プロローグ 『始まりの口付けと』
深い、深い暗がりの海の中、海底へ身を投じている様な感覚に陥る。重力に身を任せて憂鬱な心と共に沈んでいく。
しかし、沈下していく身体や気分とは裏腹に、どこか諦めにも近い清々しさを感じている自分に違和感を覚える。
この場所がどこで自分が何者かということよりも、違和感の原因がどこにあるかが気になって仕方がない。
すると、深く沈みこんだ体を包むように辺りが暗がりに覆われ始める。徐々に深くなりつつある暗がりは、目の前に広がる光明を時間と共に浸食していく。
身体が沈み込む程に光が奪われ、闇が深くなっていく様子を沈んでいく体と共に眺めていた。
ふと、気が付いたら光源の中心に向かって手を伸ばしている自分がいた。このまま時間が進めば底へたどり着くまでに光源がなくなってしまいそうに思え、一度光を失えば闇に飲み込まれてしまうのだと直感したのだ。
底へと沈んでいくことに恐怖や不安はなかったが、差し伸べられた手の様に温かみのある光を失いたくはなかった。
束となり光が一点に集約し始める。すると、願いが通じたのか暗闇をかき分けるようにして、光の束が手の届きそうな距離へと近づいてくる。
すると、暗がりが薄れ、迫りくる煌きの中へと全身が包まれていくのであった。
まず初めに感じた違和感は体にのしかかる重みだった。水中に沈む時の様な、身体の浮つく無重力に近い感覚ではなく、日ごろから慣れ親しんだ力によって、背に感ずる地面へと身体を押し付けられていた。
「お、気が付いたみたいだな。どうやら実験は成功した様だ」
女性の声が聞こえる。瞳を開こうとするが眩い光によって遮られてしまう。顔をしかめることによって瞳に入ってくる光源の量を調整する必要がある。
光量を調節すると、視界が定まる事によって、見知らぬ天井が瞳の中へと入り込んできた。
「私はルミエーラ。君の主だ」
先ほどの声の主だろう。金髪の長い髪を携えた美しい女性が目の前にいた。目の前にいたのだ。
ルミエーラと名乗る女性は視界へ入ると同時に、身体へ覆い被さってくる。彼女は顔を構成する部位一つ一つが美しく、高い身長とメリハリの付いた体型が、より一層彼女の美貌の秀逸さを際立たせていく。
「早速だが契約へと移らせてもらう」
あまりの美しさに見とれていると、気が付いた時には息がかかるほどの距離にまで接近していた。身体に覆い被さる様に押し倒され、女性の肌が触れると同時に、自ずと緊張が走る。
こちらの動揺はいざ知れず、有無を言わせないつもりなのか、薄紅色に張り出した唇によって言葉を発する手段を封じられた。
口に触れた瞬間に温もりが伝わってくる。触れ合った一点には柔らかいという触感と、温かいという触感が、同時に脳を支配し全身に衝撃が駆け巡る。
その感覚は目覚めたばかりの僅かな思考をあざ笑うかのように一瞬で奪った。
思考が回復するよりも早く、何かが口内に侵入してくる感覚に苛まれる。心臓が飛び出るくらいの衝撃に、脳内の機能が正常に働かなくなっていく。
これまでの二枚の感覚とは違うそれは、唇の間からぬるりと水分の含んだ新たな感覚をもたらしてくる。
やがて、唇だけでは留まらず舌まで弄ぶ生き物は、思考回路まで焼き尽くすように自由を奪いながら甘美な感覚によって蹂躙してくるのだった。