16話 『甘めのお菓子と手作りの味と』
アリアの姿を求めて食堂へと赴くと、奥の方から甘い香りが漂ってくる。その香りに誘われ調理場を覗くと、料理をしているアリアの姿を視界にとらえることが出来る。
トリシャは食堂と調理場の狭間で、オレンジ色に光る調理器具を真剣なまなざしで見つめている猫耳の少女の姿を眺めていた。
「どうかされましたか?」
入口の陰に隠れて中の様子を伺っているトリシャに対し、後ろにいるアイリスが訪ねる。
おめかしした姿をアリアに見せに来たのに、その手前で踏みとどまるのは、アイリスから見れば変に見えるだろう。
トリシャは今更ながら照れが生じ、中に入るのを躊躇してしまったのだ。
「真剣に仕事しているみたいだし、邪魔しちゃ悪いかなって」
「もう、ここまで来て何を言っているんですか。ささ、行きましょう」
若干、アイリスに押し切られる形で、厨房の中へと入っていく。トリシャは緊張からか人形の様に固まってしまっていた。
「アリア、見てみて」
アイリスが声をかけると、その声に気が付いたアリアが顔を上げる。まだ心の準備が出来ていなかったトリシャは、アイリスの陰に隠れる形で視線を下げてしまっていた。
「どうかされましたか?」
「トリシャがおめかしをしたので見てもらおうと思って連れてきました」
そういうと、アイリスはトリシャをアリアに差し出す様に見せるのであった。
トリシャはスカートの裾をギュッと握り、伏し目がちに彼女の様子を伺う。
「服装も髪型もトリシャに良くお似合いです」
アリアはトリシャの元に駆け寄ると、覗き込むようにして全身を隈なく見つめる。アイリスが言っていた様に、彼女の喜ぶ姿を見てトリシャはようやく緊張から解放されたのだ。
「そうでしょう。お望みになるなら、これから毎日結って差し上げたいくらいです」
想像以上に好評な髪型にトリシャは気分を良くする。初めは邪魔にならない様に結んでおく事が目的だったが、2人に好評なのなら毎日結っても良いと感じていた。
「僕も結んでくれた方が髪の毛が邪魔にならなくて済むし、自分じゃできないから結ってくれると助かるかな」
「では毎朝結わせていただきますね」
アイリスは快く承諾してくれる。彼女も望むことなので当然なのだが、それでもトリシャは嬉しく思うのだった。
「化粧をしてみてもいいかもしてませんね」
またもや、アイリスが唐突に閃いた事を述べる。トリシャにしてみれば髪の毛は纏めることで邪魔にならないメリットがあるが、化粧をするメリットは存在しない。
「私はこのままでも十分可愛いと思いますが……」
「そうですか? 化粧をすることでより美しくなると思ったのだけど……」
目の前で少女たちが、化粧をするかしないか議論し始めた。この場合化粧をすることになるのはトリシャなのだが、本人を置いて気ぼりして少女たちは真剣に悩み始める。
「一回化粧をしてみてはどうでしょう。それで良し悪しを決めてみては」
「そうですね。それなら今からでも試す価値はありそうです」
どうやら話は纏まったみたいだ。彼女たちが出した結論は、一回試してみて評価をするつもりらしいが、その実験に使われるのはトリシャ自身の体となる。
「待って、待って! 試さなくてもいいよ。しないから」
トリシャは慌てて2人を抑止する。彼女たちは不服そうな顔をするが、これ以上彼女たちの玩具になるつもりは毛頭無い。
「えー、ダメなんですか?」
「ダメというか、好ましくないというか」
手を取って懇願するアイリスにトリシャは面と向かって断ることが出来ない。
この手の攻撃を回避する能力を備えてはいないのだ。だからこそ、こうして遠回しに拒否することしか出来なくなってしまう。
「アイリス。トリシャが困ってしまっていますよ」
「すみません。つい」
アリアに注意を受け、アイリスは分かりやすく気を落とす。浮き沈みが激しい様にも思えるが、これも彼女なりに良かれと思ってとった行為なのだろう。
そうした愛おしさに溢れる彼女を、トリシャが咎めることは決してない。
「髪を結ぶのは邪魔にならない様にって目的があったし、化粧は必要ないってだけだから、そんなに落ち込まなくても平気だよ」
「では、外出するときはどうでしょう? 外へ出る時は身なりに気を使うのも必要な事だと思われます」
切り替えの早いアイリスにトリシャはたじろいでしまう。差し迫ったことについて反省はしたのだろうが、彼女は化粧に付いてはまだ諦めていなかったみたいだ。
「それは良い考えですね」
アリアにも賛同されると、トリシャに勝ち目は無かった。ただでさえ断る事を苦手としているのに、2対1となっては分が悪いにも程がある。
「わかった。買い物に行く時だけ、ね」
トリシャの許しがでると、彼女たちは嬉しそうに微笑んでいた。このまま彼女たちの着せ替え人形にされる未来も見えたが、それはそれで悪くないと思ってしまうあたり、気を許している証拠なのだろうとトリシャは心の内で感じた。
すると突然、電子音の様な音と共に軽快なメロディが流れる。音の方向を見ると、先ほどまでアリアが真剣な眼差しで見つめていた、オレンジ色の光を発していた調理器具だった。今は暖色の光を失い、調理器具は稼働していない事が見て取れる。
「あ、焼きあがったみたいですね。用意をしますので、先に食堂の席に付いていてください」
そう言うと、アリアは調理器具の中から金属でできた薄い板を取り出す。その中には一口大に小分けされた焼き菓子の様なものが複数枚規則的に並べられている。
少女が調理器具から取り出すと同時に、室内に芳ばしいバターの香りが広がった。
「いい匂い。それってクッキー?」
「そうですね。正しくはスコーンと呼ばれていますが明確な違いがあるわけではないので、そのような認識でも構いません」
よく見ると、丸く厚みのある外観は想像するクッキーよりも厚みがある様に思えた。
なんにせよ美味しそうな匂いに食欲が刺激される。早く口に運びたいところだったが、トリシャは大人しく言われたとおりに食卓の席に付くことにした。
アイリスと共に席で待っていると、アリアがティーセットと先ほど出来上がったスコーンを運んで来る。
彼女はそれらの乗ったワゴンを食卓まで押してくると、順番に食卓を飾っていく。嗅覚を刺激されると、口の中で唾液の量が増えていくのが感じられる。
「それではお茶会といたしましょうか」
ティーカップに紅茶が注がれると、アリアによって快然たる会合が開かれるのであった。
まず手を伸ばしたのは焼きあがったばかりのスコーンだ。手で触れると温かく、出来立てである事を表している。
口に入れると、サクッとした食感と共に口の中にバターの甘い風味が広がる。中は思ったよりもふんわりと優しい口当たりがする。
紅茶との相性は抜群で、昨夜の様に入れてくれたミルクティーと合わせて食べると、無限に食べていられるくらい豊かな味わいを与えてくれる。
「んー、このお菓子美味しいね。紅茶とも合うし、いくらでも食べられそうだよ」
「お口に合われた様で良かったです。今お召し上がりになったのはクリームとバターを多めに入れたものです」
トリシャの感想を聞きご機嫌になるアリアは、彼女が口にしたお菓子の解説をする。
甘党のトリシャに合わせて、いつもよりクリームを多目に使う工夫を凝らしたのだ。それが褒められたのだから悦に入るのも当然だといえよう。
「このクロッテドクリームやイチゴジャムを付けて食べても美味しんですよ」
アイリスに勧められるままにクリームを付けてみる。クリームの滑らかな口当たりが焼き菓子の乾いた生地を優しく包み込む。クリームを乗せることによってまた違った味わいを得ることが出来る。
「んー、こっちもこっちで美味しい」
甘いお菓子を口いっぱいに堪能しミルクの入った紅茶を啜る。これほどにまで至福の時間が訪れようとは目覚めたばかりのトリシャには想像が出来なかったことだ。
「アリアったら昨日からこのクリームを用意していたんですよ」
「トリシャに食べてもらいたくて……」
まるで恋人に手作りのお菓子を食べてもらっているように、アリアは朗らかな表情でトリシャを見入るのであった。
「アリア、ありがとう。」
「良かったわね、アリア。」
トリシャから直接賛辞を受け取り、アリアは喜びを噛みしめる。内情を表現することはなかったが、その喜びは彼女の顔に浮かび上がっている。
「他にも複数の種類を作りました。こちらは生地にチョコレートを混ぜたもので、こちらはチョコレートチップを入れたもの。ベリーを入れたものと、生地にチーズを練り込んだものも用意しました」
アリアは嬉しさのあまり饒舌に焼き菓子の種類の説明をする。トリシャはどの種類であっても美味しく食べるに決まっていた。
「焦らなくても全種類食べちゃうよ。こんなに美味しいお菓子を作るなんてアリアは罪だなぁ」
「罪……ですか?」
トリシャの言葉選びが悪かったみたいで、アリアの顔に不安の色が現れる。
ニュアンスとしては、美味しすぎて食べすぎてしまうから抑制が効かないといった意味で発したわけだが、言葉の一端だけを受け取ってしまえば、アリアが悪いと言っている様にも聞こえなくもない。
「良い意味でだよ、良い意味で。だって食べすぎちゃうと太っちゃうかもしれないじゃん」
アリアはその言葉を聞き安堵する。アイリスだけでなくアリアまでもが、トリシャの言葉に過敏に反応してしまうのだ。
ついつい出てしまう言葉の綾くらい見逃して欲しいと、感じられずにはいられないトリシャであった。
「食べ過ぎて太っちゃうのは避けたいよねー。体が動かせたらいいんだけどなぁ」
「それでは、明日の買い出しに付いて行くっていうのはどうですか? ルミエは私が説得しますので」
トリシャの願いを聞き、アイリスは提案をする。
確かに、買い出しで街を歩けばいい運動になるのかもしれない。部屋と食堂を往復する生活が不摂生なのは目を見張らなくても明らかだ。
「そうだね。ルミエーラが帰ってきたら相談しようか。体も動かさないと、せっかくのこの細い体が丸くなっちゃっても嫌だしね」
綺麗な体に生まれ変わったのなら、それを維持したいと思うのは人の性なのだろう。美味しいものは食べたいけど痩せていたいと思う気持ちはごくごく自然な事なのだ。
「例えふくよかになられましても、私たちは相も変わらずお慕いしますよ」
「故意に太らせるのだけは止めてよね!」
変わらずに慕ってくれるのは有り難い事だが、そもそも食べ過ぎて肉付きが良くなってしまうことを避けたいのだ。
トリシャはアリアの美味しい料理に負けない様に、体を動かしていこうと決意するのであった。
その後もトリシャは快然たるお茶会を堪能した後、文字の勉強と称した絵本の書見をするのであった。
部屋に戻ってもすることもなく暇を持て余したトリシャは、アイリスに教えてもらいながらルミエーラの帰りを待つことにした。
そうやって時間を潰すうちに夕食の時間になり、帰宅したルミエーラと共に食堂へと会するのであった。
「言われた通りに可愛らしい服装をしてくれたんだな。」
「あなたの為に着たんじゃありません」
改めて人前に出ると恥ずかしさが込み上げてくる。トリシャは目を合わせることなくぶっきらぼうに呟いた。
「そんなこと言ってると可愛い顔も服も台無しだぞ。髪型まで変えて可愛くしているんだから、可愛げも身に付けたらどうだ?」
こうして面と向かって可愛いと連呼されると悪態をつくことも出来なくなる。よく恥ずかしげもなく言えるなと、トリシャは思わず感心してしまう。
「明日買い出しに付いていこうと思ってるんですが、構いませんか?」
困り果てたトリシャは話題を転換することしか出来なかった。照れを隠す様に分かりやすく話を逸らす。
「話は聞いたぞ。明日の買い物に付き添いたいって。
昨日の今日だから普段なら却下するところだが、急に明日も仕事を頼まれてなぁ。断ろうと考えていたところだが、丁度いいから引き受ける事にしたから明日はお前たちだけで行ってこい」
食事前に一足先にルミエーラの元へ赴いたアイリスから話を聞いたのだろう。彼女にも彼女なりの予定があるみたいで、渋々ながら許可を得ることに成功した。
昨日、犯罪者集団によって連れ去られた後だ。普通なら警戒しない方がおかしい。なんにせよ買い出しという名義で街に行くことが出来て期待で胸が膨らむ。
「アイリスを護衛に付けるとして、アリアはどうする?」
「私は……」
「迷うくらいなら付けて欲しいかな。2人いた方が安心でしょ?」
返答に躊躇するアリアに代わってトリシャが返事をする。
街には危険がつきものなのは、この前の一件で重々承知した。しかし、護衛が2人になればより一層安心して買い出しを行うことが出来るだろう。
「それもそうだな――よし分かった。明日はお前たち3人で買い出しに行ってこい」
ルミエーラから正式にお許しが出る。外出の許可を得たトリシャの表情は、これまでにないくらい明るい顔つきとなるのだ。
「ついでに、もう一つ提案をしたいんですが。役割というか部屋に籠っていてもやる事は無いし、勉強だけだと疲れちゃうし、運動不足になって太るのも嫌だから。何かできる事とか無いのかなって思ったのですが、何か僕に与える役割ってありませんか?」
今日一日過ごしてみて分かったことは、思った以上に自身に出来る事が無いという事実だった。
文字を覚えるための勉強も必要な事だが、何時間も立て続けに集中し続けるのは不可能だといえよう。
家事全般はアリアが担当し、身の周りの世話をアイリスがやってくれる。ルミエーラも詳しくは分からないが仕事や研究というものがあるみたいだ。
この住居の住人の中で、何も役割が無いのはトリシャだけであった。
「そうだなぁ、今のところ何も無いんだよなぁ。考えとくから明日は外に行ってこい」
そうそう直ぐに役割を与えられるとは思っていなかったが、トリシャは予想通りの答えに気を落とす。
「後、いくら食べても太らないから気にするな。」
「それってどういう……」
「そういう構造になっているんだ」
疑問を遮る様にルミエーラはトリシャの言葉を遮る。
食べても太らない体質という事なのだろうか? 食べても太りにくい体なら今日みたいにアリアの作ったお菓子を気にせず食べられるという事なのだが――
「文字を覚えればやれることも増えるはずだから、今は文字を読めるように努めることだな」
ルミエーラの言う通り文字も読めないのだから出来ることも少ないのだろう。アリアやアイリスみたいに満足に1人で買い出しを果たす事も出来ないのだ。
それに、魔女である彼女みたいに魔法が使えるわけでもないのだ、1人で街を出歩くことも出来ない今、駄々をこねても彼女を困らせるだけだ。
今は自分の出来る事――文字の勉強に時間を費やすとしよう。
夕食を終え自室に戻ると、トリシャは真っ先に机へと向かった。机に置いてある絵本を取ると、一行ずつ読み進めていく。
まだ、アイリスの補助無くしては最後まで読み切ることはできないが、覚えた単語と恩に描かれている絵を見ると話の内容は大まかにだが理解することが出来る。
トリシャがしばらく1人で絵本を読んでいると、食堂に残りルミエーラやアリアと話をしていたアイリスが部屋へとやって来た。
「この後はお風呂に入られますか?」
「今日は外に出てないから明日の朝に入るよ」
昼間に一度入浴をしているので、小まめに入る必要はないと考える。今日行った事といえば、焼き菓子を食べた事と、文字の勉強という名の読書を行ったくらいだ。
潔癖症でもなければ気にする必要はないのだろう。
「かしこまりました。文字の勉強をするのであればお手伝いします」
アイリスが手伝ってくれれば勉強がはかどるので有難い。鏡台の椅子を持って来ると隣で文字の読み方を教えてくれる。
トリシャは、途中途中で休憩を挟みながら眠気に苛まれるまで勉強を続けていく。
「瞼が閉じてきたことですし、そろそろ就寝なされてはいかがですか?」
アイリスの声にハッとなる。昨日みたいに眠気で意識が飛びそうになっていたのだ。
トリシャは眠気の籠る瞼を擦り、部屋着へと着替える事にした。
「昨日みたいに倒れられてはいけませんので手伝わせてもらいますね」
ゆっくりとしか動けなくなっているトリシャは、頷くことでアイリスの手伝いを了承する。服を脱がせやすい様に最小の動きでアイリスの邪魔をしない様に努めるのだ。
トリシャは服を脱がされ下着姿になっても羞恥心よりも眠気の方が勝っており気にする余裕もなくなっていた。
「もう寝るだけだからこのままでいいや。アイリスも手伝ってくれてありがとう。もういいよ」
下着姿のままベッドへと倒れ込む。ふかふかとしたベッドの触り心地が直ぐにでも夢の世界に連れていってくれそうだ。
トリシャはそのまま眠りに付くのであった。
アイリスはトリシャが脱いだ服をたたむと、徐に衣服に手を付け始める。そして、自身の身に着けている服を脱ぐと、トリシャと同じように下着姿になるのだ。
脱いだ服を鏡台の上に置くとベッドの中に入りトリシャの顔を覗き込む。掛け布団をかけると幼気な少女の寝顔が2つ並ぶのであった。