74話 『樹霜と氷の結晶と』
大きな2本の枝角は一片も欠けることなく雄々しくそびえ立つ。その魔獣の名前はレノウタランドゥスという。
今しがた討伐してきたタランドゥスの大型種であり、その体躯は角を除いても人の身長を優に超えていた。
タランドゥスは角を入れてもトリシャたちの身長と同じくらいの高さしかない。それだけに、より目の前の魔獣の大きさが際立って見えるのだ。
首元と足先はボリュームのある白い毛に覆われていて、それは堂々たる佇まいと相まって、この森を統べる主の様な風貌を醸し出していた。
その様子を遠目で見ていたトリシャは絶句する。
何故なら、クレアリスが魔法で生成した周囲の木の幹よりも太い氷の柱を、その魔物はいとも簡単に砕いてみせたからだ。
巨大な体躯もさることながら、そのパワーだけで今までの魔物とは比べ物にならないほど危険だという事は見て取れる。
レノウタランドゥスの姿に畏怖してしまったトリシャは、離れた木陰で息を潜めながら見守る事しか出来ないのである。
クレアリスを視界に捉えたレノウタランドゥスは長い四肢に力を込める。そして、鋭い爪で土を蹴り上げると、頭部の枝角を前方に向け突進攻撃を仕掛けるのだ。
空中を漂うクレアリスは、魔法陣を描きながら上空へ回避する。
いくらレノウタランドゥスが巨大な体躯と長い角を持っているとしても、空中を自在に動き回るクレアリスに攻撃が届くことは無い。
突進をかわしたクレアリスは、レノウタランドゥスの真上に位置したところで杖を振り下ろす。
描かれた魔法陣から発動した魔法は、彼女の体を覆うほど巨大な氷の塊だ。
その氷の塊は下方が鋭利な六角錐を築いており、その頂点からレノウタランドゥスを目掛け落下を始める。
重力を運動エネルギーに加え加速する氷塊は、レノウタランドゥスの背中へ突き刺さる。かに見えたが、背中から伸びた短い枝角に阻まれてしまう。
しかし、無傷という分けでは無く、氷塊の直撃した枝角は何本か折れてしまうのだ。
上空から落下してきた氷塊を受けたレノウタランドゥスは、体勢を大きく崩す。
一瞬、体は大きく傾きかけるが、胴体から伸びた長い脚をハの字に広げ踏ん張る事で、その場に持ちこたえる。
氷の塊はというと、レノウタランドゥスの背中から生える枝角に当たると同時に軌道がずれ、そのまま地面へ突き刺さっていた。
レノウタランドゥスは頭上に浮かぶクレアリスを見上げる。
それを見下ろす形で見ていたクレアリスは、次の魔法を発動させるための準備を行う。
杖を前に傾けると、肩幅より一回り大きな魔法陣が描かれる。そして、その魔法陣が輝くと同時に、周囲に氷の結晶がいくつも出現するのだ。
宝石の様に透き通る氷の結晶は、クレアリスとレノウタランドゥスを取り囲む様に点在する。
よく見ると、高い場所に位置している結晶は少なく、大多数は地面に近い場所に位置していた。
レノウタランドゥスは鼻さきを大きく空に突き出す。
すると次の瞬間、頭から生える2本の巨大な枝角の間に魔法陣を描き始めるのだ。
その光景にトリシャは驚く。何故なら、魔獣が魔法を扱えるとは考え付かなかったからだ。
トリシャが魔法を覚えた際、この世界の言葉を使った魔法式と魔法陣の描き方を教わった。それを人より知能で劣ると考えていた魔物が扱えるとは思ってみなかった。
それに加え、この世界では魔法を扱えるのは当然という事ではなく、知識が無ければ扱えないものも多い。
そんな中、魔獣が魔法陣を描き魔法を発動させようとしているのだ。驚かずにはいられないのである。
その魔法陣はクレアリスが描く魔法陣に近い大きさを有しているが、魔法式などは描かれておらずシンプルなものだった。
目の前の魔獣が魔法陣を描いたところで、クレアリスは構わず己の魔法の準備を続けていく。
辺りに点在している氷の結晶は、その場で回転をし始める。すると、その結晶を中心に周囲に冷気が立ち込めていく。
草や葉、木の幹や土にまで霜が降りると、それは徐々に広がりを見せるのだ。
クレアリスが描いた魔法陣は一つだ。それは氷の結晶を生成するだけの魔法ではない。その結晶を使い、周囲を冷気で包み、徐々に凍らせていく魔法だったのだ。
周囲の草木が凍るにはそれなりの時間がかかる。その間に、レノウタランドゥスは魔法を使って攻撃を仕掛けてくるのだ。
魔法陣の目の前に生成されたのは、拳大の不揃いな形をした石だ。
複数生成された石は、魔法陣の輝きが大きくなると同時に、クレアリスに向かって発射される。
上空に放たれた石は、真っ直ぐクレアリスの元に進んで行く。
しかし、クレアリスは避ける素振りを見せない。それどころか、氷の結晶を生成した魔法陣を使って周囲に霜を募らせていた。
速度を落とすことなく進む不揃いな形の石は、そのままクレアリスに直撃するかに見えた。
しかし、実際はクレアリスの体に当たる事なく弾き落されてしまうのだ。
魔法により投擲された石は、クレアリスの体どころか、魔法陣に触れる前に弾かれていた。
トリシャが目を凝らして見てみると、魔法陣の色が先ほどより濃くなっているのが分かる。
更に注視してみると、氷の結晶を生み出した魔方陣に重なる様に、一回り小さい魔法陣が新たに描き足されていた。
つまり、杖の前方に氷の結晶を使って冷気を放つ魔法陣と、石を弾いた防御用の魔法陣の2種類を描いていた事となる。
だからこそ、クレアリスは動くことなくその場に留まり続けていたのだ。
クレアリスは防御魔法を解くと、既に描いている氷の結晶の魔法陣の周りに新たに3つの魔法陣を描く。
3つ魔法陣は直径が半分ほどの大きさになる。その魔法陣から生成されるのは先端が鋭利な氷柱の形をしたものだ。
先程の反撃と言わんばかりに、その氷柱はレノウタランドゥスに向けて放たれる。
レノウタランドゥスはそれを素早い動きでかわしていく。
その体躯に見合わぬ素早さを見せるが、全てをかわしきる事は出来ず、氷柱の一つをその身に受けてしまう。
と言っても、分厚い体毛に覆われているお陰か、かすり傷程度の損傷しか与えられない。
その後もレノウタランドゥスは魔法を使って無数の石を放つが、それがクレアリスに届くことは無い。
何故なら、相対する彼女は魔女であり、その魔女に魔法勝負を挑んで勝てるはずが無いからである。
しかも、上空に漂い続けるクレアリスにレノウタランドゥスが攻撃できる唯一の手段は魔法だけだと言えよう。それなのにもかかわらず、触れる事も無くその全てを弾き落されてしまうのだ。
傍から見ているだけのトリシャでもクレアリスの負けは想像できない。それほどにまで、彼女に優位な状況にあると言えよう。
そんな状況でも、レノウタランドゥスはこの場から退こうとはしない。
魔獣の心情を読む事は難しいが、おそらく目の前の魔女が縄張りを荒らし、同属の仲間でもあるタランドゥスを仕留めた者だと理解しているのかもしれない。
戦況が変化しない中、周囲の環境は徐々に様変わりしていた。
予め設置された氷の結晶が放つ冷気は広がりを見せ、気が付いた時には周囲を冬が訪れたかのように一面を霜で覆い尽くしていた。
森の木々たちは雪が積もったかのように白く覆われ、地面には水たまりが凍った時のような薄い氷の膜が数か所生まれていた。
氷の城で暮らしてきたクレアリスは平気かもしれないが、トリシャには肌寒さを感じずにはいられない。
「寒いですか?」
肩をすくめ身震いをするトリシャにアイリスは声を掛ける。
「ちょっとね」
トリシャは声を震わせながら返事をする。
いくら袖の長い服を着てきたといっても、周囲を凍てつかせるほどの冷気を感じずにはいられない。
すると、アイリスは手のひらサイズの魔法陣を描き始める。その魔法陣の効果は、気温の影響を受けなくするものだ。
最初に氷の城へ訪れた時にもかけてもらった魔法で、魔法の効果を受けると同時に周囲がどんなに極寒の地であっても温かさに包まれるものだった。
寒さが気にならなくなったトリシャは、再び目の前の戦いに目を向けようとした。
しかし、ふとそこで気になったのは、ノエルの姿が見えなくなった事だ。
彼女はレノウタランドゥスが現れたその時までは、クレアリスの側に居た。
しかし、気が付けば姿は消え、周囲を見渡しても彼女の姿を捉えることが出来なかった。
そうこうしている内に、戦況は変化を見せ始める。
業を煮やしたレノウタランドゥスが勝負を仕掛けてきた。
上体を屈め、四肢に力を込める。そして体を勢い良く起こしたかと思えば、巨大な体躯を浮かせ空中に飛び跳ねたのだ。
霜の積もった地面を滑ることなく、爪でしっかりと捉え強靭な足腰で地面を蹴り上げていた。
厚みのある体毛に覆われた体は寒さに強く、辺りを冷気が立ち込める中でも本来の動きを発揮する。
跳躍により、空中に身を移したレノウタランドゥスだったが、それでもクレアリスが留まっている高度には届かない。
だが、それで終わりでは無かった。
ただ闇雲に空中へ跳躍したのではなく、レノウタランドゥスには攻撃を当てる算段が整っていたのだ。
空中で背中を丸め、頭を屈める。すると、頭から首、そして背中にまで左右対に突き出している角の先端が急速に伸び始める。
頭から生える大きな2本の角は先端に進むにつれ、それぞれ5本に枝分かれしている。それ以外の背に生える角は、それぞれ3本に枝分かれしていた。
その数十本ある角の先端が、一瞬にして数メートルの長さへと変形する。
一本一本が直槍の様に鋭く尖った角は、標的を刺突するべく同じ方向へ進んで行く。
左手に持った杖を使って制御していた魔法陣を、クレアリスは右手へ移す。そして、杖を使って新たな魔法陣を描くのだ。
新たな魔法陣は、クレアリスの体をすっぽり隠すほど大きなものだった。
その魔法陣は複数の魔法式を組み込んだ複雑な形をしていて、それを今のトリシャが理解する事は出来ない。
襲い来る枝角を、その魔法陣で受け止めていく。
すると、魔法陣より先へ進むことを許されない角は、ただ受け止められるだけでなく、先端から氷に覆われていくではないか。
クレアリスは防御魔法でただ攻撃を防ぐだけでは無かった。その中に氷属性の魔法を組み込み、接触した対象を凍らせたのだ。
危険を察知したレノウタランドゥスは、角を無理やり押し込み、その反動を使って距離を取る。
空中を飛べるわけでもなく、ただ跳躍により滞空していただけのレノウタランドゥスは、そのまま地面へと落下していく。
ドスン。という音と共に着地したかと思えば、バキバキバキ、と地表を覆っていた氷を砕く音が鳴り響いた。
地面が揺れ。その振動は木の幹を伝わり、枝を震わす。
その揺れを体で感じたトリシャは、体勢を少し崩すが隣にいたアイリスが手を添えてくれたお陰で転ばずに済む。
地へと降り立ったレノウタランドゥスは、伸ばしていた全ての角を元の長さに戻す。その角は先端から二割ほどの長さが氷で覆われてしまい、持ち前の鋭さが失われてしまっていた。
おそらく、伸縮する角の長さにも限界があるのだろう。だからこそ、跳躍してまで距離を詰めたのだ。
しかし、それでもレノウタランドゥスの攻撃がクレアリスに届くことは無かった。
身体の大きさを微塵も感じさせない。それどころか、小さなクレアリスの方が終始圧倒していたのだ。
その時だった。何者かがトリシャたちに接触する。




