53話 『喋り方の手本と訂正と』
右半身にのしかかる重みからは、ほんのりとした温かみと適度な弾力が送られてくる。布団に包まれた空間の中は、ポカポカと心地良く、中々眠気が無くなってはくれない。
ぼんやりとした意識が少しずつハッキリしてくると、右半身にのしかかる重みの正体を突き止める事が可能になる。
その正体というのは、部屋の主であるクレアリスの体だった。右腕を抱える様に抱きついてくる彼女は、まだ気持ち良さそうな表情で眠りに就いている。
腕はガッチリと組まれており、右足も彼女の太腿に挟まれている所為で、ベッドから動けそうにない。
トリシャは空いている左手を使い、当分は目覚めそうにないクレアリスの頬に触れてみる。
「何これ? 気持ちいい」
滑らかで柔らかく弾む頬は、まるで赤ちゃんの肌の様な触り心地だ。
その肌触りの良さに、トリシャは少しの間だけ夢中になってしまう。
ふと、左側を向いてみる。しかし、そこにアイリスの姿は無かった。
昨夜は3人で一緒に寝た筈なのに、ベッドの上に彼女の姿だけが無いのだ。おそらく、一足先に目覚めた彼女は、部屋に戻って着替えをしているに違いない。
その内戻ってくるのだから、心配する必要は無いのである。そう思ったトリシャは、引き続きクレアリスの頬に触れていく。
誰も見てないとなると少しだけ大胆になるもので、彼女の頬を好き放題撫で回す。
「ん、ううん」
気持ち強めに触っていた事もあり、クレアリスは眉間にしわを寄せる。
慌てて手を離したトリシャは、動きを止めて彼女の様子を伺う。
「トリシャ? おはよう」
まだ半分程しか開いていない虚ろな目でトリシャを見つめると、クレアリスは朝の挨拶をする。
未だに腕と腕が絡み、足は太腿で挟まれたままなのだが、彼女はそれを解こうとはしない。
「おはよう。良く寝られた?」
「うん。誰かが横にいるのって、こんなにも嬉しいものなのだな」
目を細めたまま笑みを零すクレアリスは、誰がどう見ても幸せに満ちた表情をしている。今まで1人で生活していた彼女が言うからこそ重みのある言葉へと変化するのだ。
実感の込められた言葉にトリシャは、ただ同調するだけなのだ。
「毎日でも一緒に寝てほしいのだが……ダメか?」
先程まで閉じていた瞳は真っ直ぐトリシャの目を見つめている。その麗しげな瞳を前に、頼みを断れる者などいるはずが無い。
そう感じたトリシャは、黙って首を横に振るのである。
「そうか、毎日でもいいんだな」
そう言いながら微笑む姿は、無邪気で可愛らしい。
しかし、彼女の誰かに似た口調が、その可愛さに歯止めをかけているようにしか見えないのが残念な所だった。
「ねぇ、クレアリスのその喋り方って、ルミエーラの真似をしてるの?」
少し前まで犬猿の仲だった2人は、更にその前は仲が良かったに違いない。
そう思ったトリシャは、彼女の口調が一緒に生活していた者に似たのではないのかという仮説を立てたのだ。
「ルミエに似ているのか?」
「そんな感じがしただけ」
何処と無く嬉しそうな表情を浮かべる彼女は、無意識の内に喋り方の癖が写ってしまったみたいだ。
しかし、幼さの残る彼女の可愛さに、その癖は似つかわしくない。
「僕からもお願いなんだけど、そのもっと女の子らしい喋り方にしてみるのはどうかな?」
「女の子らしく?」
クレアリスはピンと来なかったのか、その表情はキョトンとした面持ちに変化する。
「女の子らしくと言われてもよく分からないし……出来なければ一緒に寝てくれないのか?」
勝手に交換条件だと勘違いした彼女は、今度は不安げな表情に変わるのだ。
そのコロコロと変化する可愛らしい顔は、見ているだけで和やかな気持ちになってしまう。
「喋り方関係なく寂しい時だけ一緒に寝てあげる。でも、女の子らしい喋り方の方が、もっと可愛く見えるのになって思っただけ」
「う、可愛い……か」
面と向かって可愛いと褒められたクレアリスは、照れ混じりに喜びを噛み締める。
「でも、女の子らしいと言われてもどうすればいいか……」
「アイリスやアリアの口調を真似るとか?」
「でも、あいつら敬語しか使わないぞ」
「確かに……」
言われてみれば、アイリスもアリアも基本的には敬語でしか喋らない。その口調は従者として生きる彼女たちの生業かもしれないし、魔人と人間の隔たりかもしれない。
それはともかく、彼女たちが敬語しか喋らないのなら、参考にならないのだ。
「でしたら、トリシャの口調を真似てみてはどうでしょう」
急な声に振り返ると、入口の扉を閉めているアイリスの姿があった。
その服装は、昨夜着ていた星柄の服ではなく、白いブラウスに紺色のジャンパースカートと、普段通りの服装に身を包んでいた。
トリシャの予想通り、着替える為に部屋へと足を運んでいたみたいだ。
彼女は扉を閉め終わると、ベッドの傍へと歩み寄ってくる。
「トリシャの喋り方か。確かにそれなら、真似しやすいかもしれん」
「ちょっと待って、僕は女の子っぽい喋り方なんてしてないよ」
トリシャは慌てて起き上がると、アイリスに向かって異を唱える。
「クレア様にとって身近で敬語を使わずにルミエの様な口調を使わない人なんてトリシャ以外に思いつきません」
アイリスの言っている事は、もっともらしく聞こえる。
しかし、大前提としてトリシャ自身が女の子らしい喋り方を意識した事は一度も無い。それなのに女の子らしい喋り方の手本とされるのは納得がいかないのは当然である。
「僕って言うのは女の子らしいのか?」
クレアリスも体を起こすと、納得のしていないトリシャに質問を投げかけてくる。
「いや、そこは私って言った方が女の子らしいと思うよ」
「そうか」
言葉を噛み締めるクレアリスは、既にトリシャの口調を模範とする事を決めた様子だ。
「良いでは無いですか。体はとっくに女の子になり、生前の記憶も曖昧なのでしょう?
女の子として生きていくきっかけとして、まずは形から入るというのは如何でしょか?」
「いや、でも……」
最近は性別の事を考えない様にしていた。
何故なら、間違いなく美少女と呼べるほど美しいアイリスに、着替えを手伝ってもらったり、一緒の布団で寝たりしている。
無闇に自身を男だと意識すれば、それらの行為によって羞恥心に押しつぶされてしまうからだ。
だからといって、自身が女の子として生きていくには、心の準備が伴わない。
トリシャは、アイリスの提案に躊躇してしまう。
「トリシャが女の子らしい喋り方にしろと言ったんだ。だから、私に女の子らしい喋り方について教えて欲しい」
クレアリスはトリシャに抱きつくと、耳元で呟いた。その吐息混じりの声に、思わず背筋が震えてしまった。
「わかった、わかったから」
急なスキンシップに同様が生じた所為か、不本意ながら承諾してしまう。
振り解こうと体を攀じるも、両手でガッチリと掴まれている為、それは叶わなかった。
「僕に女の子らしい喋り方が出来るかわからないから、参考になるとは限らないけど、ルミエーラよりマシだと思う」
特に女の子らしい喋り方を意識した事は無い。
しかし、少なくともルミエーラや現在のクレアリスよりか、幾分か女の子らしさはあるだろう。例えその差が、どんぐりの背比べ程しか無いとしても。
「決まった所で、朝食の前に入浴されますか?それとも着替えだけにしときますか?」
氷の城で生活していた時は、毎晩夕食後に入浴を行っていた。
しかし、飛行艇で生活していた時は、基本的に朝入浴をし、外出した時には追加で帰宅時に入浴を行っていた。
それは、飛行艇内での行動の選択肢が少なかったからかもしれない。
「今日も魔法の練習で外に出るから、お風呂は帰ってきてからにするよ」
「かしこまりました」
クレアリスの腕から脱出すると、トリシャはベッドから体を下ろすのである。
「着替えるから、一旦部屋に戻るね」
「そうだな。私も着替えるとするか」
クレアリスは後ろを向き、昨夜寝る前に閉まっていたイヤリングを、ベッドに備え付けられている引き出しから取り出す。
「今の言葉をトリシャっぽく言うと「わかった。私も着替えようかな」になりますね」
クレアリスの口調の改善に一番積極的なのは、どうやらアイリスの様だ。
部屋の扉に手をかけた所で、すかさず訂正を入れる。
「そうか、そう言えばいいんだな」
納得を示すものの、クレアリスの口調は一貫して元のままだ。
「返事を含めて気を付けないと、女の子らしい喋り方は身に付きませんよ」
何事も最初が肝心だ。一見厳しく見えても、アイリスの様に注意を促す人の存在は必要だろう。
トリシャが手本を見せアイリスが訂正するとう構図が出来上がりを見せたのだ。
「う、わかった。これからは気を付ける」
アイリスは従者という身から、普段は一歩下がりがちだか時折、不思議なくらい自己主張の強い時がある。
それは彼女の個性でもあり魅力なのかもしれない。
アイリスに責められて大人しくなるクレアリスを見ると、彼女らの関係が親子に見えてくるから不思議である。
その光景を見て、クスリと微笑むトリシャであった。
「あ、トリシャ」
部屋を出ようとした瞬間、クレアリスが呼び止める為の声を出す。
アイリスは既に通路まで出てしまったが、トリシャは扉に差し掛かった所で歩みを止める。
「どうかしたの?」
「今夜はトリシャの部屋で寝ても良いかな?」
恐る恐る言葉を紡いでいく様子は女の子らしい口調を意識しての事だろう。はたまた、トリシャの口調を真似ただけかもしれない。
何れにせよ、口調の改善に努めようとする姿勢が感じられるのだ。
「良いよ。喋り方も今の感じで頑張ってね」
クレアリスは嬉しそうに頷く。
その様子を確認した後で、トリシャはアイリスと共に自室へと戻るのだ。
撫子色の髪の毛は所々寝癖によって不規則なカーブを描いている。そこに細く綺麗な指が通る事で、毛の縺れは徐々に解消されていく。
自室に戻ると、トリシャ化粧台の前にある椅子に腰掛ける。その後からアイリスが、寝癖を整える為に髪を解いていくのだ。
指である程度の縺れを解くと、今度は櫛を使って毛先まで綺麗に揃えていくのである。
「今夜も3人で寝る事になりますが、私は邪魔ではありませんか?」
ベッドが窮屈になるのを気にしているのだろう。
しかし、トリシャにとって問題はそこには無かった。
何故なら、ベッドが窮屈に感じる事よりも、可愛い女の子と寝床を共にするという境遇に緊張してしまうだけなのだから。
「アイリスを邪魔だなんて思った事ないよ。じゃないと、毎日一緒に寝るのを許可したりしないよ」
鏡越しに目が合うと、アイリスは嬉しそうに微笑んで見せる。
彼女の笑顔が向けられる度にドキドキしてしまうトリシャであったが、それ以上に幸せな気持ちへとなるのだった。
「トリシャとクレア様が仲良くなられて本当に良かったです」
アイリスは櫛で解く手を止めると、トリシャの髪の毛を束ねていく。
髪の毛の左半分を束ねると、耳の上で一纏めにする。そして、紺色のリボンを使って束が崩れないように固定していくのだ。
アイリスの手の動きには無駄がなく、何時も1回で結び終えてしまう。
それはトリシャには真似しようにも不可能な事なのである。
「僕もクレアと仲良くなれて良かったよ。この世界で初めての友達だし」
「クレア様とだけでなく、アイリスとも仲良くしてくださいね」
左側の髪の毛を結終えると、アイリスは露になった耳元で囁く。
不意に耳元で吐息混じりに囁くものだから、トリシャの体はビクッと小刻みに揺れてしまう。
照れが生じてしまったトリシャは、小さく頷く事でしか返事ができなくなってしまうのだ。
そんなトリシャの反応を見たアイリスは、意地悪っぽく笑みを浮かべると、今度は反対側の髪の毛を結っていくのであった。




