう動物たちをイジめるのは許しません!』


 娘がいうと、


『なにを、生意気な。邪魔だ。向こうへ行け』


 なおも矢を射かけようとする猟師に、娘の友達の動物たちは襲い掛かりました。


 まずくまが体当たりして猟師を倒し、次にへびが猟師のあしに絡みついて動けなくしました。そこをすかさずきつねが弓を奪い、こじかとうさぎはその力強い後ろ足で猟師を痛めつけました。最後にくまが猟師のからだの上にドンと乗って、猟師は降参しました。


『わかったよ。もう白鳥は狙わない。この森の動物たちも。だからもう許してくれ・・・』」


 あたしも白鳥さんを撃ったヤツ、やっつけたい!


 王子が本を読み終わると、アイは足をドンドンして怒りをアピールした。


「本当かい。アイも白鳥たちを守ってくれるかい」


「うん。絶対悪い人見つけて懲らしめてやる!」


「なら、アイに力を与えよう。一緒に悪い人を見つけてやっつけよう」


「うん!」





 王子の傷も癒えた次の日の土曜日。


 彼はさっそくアイに飛び方を教え始めた。


 二人が一緒に池のほとりの雑木林に入ってゆくのを、さくらはいささか不安な面持ちでベランダから見守っていた。


 しばらくすると、大きな白鳥とだいぶ小さな白鳥がペアになって雑木林から出て池に入ってゆくのが見えた。小さな鳥は大きな白鳥の後ろにくっつくようにして池の上を泳ぎ始めた。小さな鳥の頭には赤い強毛が斜め後ろに生えているのが遠目からでもよく分かった。


 二羽は池の端まで行くと止まった。そして大きな、頭に金の天使の輪を持つ白鳥が羽ばたきながら水面を蹴って飛び立つのが見えた。


 小さな白鳥はしばらく黙ってそれを見ていた。なかなか飛び立つ気配はなかった。


 がんばれ、アイ!


 さくらは赤い強毛の娘に声を掛けた。ただし、心の中で。


 前もって、王子から言われていた。


「自分で飛び立てるようになるまで、さくらは人間のまま見守っててくれないか」と。


 大きな白鳥の王子が再びアイのもとに舞い降り、モジモジしている娘を励まして飛び立たせようと促してくれた。でも、アイはいっかな飛び立とうとしなかった。


 いてもたってもいられなくて、さくらは部屋を飛び出しエレベーターで下に降りた。一号館前のウッドデッキに立って一番奥の池の端にいるアイを見た。


 さくらは叫びたいのをガマンして大きく手を振った。ここまで来なさい。そう心で念じた。


 さくらの姿が見えたのか、小さな白鳥が翼を何度かばたつかせ、飛び立とうとしているのが見えた。


「おや、新しい若鳥がいる。初めて見る子だな・・・」


 いつの間にか先生が隣にいた。


「おい君、若鳥の数確認してあるか」


「全部で8羽です」


「あとからもう一度数えて見なさい。それにしても、おかしいな・・・」


 先生と目が合った。


 それからもう一度、アイに眼を転じた。そして、手を振った。


 アイはさくらに気づいたのかさっきより大きく羽ばたこうとしていた。羽ばたいて何度もフワッと身体を浮かせては翼に風を送り込みつつ水面を蹴ろうと懸命になっていた。そのすぐそばに王子がいる。アイの横で何度か飛び立ちの形を見せ、一生懸命に身体で離水を促そうとしていた。


 そして、何度か数メートルほどの助走に成功して離水の形になっては、失敗するのを繰り返していた。


 先生は学生さんにビデオを撮っておくよう指示した。


「いいか。しっかり押さえておけよ。親鳥が子供に飛ぶのを教える貴重な映像だ」


 さくらは手を合わせ、祈った。


 アイ、がんばれ! もう少しだよ。がんばれ、アイ・・・。


 すると、さくらの祈りが通じたのか、アイは大きく羽ばたきながら脚で水面を蹴り、蹴り、蹴りまくり、蹴りまくりながら、さくらの方に向かって突進してきた。だが、早く上昇しないとそのまま対岸に、さくらのいるウッドデッキに激突してしまう。


 そこよ! そこで大きく、もっと大きく羽ばたくのよ! 風を巻き込むのよっ!


「ガンバレ、アイ!」


 思わず声が出てしまった。


 アイにそれが聞こえたのか、ひときわ大きく羽ばたいたかと思うと離水し、さくらと先生の頭スレスレを水しぶきをまき散らしながら通過して、一号館の建物にぶつかる寸前にターンし、池の上空をらせんを描きながら高く高く舞い上がって行った。


 それを王子が一直線に追った。


 アイのすぐ下後方に位置し、アイの羽ばたく力が衰えかかるたびに、長い首を伸ばしてアイの腹や胸をチョン、チョンと突きあげてやる。するとアイもそれに応えて踏ん張ろうとする。上昇気流を捕まえるまでは気を抜くな。王子はきっと娘にそう教えているのだろう。


 たまらずに駆け出した。三号館に入ったがエレベーターが上の階にいるので階段を駆け上がった。四階と五階の踊り場辺りで二人の飛翔を見た。


「お前も来い、さくら!」


 王子の声がしたような気がした。


 迷うことなくサンダルを脱ぎ、踊り場から身を躍らせた。さくらもまた二人と同じオオハクチョウになって舞い上がった。頭に天使の輪をつけた親鳥が二羽になった。


 もしかするとビデオに撮られたかも・・・。


 だがそんな考えはすぐに消え去った。そのような些末なことはもう、どうでもいい。


 羽ばたいて羽ばたいて・・・。間もなく二人に追いついた。


「ママ!」


「アイ!」


 さくらはそれほどまでにうれしそうな声を上げて喜ぶ娘を、初めて見た。


 その日マンションと付近の住宅の住民たちは、マンション上空の冬空を、二羽と小さな一羽のオオハクチョウが嬉しそうに飛び回っているのを、空が赤みを帯びるまで見守り続けていた。


 赤い強毛のアイは日に日に飛行の習熟度を高めていった。さくらより上手そうだった。


「年齢のハンデがあるでしょ!」


 娘相手にムキになったが、そういうところも王子は「可愛い」と言って包み込んでくれる。


 そのうち王子の付き添い無しで他の若鳥の仲間と西の田んぼや川にまで行くようになり、


「ママ、きょうはゲンゴロウとゴカイを食べたよ! ゴカイは甘かったけど、ゲンゴロウはちょっとニガかった」


 家に戻って嬉しそうに言う娘に違和感が拭えなかった。


「貴重なタンパク源だからさくらも慣れておく方がいいと思う。鳥の姿に慣れてしまえば味はあまり関係なくなるから・・・」


 王子に言われるといずれは慣れなくてはならないかと思わないでもなかった。


 もちろんのことだが、アイはTVも観なくなったしゲームもしなくなった。学校の友達と遊びに行っても自転車では行かなくなった。鳥の姿で近くまで行って建物の陰に降り、


「おまたせ」と言って一緒に遊び、


「じゃあね」


 といってまた建物の陰に入って赤い強毛の白鳥になり空に舞い上がる。


 マンションのベランダに舞い降りて「ただいま」を言うようになった。多少泥だらけになることが増えたが、そんなことは些細なことだと思えるようになった。いつしかアイは506号室のドアを、ランドセルを背負ったときしか使わなくなった。


「王子ィ」 


 アイは彼をそう呼び甘えるようになった。王子が見回りから帰ってくるとすぐに飛びついてじゃれた。夫がいたころにはそんなアイを見たことが一度もなかったのを思った。


 506号室での団欒で、


「あの○○がね、」


 と一緒に田んぼに草を食べに行ったオオハクチョウの仲間の名前を言うのだが、人間のままだとよく聞き取れない。


「あたしのこと好きみたいなの」


 そんなことまで言うようになった。アイは人間でいたときよりも急速にマセてきた。


「そうか。じゃあ、次の旅までにその気持ちが変わらないなら、その時は・・・」


「でもね、どっちかっていうと、□□のほうがいい。だって優しいんだもん・・・」


 王子が急に無口になるのを初めて見て、ちょっとおかしかった。


 ふと、初めて出会ったときに彼を襲ったボーガンの犯人のことが気になった。もう一度犯人が現れてアイや王子や仲間たちが襲われたらどうしよう、と。


「もう一度会えばわかる。至近距離だったから臭いでわかる。もう一度会ったら、必ずわたしが捕まえる。決着をつけてやる。もう二度と仲間たちを襲わせないようにするために」


「くれぐれもやりすぎないでね、王子。わたしも一緒に戦うから」


「勇ましいなあ、さくらは・・・」


 そう言って王子はフッと笑った。もう、さくらの愛情は完全に王子とアイに注がれていた。





 年末に夫の和也から電話があった。以前からそうだったが、今はその声がもっと遠く感じた。


「悪いな。正月も帰れないんだ。本当にごめん。怒ってるよな」


「別に。忙しいなら、いいんじゃない。わたしもパートはじめたし・・・」


「なんの?」


「ペットショップ。毎日鳥のお世話してるの」


「・・・でもアイにも寂しい思いさせちゃってるよな・・・」


「そうでもないみたいよ。このところ急に友達が増えてね、いろんなとこたくさん飛び回って毎日泥んこになって帰ってくるの。田んぼとか川とか。ものすごく楽しいみたいよ」


「田んぼ? それに川なんてあの近くにあったっけ。・・・そうか。なんだかオレ、急に帰りたくなっちゃったな・・・」


「でも四月までなんでしょ。あなたにも翼があれば別だけど、エア代もったいないからそれまで居れば。そっちも楽しいんでしょうから無理しなくていいよ」


「・・・なんだよ、あなたにも、って。しかも、ずいぶん冷たい言い方じゃないか」


「そお? 確かに冷たいのとか寒いのには慣れたような気がする」


「やっぱ、一度・・・」


「ごめん、もう切るね。これから家族でお食事会なの。じゃあね」


「おい、家族ってなんだよ、おい・・・」


 和也が違和感を覚え思い直してもう一度電話してきたころにはもう、三人ともベランダから飛び立ち、連れ立って西の田んぼに食事に行った後だった。


 丁度冬休みということもあって、白鳥の生活にも慣れようと鳥の姿で池や草地で夜を過ごすことも増えた。家に居ると電話や近所の応対で煩わしいし、家に居なければ電気代もガス代も水道代もかからない。夫が単身赴任だから今年は両方の実家に帰省もしないで済んでいたことも幸いした。


 不思議に寒さは感じなくなっていた。


 初めて王子と会った日の夜、こんなところで寝るなんてとゾッとした雑木林の草むらで、王子とアイと三人で身を寄せ合って眠っていると、その真冬の満天の星空を仰ぐ草むらのほうが506号室の部屋よりもあたたかいような気さえした。


 電気もガスも水道もいらない。食べ物はそのへんにたくさんある。だからお金もいらない。毎日、家族と仲間を思ってさえいれば幸せに生きられる。人間でいるのと白鳥になるのと、どっちが幸せに生きられるのか、わからなくなるときがある。


「旅立ちまでに決めればいい」


 と王子は言う。


「王子は不安にならないの? わたしがどっちを選ぶか・・・」


「何故? もう、さくらとアイはわたしの家族だから。家族を信じるのは、当たり前だろう?」





 そんなふうにして年が明け、冬が終わり、春がやって来ようとしていた。


 アイはもう、学校以外は白鳥のままでいたほうがいいみたいだった。その気持ちはよくわかる。一度空を飛んでしまうと、それ以外全てがどうでもよくなってしまうのだ。


 しかも、若鳥たちの母親みんなに依頼され、飛翔訓練まで買って出ていた。どうみても生まれてすぐに海を渡って来た他の子の方が上だと思うのだが。飛ぶのを覚えて間もないくせに、生意気だと思われないだろうか、大丈夫だろうかとさくらは気を揉んだ。


「母親たちがいいというなら、任せるさ。アイにとっても勉強になるし、仲間たちもみんなアイに一目置き始めている。いい傾向だよ」


 王子は、僭越にも若鳥たちに編隊の組み方を教えるアイを穏やかに笑みながら見上げていた。





 ある日、506号室で久々に人間の夕食を摂っていると王子がベランダに帰って来た。


 その目に、初めて見る怒りの炎が宿っていた。


「・・・どうしたの?」


 さくらもアイも、心配そうに王子の顔を覗き込んだ。


「いた。見つけた。わたしを襲った、わたしの仲間を襲おうとした、あの人間を、見つけたぞ!」


 青い車だ、と王子は言った。


 テーブルの上のボールペンをとって何かを書こうとしているのだが、人間だったことのない王子には難しいようだった。アイが自分の部屋に行って数字とあいうえおの見本が書かれた下敷きを持ってきた。それをペンで指すのは出来る。


「1、6、□、7?」


「その青い車の前と後ろにこういう模様があった」


「それ、数字、ナンバー!」


 翌日から、さくらと王子は手分けして上空から捜索を始めた。学校のあるアイはクラスの子たちに情報を流し、そのナンバーを付けた青い車を発見したら連絡してと触れ回った。


 池の仲間たちにもナンバーを紙に書いたものを咥えてみんなに見てもらった。


「王子をホウガンで撃った人。見たら教えて。絶対捕まえてやる」


 鳥たちは一斉に飛び立ち、方々へ探しに向かった。


「でも、見つかっても手を出しちゃダメ。かならず王子に知らせてね」


 数十人と数十羽で捜索に出ると早かった。


 アイはまだ一年生なので同級生たちも年齢からして行動には限りがある。だがその兄や姉たちが動いてくれた。


 その住宅地のすぐ外、昔からの農家の母屋の庭先に同じナンバーの青い車が止まっている、という情報を同級生が電話で知らせてくれた。


 アイはすぐにベランダから飛び出した。


 飛びながら、すでに住宅地上空に、さながらGPS衛星のように展開している仲間たちに「白鳥語」で逓伝を頼んだ。


 王子に知らせて。車を見つけた。現場に向かってる。あたしと合流して・・・。


 それだけ叫ぶと、数百メートルおきに上空を旋回している仲間たちが伝言ゲームのように次々と伝えていき、数分もすると王子が、ついでさくらがアイと合流した。


「よくやったぞ、アイ」


「がんばったね、アイ」


「クラスの子が教えてくれたの。これからどうするの」


「仲間たちを目標に集結させるのは危険だ。相手は武器を持っている。


 わたしに考えがある。アイは、仲間たちを集めて目標の近くに待機させておいてくれ。その時がきたら知らせるから。


 さくらは、場所を確認したらマンションに戻って人間たちに知らせてくれ。人間の世界のことだ。最後は人間に片付けてもらおう」


 しばらくすると、その農家が見えてきた。情報通り青い車がある。


「情報通りよ。ナンバーもピッタリ」


「では手筈通りに。頼むぞ」


「わかった」


「気をつけてね、王子」


 さくらとアイは王子と別れ、旋回してそれぞれの方角に去った。


 王子は一度近くの道に着陸すると、小さくない小石を拾って再び飛び立った。


 目標はあの青い車だけ。他の物や人間に危害を加えないよう、正確に命中させねばならない。目標の真上を通過する水平爆撃ではなく、目標に向かって急降下して可能な限り近づいて攻撃する方法を選んだ。危険度は高いが命中確率も高くなる。


 上空100メートルほどでダイブを開始した。その農家の屋根の上20メートルほどでリリース。初弾は車のボンネットに落下した。ゴン、と音がしたが、その家からは誰も出て来なかった。失敗だ。


 狙うのは後ろのガラス。前だと車が運転できなくなるだろう。あのボウガンの持ち主が車をやられて家から飛び出し、武器を持って車で追いかけて来るのを狙っている。ボウガンと一緒に車に乗って出て来れば動かぬ証拠になる。


 もう一度付近の道路に着陸して石を咥え、飛び立つ。自分を囮にし、狙わせて人間に捕まえさせるのだ。


 だが、タイミングを誤ると、再び撃たれる確率が高い。


 慎重にせねば。


 必ず全員を祖国に連れ帰り、父王の後を継いで王となり、さくらを王妃にする。


 王子は再びダイブ位置に到達し、急降下を開始した。


 と、農家の軒先に、ボウガンを構える人影が見えた。


 しまった! ・・・





 アイは出来るだけ大きく飛び回り、仲間たちに磁方位を伝えた。アイから方位を伝えられた者はすぐさま各個に目的地に向かった。


「手前に大きな竹林がある。その陰に隠れて王子の合図を待って」


 さくらは娘の意外なほどの行動力と統率力に眼を見張った。ついこの前までは、朝起こさないと起きられないような、我儘ばかり言う、まだ赤ちゃんみたいな娘だったのに・・・。


 さくらもそうだが、王子と出会って、娘も大きく成長したのだ。


 娘に負けてはいられない。


 506号室のベランダに着陸し、すぐにグループLINEでボウガン犯人の容疑者と思われる男の情報を流した。そして、警察は・・・。どうしたらいいだろうか・・・。


 考えた末にアイに悪者になってもらうことにした。


「娘が外に出たまま戻ってこないんです。白鳥さんたちを襲ったボウガンの犯人を見たとか言って。まだ小学一年生なんです。どうもクラスの子たちと一緒らしくて。そのひとがもし本当の犯人だったら、もし撃たれたりしたら、どうしましょう。お巡りさん、どうしたらいいでしょうか!」


 電話口で思いきり取り乱して見せた。すると・・・。


「・・・心当たりですか、あ、娘がメモを残してました。その犯人と思われる方のお宅は・・・」


 子供が犠牲になる可能性があるとなれば、警察も動かざるを得ないだろう。


 これでよし! アイ、ごめんね。


 きっと娘もあの犯人の家に向かうはずだ。胸騒ぎがする。早く戻らねばと、本能が訴えていた。さくらは再び鳥になるためにベランダからダイブした。





 ボウガンの射程距離は意外に長く、つい油断した。矢は王子のいる高度の手前で力を失ったが、その緩慢な惰性で翼の羽の間に突き刺さり羽ばたくことができなくなった。このまま農家の庭先に落ちるれば、死だ。なんとか首を巡らせて進路を変え、姿勢を制御しつつ農家の裏の雑木林の中にうまいこと着地した。だがこの矢が邪魔で羽ばたけないから見つかれば簡単に狙撃されてしまうだろう。その前になんとか遠くへ逃げなければ。


 こんな時に真っ白な姿が恨めしい。同じ白ならいっそ人間の姿に戻れば・・・。何度かそう考えた。


 だが、これは千載一遇のチャンスでもある。


 自分が白鳥であるから事件になる。人間なら、敵は襲ってはこず、民家に引っ込んでしまうだけだろう。最悪自分はやられてしまうかもしれない。でもその代わり、さくらやアイの手配が利いて人間たちが集まってくれば、もうこの男は今後二度と仲間を狙うことは出来なくなるだろう。それが王子としての自分の務めだ。せっかく見つけた、素晴らしい人間たちのいる越冬地だ。これからもここで冬を過ごすために、是が非でも、ここで災いを絶つ!


 王子がそう決意すると、それを見計らったようにあのボウガン男が農家の陰から姿を現した。次の矢が装填されているのが王子にもわかった。


 出来るだけ引きつけ、母屋や車に戻れないようなところまで誘導して、そこに人間たちが来てくれれば・・・。


 王子は一縷の望みをさくらとアイに、賭けた。


 どうやら男はこちらを発見したようだ。こっちへ来る。こちらが手負いだと知って余裕で歩いて近づいて来る。


 我々は他の生き物を獲って食べる。


 それが草であろうと花であろうと虫であろうと、みんな命がある。我々は食べないが生きている鳥やネズミや鹿を襲って食べる者もいる。でも、命あるものを食べるのは、生きるためだ。だからそこに善悪や恨みや愉しみはない。みんな必死に食べ物を探し、獲って、食べる。


 ところがコイツは我々になんの恨みがあるのか知らないが、あのマンションの人間たちとは対極にある下劣なヤツだ。愉しみのために我々を襲う最も下等な生き物だ。


 こんなヤツに屈するわけには、いかない!


 王子は道の端に追い詰められた。この崖を乗り越えるには羽ばたきが必要だ。男はニヤと笑ってボウガンの狙いを定め引き金を絞った。


 さくら、アイ。許してくれ・・・。





 アイはみんなの後を追った。


 指示した竹林が見える。もう到着している者たちがいてアイを待っていた。竹林の向こうにあの農家が見えるが王子の姿は見えない。


 どうしたろうか。この距離なら合図が届くはずなんだけど。それがないということは・・・。


「みんな、待ってて。様子を見て来る」


 アイは一人、竹林をフライバイして農家に向かった。農家の庭先には誰もいない。


 どこへ行ったのか。


 まさか・・・。


 捕獲されて家の中とか。


 そんな・・・。


 信じられずに農家の上空を旋回しようとした時、その姿が視界に入った。


「王子!」


 翼に矢が刺さって、未舗装の道路の上をいざっている。その手前に人間がいる。ボウガンを持っている。


「王子!」


「アイ! 来るな」


「王子! お父さん!」


 クアアーッ!


 ひと際高く、アイは叫んだ。竹林にいた仲間の誰もがそれを聞いた。皆間髪入れずに飛び立ち、アイの向かった方角に飛んだ。


 アイ!・・・。


 男が背後の上空を振り返り、アイに向けてボウガンを構えようとしていた。


 それだけは、絶対に、許さん!


 王子は突進した。


 仲間の中でもひと際巨きな、二メートル以上もの翼を広げ、地面を蹴り、男の股間を目指して飛び込み、そこを強烈に突いた。


「うぐおーっ!」


 男はたまらずにボウガンを取り落とし、股間を抑えて悶絶した。口から泡を吹いていた。


 今だっ!


 アイが男の背中を猛烈に蹴った。


 アイに続いて仲間たちが次々と急降下しては男の背中を足で強打し、嘴で突いた。たまらず男は頭を抱えて倒れた。


 投げ出されたボウガンをアイが咥え、仲間の一人が矢筒を奪った。


 これでもう恐れるものはない。男は文字通り、白鳥たちの袋叩きに遭った。服は切り裂かれ、身体中血まみれで頭からも血を流していた。


「やめてくれ~、頼む~。オレが悪かったよ~・・・」


 そのへんで、いいだろう。


 王子がみんなを制した。


 遠くからパトカーのサイレンが聞こえ、上空にはさくらもやって来た。


「アイ、王子、みんな! 無事なの?」


 王子は大きく翼を広げ、さくらを迎えた。


 アイが嘴で矢を抜こうとした。王子は首を振ってそれを制した。ようやくパトカーが到着し、アイはその意味を理解した。


警官たちが駆け付けるとすぐに民家の陰に姿を隠し、小学一年生の女の子の姿になって警官の前に現れた。


「この人がこの鳥さんをイジメたの。あたし、見てたもん!」


 仲間たちはその様子を見届けると次々と上空から姿を消し、王子も、警官と一緒に駆け付けた獣医師に翼から矢を抜いてもらい、診察を受けた。





 こうして犯人は捕まった。王子の身にも別条はなく、飛行にも支障はなかった。


 それなのに、彼は浮かない顔をしていた。


「どうしたの? 気分でも悪いの?」


 506号室のリビングで、カーペットの上に座ったまま、ずっとブツブツ呟きながら暗い顔をしている。アイは彼の顔を覗き込んだ。


「王子ね、気分が悪いんだって。しばらくそっとしておいてあげて」


 さくらはダイニングテーブルの上でボールペンを持ち、何やら書類に書き込んでいた。だが、時々込み上げる笑いを抑えきれず、ぷぷっと噴き出しては記入に失敗し、その紙をぐちゃぐちゃに丸め、くずかごに捨てた。


「ね、どうして笑ってるの? 教えてよー」


「んー、んふふふっ! ・・・あははははは、ダメだ。お腹が痛くて、書けないよー!」


「笑い過ぎだぞ、さくら! ・・・もういい! 」


「だあってェ・・・ぷ、ぷわはっはははは・・・」


「無我夢中だったとはいえ、あんな男のナニを・・・。嘴が気持ち悪くて仕方ないんだっ! 笑ってないで、何とかしてくれっ!」


「わっはははははは・・・」


 アイは、どうすることも出来ずに王子とさくらを見比べてため息を吐いた。


 ようやく笑いを収めたさくらは、書類も書き終えた。


「さ、終わったよ。そろそろ行く?」


「そうだな。アイも、いいか」


「おっけー」


「じゃ、これ、一階のポストに入れて来てくれる?」


「はあい」


 アイはさくらからカギを受け取ってドアから出て行った。そのドアを内側からロックした。


「忘れ物ないか」


「忘れものって言っても、持ち物ないし、ブレーカーも落としたし・・・。書類も書いたし・・・、あ、これだ」


 さくらは左手の薬指にあったリングを外し、書類の上に置いた。


「お隣さんへの挨拶は出来ないしね。これで全部終わり」


「そうか・・・。じゃ、行くか」


「はい。あなた」


 二人は連れ立ってベランダから躍り出た。


 池に着水して待っていると、雑木林で姿を変えたアイがやって来てさくらと王子に寄り添ってきた。


「ポスト、入れてきたー」


「ありがとう、アイ。少し早いが、国に帰る前にみんなと気持ちを同じくするためだ。今日から発つまでの間はここで過ごすぞ」


 さくらもアイも頷いた。さっそく寄って来た若鳥たちに混じって、アイはすぐに食事を兼ねた遊びに出かけた。


「ちょっと行ってくるね」


「気を付けるのよ」


「わかってる」


 アイは仲間たちと翼を連ねて池の空に大きく弧を描くと西の空に消えていった。若鳥たちにとって、たっぷり栄養を摂り身体を作っておくことは、帰国の長旅に備えての大切な準備なのだ。


「あの子、すっかり慣れたわね」


「あらためていう。ありがとう、さくら。いや、国へ帰れば正式に王子の妃になるから、これからは妃と呼ぶことにする」


「・・・なれるかな、わたしに」


「もちろんだとも。わたしの兄弟の中で最も優れた妃だ。やがて国の要となろう」


「国の、かなめ?」


 王子は少し思案気に俯くと威儀を正してさくらに向き合った。


「妃よ。お前だけには話しておこう。王はこの夏、王位を譲るつもりだ」


「王子のお父様が」


「うむ」


 と王子は言った。


「毎年、王子たちと同じく、王もまた王妃と共に一隊を率いて南に避寒の地を求める。


 だが父は今年、もう南への隊を率いることはないだろう」


「どうして?」


「王は自らの死を悟っておられる・・・。


 さくら。わたしと初めて契ったときのことを覚えているか?」


 さくらは、あのブリザードが吹き荒れる真っ白な酷寒の地のイメージを思い描いた。


「王だけではない。わたしの国では、死期を悟ったものは避寒せず、冬の国にとどまり、氷の棺に入るのだ」


 王子は穏やかに続けた。


「だがそれは悲劇ではない。


 氷が解け、太陽が輝きだす。死んだ者のむくろは新しい命のしとねとなり、我々の日々の糧を産み出す。わたしの国だけではない。この丸い地の上に生きる者はすべて、この掟に従って生き、命を継いでゆくのだ。古き者は新しき者の命となり、永遠に生き続けるのだ。逆に、古き者が新しき者の糧を奪う時、その種は滅びる。


 わかるか、さくら。


 それは、現世うつしよ輪廻りんねなのだ。それが天地あめつちことわりなのだ」


 王子はスーッとさくらに寄り添い、ささやいた。


「王になれば、王子として訪れた避寒地には二度と戻らない。そういう掟がある。


 さくら。いや、妃よ。もう二度とここを見ることは無かろう。名残を惜しんでおけよ」


「はい、あなた」








 和也は急遽帰国し、自宅に帰った。


 家にもさくらの携帯にもつながらない。自分やさくらの実家からもどうなっているのだという問い合わせがひっきりなしにある。会社にまで、


「おい。いったいどうなってるんだ。マズいぞ。一度帰宅して情況を把握して報告しろ」


 と言われる始末。


 部屋はそのままだったが、妻のさくらも、娘のアイも、どこにもいなかった。


 ダイニングのテーブルの上に手紙と書類があった。それに、アイのお気に入りの赤いカチューシャも。





「愛と一緒に新しい生を生きることにしました。


 探さないでください。


 今までありがとうございました。


 末永く、お健やかにお過ごしください。


 さようなら。


 さくら 愛」





 一緒に置いてあった記入捺印済みの離婚届を引っ掴んで、和也はベランダに出た。


 知らなかった。


 見下ろすと、マンション前の池に多くの白鳥たちが身を寄せ合って翼を休めていた。


 なにか感じるところがあって、階下に降り、共用スペースを横切って池に張り出したウッドデッキの手すりに凭れた。


 たしかに、妻や娘にウソを吐いて、南の国で束の間の独身気分を愉しんだ。


 だが、その代償がこれだというのか・・・。


 くああーっ、くああーっ。


 妙に池の鳥が騒がしい。


 こっちは突然女房と娘が失踪して訳も判らずにいるというのに・・・。


 いつの間にか茶色いベレー帽とシャツにベストの老人が横に立っていた。


「出発を見にいらしたのですか」


「はあ?」


「この白鳥たちがこの池を越冬地に選びましてね。去年の秋から、いろいろありましたが、今日、国へ帰るらしいんです」


 大勢の水鳥たちが眼下の水面に犇めいていた。その数、数十羽。


「あまり見ないお顔ですね。失礼ですが、どちらにお住まいで?」


 ベレー帽のジジイが馴れ馴れしくしてくるのが疎ましい。


「あの、506号室の・・・」


 と、和也は力なく三号館の一角を指さした。


「ああ、さくらさんの・・・」


 なに?


「知っているんですか、家内を」


「知っているも何も、この白鳥たちの面倒を見る集まりがありまして、さくらさんもそのお一人でしたし・・・」


「でした?」


 老人の放った言葉の過去形が妙に引っかかった。


「でした、とはなんです。


 居なくなったんです。妻と、娘が。こんな・・・。書置きひとつで、何も持たず、忽然と・・・。なにか知っているんですか。教えてください。家内は、さくらは今どこにいるんです!」


 余裕のない和也は初対面のその老人に掴みかかった。


「・・・いや、このところ、お姿を見かけないものですから、人としてのさくらさんと娘さんの・・・」


「人として?」


「おお、ごらんなさい。始まりましたよ」


 白鳥たちの群れの中から、ひと際大きな一羽が先陣を切って水面を羽ばたき滑走を始めた。完璧な離水で、そのオオハクチョウは飛び立った。よく見ると、頭の上に金の天使の輪をつけている。


「あれがこの群れのリーダーです。最も気品のある一羽なので、私たちは『王子』と呼んでいます。じつはこれもさくらさんから教えてもらったんですがね・・・」


「なにか、知っているんですか。さくらは、アイは、今どこにいるんです!」


 ベレー帽の先生はその妻子に姿を消された哀れな夫を憐憫を持って見つめた。


「よく御覧なさい。あなたに心の目があれば、見えますよ」


 そう言って池の上の群れを手で指し示した。


「本当のご夫婦であり、親子でいらしたのなら・・・」


「なにを・・・」


 和也は白鳥の群れに目を凝らした。


 王子の飛翔に続き、次々と鳥たちが飛び立ってゆく。そして池の上空で旋回して仲間たちが上がってくるのを待っていた。


 水面の群れが半数になったころ、和也は群れの中に赤い強毛をピンと生やした少し体の小さな一羽に目を留めた。するとその一羽がスルスルと彼の立つウッドデッキに寄って来て、ひと声クワーっと鳴いた。


「・・・お前」


 赤い強毛はプイと横を向き、片目でジッと和也を見ていたかと思うともう一度正面を向いて威嚇するようにバサバサ翼を羽ばたかせた。その強毛を同じような体格のまだ若い鳥たちが取り囲み、誘うようにスーッと遠ざかって行き、一羽、また一羽、離水を始めた。若鳥たちは皆、しぶきを飛ばしてらせんを描きながら上昇していったが、赤い強毛の飛翔が群を抜いて力強かった。


 和也はなぜかそれに見とれた。その強毛が上空の鳥たちの輪の中に加わるまで見つめ続けた。だから、一番最初に飛び立った金の輪の鳥と同じ、天使の輪を持つ少し優し気な一羽がすぐそばまで来ているのに気付くのが遅れた。


「あれは、メスですな」


 と先生は言った。


「一番最初に飛び立ったオスのつがいです。この群れの要の鳥です」


 彼女は赤い強毛と同じようにプイと横を向き、じっと和也を見つめた。


「この池で新しいカップルが3組産まれましたが、その一つがこの要の鳥とリーダーなのです。先ほどあなたに寄って来た赤い強毛の母親です。最初はおりませんでしたが、途中からこの母子が加わりました。近くの越冬隊から離れて加わったものなのでしょうが、常識ではありえません。学術的に、非常に興味深い現象です」


 そのメスは横を向いたままクイクイと頭を擡げ何度か羽ばたきを見せた。


「・・・お前、・・・もしかして・・・。イヤ、そんなバカなことがあるわけがない」


「あなたの見たものが全てですよ」


 ベレー帽の先生は言った。


「思ったままを話しかけてごらんなさい」


 和也はカラカラになった喉を絞るように、その名を叫ぼうとしたが、どうしても信じられなかった。


「もう、残りが少ない。今話さないと、飛んで行ってしまいますよ」


 そのメスの背後では次々に仲間たちが離水してゆく。


 いつの間にか池の周辺はこの半年の間心を和ませてくれた白鳥たちに別れを告げようと住民たちが出て来ていた。マンションのベランダにも多くの人が鈴なりになっていた。


 クワーッ!


 その金の輪のメスがひと際甲高い声を上げた。すると上空で旋回している一羽から同じ鳴き声が応えた。


「あれは彼女の旦那さんですな。今行くわ、早く来いと。夫婦の掛け合いをしているのでしょうな。


 ご存じですか?


 白鳥の夫婦愛は非常に強いものなのです。ほとんどのカップルが生涯伴侶と共に過ごし、一生を添い遂げます」


 仲間たちは全て飛び立った。金の輪のメスが最後に残った。彼女は意を決したように最後にひと声鳴くとスーッと池の真ん中に去ってゆき羽ばたきを始めた。身体が浮き、脚が水を蹴った。水しぶきがキラキラと舞い、彼女はらせんを描いてぐんぐん上昇していった。


 と、突然和也が手すりを乗り越え、ウッドデッキの下の池に身を投げた。周囲からキャーという悲鳴が上がった。水深は腰までだったが、構わず和也はどんどん池の中に入って行った。


「さくらーっ! アイーっ 戻って来てくれっ。オレが悪かった。だから。もう一度やり直させてくれっ。さくらーっ! アイーっ! さくらーっ!・・・」


 池に集った住民たちからは、和也の正気を疑う声も上がったが、中には、


「奥さんと娘さんに逃げられて、白鳥に化身したと思い込んでるんだな。可哀そうに。無理もないな・・・」


 と憐れむ者もあった。


 さくらとアイを呼ぶ声はマンションの壁にこだました。それは、マンションと住宅地の人々の耳朶を弄った。





 近所の人々の予想に反して、和也は506号室を引き払わなかった。


 マンションの管理組合に掛け合って、雑木林の草むらの一角、池のほとりに一本の桜の苗木を植えさせてもらった。


 その年の秋、再びオオハクチョウの群れがその池にやってきたが、もうあの金冠をつけたカップルの姿はなかった。そのかわり、赤い強毛のメスが若いオスとつがいになって現れたのを見て、和也は顔をほころばせた。


 その翌年の春。まだ細い桜の木に美しい花が咲いて池の水面に映えるころ、赤い強毛は桜の枝の下で夫と戯れ、506号室のベランダの和也を見上げ、クアー、とひと鳴きして北の国に戻っていった。


 もう人々は「タタリ池」とは呼ばなくなった。


 誰からともなく、いつしかその池は「さくらが池」と呼ばれるようになった。




                   了

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