62話 『勝負の準備と特訓と』
朝目が覚めると、最初に視界に入るのは幼い少女の寝顔だ。さらさらの銀髪に雪の様に白い肌を撫でるのは毎朝の日課と言ってもいいだろう。
ふかふかのベッドの上に丸まり、手を繋いだまま眠っている少女が先に目覚める事は今の所遭遇したことは無い。
トリシャが起床する時には、アイリスは身支度を済ませているだけではなく、トリシャの着替えの服を用意している頃になるだろう。毎朝起きる順番は代わり映えすることは無い。
隣で健やかな眠りにつくクレアリスは、トリシャが手を解くと同時に目を覚ます。
彼女が言うには、手を繋いだまま眠りにつくと安心するのだと言う。その手は朝まで繋がれたままなのだが、何故か手を離すと目を覚ますのであった。
目を覚ましたクレアリスが一番初めに口にする言葉は、「おはよう」の4文字である。
その言葉にトリシャは、同じ4文字の言葉で返答するのだ。
常緑の魔女の領域である森から帰って2日。一時は森に踏み込んだ事を後悔し、死を覚悟したのだが、それはルミエーラの登場によって終わりを告げた。
あの後、常緑の魔女エカテリーナが出した条件を呑む形で決着が付くのだが、それはルミエーラが勝負を受ける事を意味する。
結果から言えば、お互いの主張を勝負に委ねる事で森からの脱出には成功する事になるのだが……
朝食を終えたトリシャは脱衣所にある洗面台で歯を磨きながら物思いにふけていた。鏡越しに映る自身の姿は何処か間抜けな表情で、寝起きでも無いのに生気の抜けた顔をしている。
そんな自身の顔と睨めっこしながら、歯を磨く手を動かし続けていく。
「トリシャ、もう到着したみたいです。準備が整い次第始めるそうです」
脱衣所にやって来たのはアイリスだ。腰にはポシェットを携えた彼女は、報告を終えると、トリシャの歯磨きが終わるのを待つ姿勢へと移る。
トリシャは水で口を濯ぐと、口に含んだ水を洗面台の排水溝へ向かって吐き出す。
歯磨きを終えたトリシャは、アイリスの手を取ると飛行艇の外まで一緒に足を運んでいく。
好奇心だけで常緑の魔女の住まう森へ足を踏み入れ、危険な目にあったにも拘らず、トリシャは外出を許されている。
今までなら、怒りと共にルミエーラに説教され、数日間は外出を禁止されていただろう。――アイリスとクラリーチェ共々ルミエーラの説教は食らったのだが……
何故、トリシャが外出を許されているかと言うと、エカテリーナから受けた勝負事に起因する。
魔女と魔女が対峙するあの場を、早々に切り上げる事が出来たのは、エカテリーナが提案した勝負をルミエーラが受けたからだ。
その内容というのが、お互いの従者による代理戦という事に決定した。
もし、当の本人たちである魔女同士が戦うのなら、わざわざ後日に勝負なんてしない。それどころか、あの場で話し合いもせず戦った方が手っ取り早いのだ。
それがトリシャの外出とどう関係があるのか?
答えは簡単だ。
トリシャがルミエーラの従者としてエカテリーナの従者と戦う事に決まった。その結果、勝負の為の特訓が始まってしまったのだ。
何故、トリシャが選ばれたかと言えば、お互いの従者で一番弱い従者を選ぼうと決まってしまったからだ。
エカテリーナにすれば漆黒の魔女との共闘が目的なのだ。お互いの従者の疲弊を望んでいるわけでは無い。
ルミエーラにしても、面倒事を連れてくるトリシャに対し、自己防衛手段を磨く為の特訓という名目が得られたこととなる。
つまり、外出とは言っても自由に街を歩けるわけでは無く。森の中でひたすら魔法の練習をしなくてはならない。
魔法を教ええ貰う事に好意的な態度を示していたトリシャであっても、魔法での戦闘が控えている中で、それを楽しく思える神経を持ち合わせてはいなかった。
用事が無い時はルミエーラが直々に教示するのだが、何かと私用が多いらしく、基本はアイリスに教えてもらう形をとっている。
そして、常緑の魔女の件があったからなのか、クラリーチェは文句や悪態を付く事も無く見張り役を買って出てくれていた。彼女なりに責任を感じてのことなのだろう。
そんな経緯もあり、トリシャたちは常緑の魔女の住まう森の近くから場所を移して魔法の練習を行っていく。
覚えなくてはいけない魔法は大きく分けて2種類となる。
まず1つ目は移動用の魔法だ。
魔女やその従者のように、魔法を主体として戦う者たちの基本戦法は、防御魔法を展開しつつ被弾を最小限にとどめる為に魔法により空中移動を行いながら攻撃魔法を扱っていく。
空中を浮遊するメリットは2つある。
基本的に武器を持たない魔女は接近戦に弱い。特に剣士などの接近戦を得意とする者と対峙した場合に接近を回避し距離をとることが出来る。
そして、立体的動きをする事により回避を行いやすくするだけではなく、空間を広く利用した多角的攻撃が可能となるのだ。
攻撃の回避に移動、位置取りと、戦闘を行う上での空中移動が占める比重は大きい。まず初めに空中魔法を覚えないと話にならないと言っても過言では無いほど実戦では必要になるのだ。
次に2つ目は攻撃用の魔法だ。
トリシャはいくつか攻撃用の魔法を教えてもらってはいたが、それは実践レベルではない。
なぜなら、相手も防御魔法を使うのは当然で、それを上回る威力が無ければ防御魔法を削る事すら出来ないのである。
トリシャの攻撃魔法では牽制位にしか使えないほど威力不足であると言えよう。
それに加え、実践の中で移動しながら移動する相手に魔法を命中させる技量も持ち合わせていない。
威力の高い攻撃用の魔法を覚える事は、勝負に勝つうえでは必要不可欠なファクターと言えよう。
それらに加え、既に習得済みの防御魔法の強化も必要となってくる。
まだ空中を移動する魔法を覚え始めたばかりのトリシャには、実践的な動きが出来るはずもない。
そんなトリシャは、ひたすら空中を移動する魔法の習得に時間をかけていくのであった。
勝負の日を翌日に控えた夜、トリシャは不安からか中々寝付けないでいた。
隣で眠るクレアリスは、いつもと変わらぬ寝顔をこちらに向けている。その愛らしい寝顔を見たとしても心が落ち着くことは無く、不安で胸を一杯にしていた。
「寝られませんか?」
クレアリスを起こさないように、アイリスは小声で話しかける。その声を聞いたトリシャは向きを反転させアイリスの方向へ首を向けるのだ。
「うん。まだ眠れそうにないかな」
トリシャは苦笑いを浮かべながら返答をする。
「明日の事ですか?」
「うん。できれば戦いたく無し、何で僕なのかなぁ?」
勝負を呑むことで、あの場を切り抜けることが出来たのだ。あのままルミエーラが駆けつけなければ、正直どうなっていたのか想像がつかない。
トリシャは、勝負自体は避けられない事だと理解しつつも、その勝負を自分が背負わなくてはならない事に納得が出来ていなかった。
「私が代わってあげられれば良いのですが……」
アイリスはルミエーラの従者である。その従者であるアイリスが、主が決めた勝負事に口を挟むことは簡単にはいかない。
ましてや、今回は主であるルミエーラにピンチを救われたのだ。アイリスはおろかトリシャにだって口を挟むことは出来なかった。
「しょうがないって分かってるんだけどね。分かってても不安は無くならないんだ」
「大丈夫です。今回の勝負は命を奪う目的ではありませんから。
それに、もし負けたとしても、トリシャに危険が及ぶ前に私が止めに入ります」
アイリスは懸命に不安を取り除こうと言葉をかける。
しかし、もし負けたら漆黒の魔女と戦わなくてはならないと考えると、それがプレッシシャーとなり不安を助長してくるのだ。
漆黒の魔女との間に確執があるのは、今までのやり取りを見ていれば気付く事は容易であろう。
アイリスやアリアにとって、トラウマとも呼べるべき相手に挑まなくてはならない事態を避けたいと思うのは当然の事だ。
となれば、トリシャには勝つ以外の選択肢は無くなる。
魔法による実戦が初めてなのはもちろん、相手の実力も分からない。こんな状況で不安など払拭できる筈も無い。
「負けっちゃったらどうしよう……」
思わず、独り言のように声に出てしまった。トリシャは声に出していた事を自覚すると、慌ててアイリスの様子を伺う。
「負けてしまっても仕方ありません。
トリシャは魔法を覚えたばかりなのですから。どんなにトリシャに魔法の資質があろうと、今は初心者なのです。
気負わず、怪我をなるべくしない様に気を付けてくれれば、私としては十分です」
アイリスは穏やかな口調で話す。
トリシャが結果や最悪の事態ばかり考えているのに対し、彼女はトリシャ自身の身の心配をしていた。
負けた後の話をすれば、漆黒の魔女の名前が出て来てしまう。トリシャはその話題だけには触れない様に気を付けていたからこそ、先程の独り言を悔いるのだ。
「でも、僕が負けたら……」
弱気になっているトリシャは、考えとは裏腹に負の言葉が口を付いて出てしまう。
「負けたとしても心配はいりません。
勝負を引き受けたのはルミエなのですから、トリシャが責任を感じる必要は無いのですよ」
「でも……」
トリシャは言い淀む。何故なら、漆黒の魔女というフレーズが喉から先へと出てきそうだったからだ。
「もし、私の事を気にかけてくれているのなら、その必要はありません。
仮に漆黒の魔女と戦う事になってもルミエがいますし、私がトリシャを守りますから。変に気負う必要は無いのです」
トリシャの空いた左手を取ると、アイリスは両手で握りしめる。
どうやら、トリシャが抱えていた不安は全て筒抜けだったみたいだ。トリシャの不安を余所に、彼女は何気なく漆黒の魔女というフレーズを声に出していた。
「じゃあ、危なくなったら棄権しても良い?」
トリシャの質問にアイリスは首を縦に振りながら返事をする。
「大丈夫です。私が側に付いていますから」
アイリスの口から大丈夫という言葉を聞くと、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
トリシャは、彼女の言葉を信じる事で、不安を和らげていく。
「明日は出来る範囲で頑張ってみるよ」
「無理はしないで下さいね」
アイリスのおかげで、トリシャの不安の色は薄まっていた。
だからなのか、明日の勝負に前向きに挑もうという考えを持てるようになっているのだ。
それに、もし負けたとしてもルミエーラの所為にすればいいと考えると、心なしか気持ちが楽になる。
だんだん気持ちが落ち着いてきたトリシャは、自然と眠りへ入って行く。右手にクレアリス、左手にアイリスの手を握ったまま……。




