第一話「灰色の卒業」
喜びと悲しみの間に束の間という時があり、色のない世界不確かな物を壊れないように隠し持っている。
「僕達!」
僕らの出逢いを誰かが別れと呼んだ。
「私達は!」
時は過ぎいつか知らない街で君のことを想っている。
「卒業します!」
明日へと続く不安気な空に色鮮やかな虹が架かっている。
「卒業しますッ!!」
カルマの焔
「ハイ、お疲れ様ぁーッ!!」
白衣の男の喜びに溢れた声が教室に響いた。男の名前は小揺厳眞、この三年三組の担任であり化学教諭でもある。
「この三年間は俺にとってもお前らにとってもかけがえのない宝物となったはずだな!?」
皆が恩師の言葉に耳を傾けた。鮮やかな想い出と共に先生の言葉一つ一つが胸に突き刺さった。
「これから辛いこと悲しいことたくさんあると思うけど俺はお前らなら越えていけると思ってるな!?頑張れ三組!!やったれ三組!!」
小揺は微かに潤んだ瞳を拭って最後の激励を贈る。
「卒業、おめでとうッ!!」
「一時はどうなることか思うたけどわしらも無事卒業できたのう」
「そうだねぇ。僕達随分濃い高校生活送ったからねぇ」
師のいない教室で皆が口々に思い出話に花を咲かせた。
「よっ、在悟」
「ああ杏也か」
まだ卒業生で賑わう校庭を窓際の席から眺めていた桜函在悟に声を掛けたのは同じクラスの荘地杏也だった。
「みんなわいわいしてるのに窓際なんかでぼさっとして。またなんか考え事か?」
「まあ、そんなところだ」
「卒業式の日にまでなにかの推論か?うちのクラス理系だから変わり者多いってのは知ってたけどお前も好きだなぁ」
杏也も壁に凭れて背中越しに窓の外を眺めて言った。
「変わらないな。ほんとに」
「……だな」
「それはそうと在悟、三組で一番頭良かったお前の進路を聞かせてくれよ」
在悟は外の景色に遣る目を細め答えた。
「浪人するよ」
「ええーーーッ!?」
杏也は思わずすっとんきょうな声を上げた。間の抜けた杏也の声を聞きつけた二人のクラスメイトが何事かとやってきた。
「なんじゃあうるさいのう。卒業式ゆうてもさすがにやかましいぞ」
「いやだってさ、在悟のやつ浪人するって言うんだぞ!」
「ぬうわぁぁにいいいぃぃぃーーーッ!?」
「大屋くん、君の方がうるさいよ……」
大柄な体を揺らして大屋紋人は在悟の胸ぐらを掴んだ。
「お前、ほんまに浪人するっちゅうんか!?」
「紋人……顔が近いって。あと苦しい」
「おう、すまんすまん」
「君、格闘家なんだから気を付けてよ」
在悟は気を取り直して質問に答えた。
「俺は数学が好きで理系になったんだ。いつかはガウスのような優れた数学者になりたいと思ってる。だけど今の俺の視野はきっと狭いからこれから一年旅をして、たくさんのことを見て、感じて、学んで世界を広げようと思ったんだ」
在悟の話を聞き終えた三人は各々、様々な反応を浮かべた。
「君の話を聞いてると真っ直ぐな言葉がぐさぐさ刺さって耳が痛いよ」
「お前だけはほんとにストイックというか、とことんいくタイプだよな」
「一度しかない人生だからな。死ぬ気で生きなきゃ」
在悟はぐんと肩に土嚢が落下したような重さを感じた。
「よう言うた!今夜はお前の成功を願って一杯奢ったる!」
「紋人、肩叩く力強いし俺らまだ未成年だから」
「今日くらいは無礼講じゃろう!ガーハッハッハ!」
紋人の突き抜けた笑いとは対照的に三人は苦笑いを浮かべた。
「でもさぁ」
少し間を開けて浮月久兵衛が言った。
「もし僕が君みたいな天才なら迷わず進学するけどねぇ」
「俺は天才なんかじゃない。ほら、良く言うだろ。好きこそ物の上手なれって。たまたま好きなことが勉強だったから努力できただけさ」
「努力するってことも含めてさ。やっぱりさ、僕らは人間だから挫けたり諦めたりすることってあると思う。でも君はその誘惑を振り払って自分で決めた道を進んでいる。それは君にとって平坦な道でも、ある人にとっては急な山道かもしれない。だからそれはやっぱり才能だと思うよ」
思いがけない称賛に呆気に取られた在悟は我に帰って微笑んだ。
「……そうか、ありがとう」
「媚びを売るな、媚びを」
「未来のスターだからね彼は」
久兵衛の返しは笑いを誘った。誰も口には出すまいが、皆で他愛もない会話ができるのがこれで最後だと思うと少し切なくなった。
「まあ、冗談は置いといて僕なんか縁際くんの金魚の糞で進路決めちゃったらねぇ」
「それはそれでいいんじゃないか?大学だけで人生が決まるわけじゃないし交友も資本だぞ」
「縁際、か……」
縁際希空。在悟たちと同じここ北辰高校三年三組に所属するクラスメイトだ。彼の勉強嫌いは折り紙付きで日がな友人との雑談や携帯ゲーム等の娯楽に勤しんでいる。もちろん学業成績はいわずもがなである。
「たしかへりぞーは修基大学に行くんだったよな」
「自分で言うのもなんだけどあそこあまり頭良くないからねぇ。ちょっと不安かな」
珍しく話を黙って聞いていた紋人は久兵衛の背中を平手で叩いて肩を組んだ。
「けんど、決まったもんしょうがないじゃろう。逆に考えてみい。馬鹿の中に凡才が一人、逆境でこそ輝くってもんじゃ!」
「あはは、君らしい考えだねぇ。ありがたく参考にさせてもらうよ」
「そういえば当の縁際は?」
杏也が思い立ったように溢した。
「あそこの席で携帯触ってるよ」
久兵衛が指差す先には夢中でゲームに興じる同級生の姿があった。
「あでー!負けちゃったじょー!んー、この敵はたぶんチート使ってるじょー。栄司さんもそう思うじょー?」
「うすうす。自分は単に縁際くんの力量不足かと考えてます。ウス」
縁際は隣で観戦していた得邊栄司の指摘を受けてか聞き流してか、にたにたと笑いながらまた同じ敵に挑戦しては撃沈していた。
「あいつも懲りないなぁ。修基大学に手が届いたのすら奇跡だってのになんにも堪えてないな」
「わしらも人のこと言えんじゃけえ。行きたいとこ行けた奴なんてのは一握りじゃ。このクラスで言やあ国公立受こうた冠歴くらいじゃけえのう」
「確かにな。でもあいつも大変になるだろうな。やっと受験が終わったと思ったら今度はそこにしがみつくためにまた勉強しなくちゃいけないんだから」
「維持だけでも労力がいるのに前に進む限り苦労は付き物さ。冠歴もきっとそれを承知で受験したんだろう」
冠歴静は一年前まで仲の良い椎碁敬真とテニス漬けの日々を送っていた。ところが三年生になってからというもの授業に取り組む姿勢が真摯になった。静が国公立大学に合格したと耳にした日には三組の同級生はもちろん先生達も驚いていた。
「俺ももっと勉強すれば良かったな」
「うんむ。気持ちは分からんでもないのう」
青春は一瞬だ。泣いても笑ってもそれは青春だし、泣いても笑っても青春は戻ってこない。だからこそ眩いのだ。自分なりに悔いのない選択をし続けた在悟も身近な杏也達の言葉が他人事でないように思えた。
「おっと、結構良い時間だな。はやいなー時間経つの」
気付くと時計の針は午後四時を指していた。式典が終了してから思っていたよりも長話していたようだ。
「そうだな。このままだらだら駄弁ってるのもなんだしそろそろ帰るか」
四人は少し名残惜しいがまだ人気の残る教室を後にした。
「…………」
「どうしたんすか、縁際くん。ウス」
「なんでもないじょー。あっ、また負けちゃったじょー!」
「やっぱ一番記憶に残ってるのは文化祭だよな。あの時の夏休みが一番学生したって感じがするわ」
「だねぇ。小揺先生も歴代一番の作品にするんだ!って張り切ってたからねぇ」
四人は思い出話に花を咲かせながら廊下を歩いていた。すると奥の方から中年の男がずかずか小走りでやって来た。
「桜函おぉぉおぉッ!!」
男は在悟の前で立ち止まるなり彼の肩を鷲掴みにして揺らした。
「わっ!どうしたんですか尾伊良先生」
「どうしたもなにも今になって小揺先生からお前が浪人するって聞いたから急いで会いに来たんどぁ!」
数学教諭の尾伊良修則は数学系の在悟が在学中勉強関連で一番世話になった先生だった。いつも方程式とか理論とか数字の事ばかり考えているが生徒達への指導は人一倍熱心だ。
「お前が俺の受け持つ一組への進級を断ったときからずぅーっと心配だったんどぁ!」
「いや、だからそれは一組は成績上位者だけで編成されてるクラスだから周りに追い付けるか心配で……」
謙遜も含めて否定した在悟であったが尾伊良の言葉は半分間違っていなかった。在悟が一組への進級を断ったのは三組の皆と離れたくなかったからだ。当時在悟は大いに迷ったが彼にとっての悔いのない選択はかけがえないの友と一度きりの青春を過ごすことだった。
「否、皆まで言うな!お前は三組の核となる人物。自分がクラスを抜ければ残された馬鹿がどのような破滅を辿るか容易に想像できた……。お前は泣く泣く進級を蹴ったんだぬぁ!」
「おい、こいつ今日くらいは殴ってもいいだろ」
「気持ちは分かるけど落ち着いて」
「はは……」
号泣しながら肩を叩く尾伊良の変哲っぷりを見て在悟は少し呆れたように苦笑いを浮かべた。
「思えば俺がお前の才能に気付いたのは……」
「さ、先に行ってるねぇ~」
「ああ、またな」
長話の予感がした久兵衛達は在悟に目で合図を送り逃げるようにその場を後にした。
「これこれ尾伊良先生、また若いもん捕まえて説法ですかな」
在悟が尾伊良の一人語りに付き合わされていると誰かが近付いてきた。
「これはこれは兆宝先生!今ちょうど桜函と立ち話をしていたところなんですが先生もいかがですくぁ?」
兆宝黄兼。尾伊良と同じく数学教諭でこの北辰高校に勤めて久しい古株の教師である。
「こんにちは。先生にも大変お世話になりました」
「いやいや、君ほど手の掛からなかった生徒も珍しいですよ」
「先生のおかげで数学を好きになれた今の俺がいます。あなたには感謝してもしきれません」
「私なんかいなくても君はきっと数学を好きになっていましたよ。我々教師にできることは生徒の背中を押すことだけ。だから今の君は君自身が作り上げたのです」
兆宝は優しい微笑みで在悟の頭に手を置いた。
「誇りなさい。あなたはもう立派に桜函在悟です」
「先生……」
歳を重ねてざらつくその手にどことなく祖父の掌のような安心感があった。
「行きなさい。君を待っている人がいるのでしょう」
「はい。いつかまた来ます。その時は新しい定理を引っ提げて」
「お前が言うたら満更冗談でもないようどぁ。否、お前ならきっと大丈夫だるぉ」
兆宝は多くを語ることもなく手を振りながら去っていく生徒の後ろ姿をずっとずっと笑顔で見送った。
「今日は春なのに冷え込むみたいですゆぉ」
「……雪が降ってきましたな」
「おう在悟。下足箱で会うとは奇遇じゃけんね。このままもうさよならかと思っていたよ」
「ああ、穂居か。まさか。一生の別れじゃあるまいしそのうちまた会うよ」
「それもそうじゃな。じゃあまたそのうちなー!」
下足箱で靴を履き替える何気ない動作でさえが最後だと思うと名残惜しい。
「在悟」
「纏。待ってくれてたのか」
学生生活を締め括る最後の日の雪はいやに身に染みた。
「私だけじゃないよ。みんな外で待ってくれてる」
「そうか。悪いことしたな」
曇天の中ゆらゆらと舞い落ちる粉雪はどこか切なげで孤独に思えた。
「一緒に行こっか」
「うん」
二人並んで見上げた空は灰色で今の在悟達との心境に良く似ていた。だから在悟は深く息を吐いて歩き始めた。立ち止まっていては前へ進めない。せめて光射す方へ歩み続けよう。
「あでー!またまた負けちゃったじょー!」
「縁際くん?」
厚みがかった雲を抜けて。
つづく...