倭姫(仮)
一度削除したのですが、メモ帳にコピペしたものが残ってたのでネットラジオで話のネタにしようと思って再び貼り付けました。2014年に書いた旅物語の冒頭部分のみです。2015年に完結しましたが、続きの部分はパソコンのどこを探しても見当たりません(笑)
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倭姫・・・大王の娘。明るくて人が好き
大王・・・倭の王。日本書紀には「度量がおおきく、人となりが正直で、飾ったところがなかった」と記されている
八琴・・・病弱な物部の姫。倭姫の従者となる
大足彦・・・大王の息子(漢風諡号:景行天皇)。血気盛んな性格
小碓、大碓・・・双子の兄弟。大足彦の幼い息子
野見宿禰・・・出雲の戦士。後の世に相撲の神として祀られる
五十琴・・・八琴の姉。妹の体の事を心配している
狭穂姫・・・乱を起こした兄と共に亡くなっている
誉津別・・・狭穂姫と大王の間に生まれた子
物部十千根・・・物部を統べる有力豪族。五大夫のひとり
豊鋤入姫・・・天照大神を祀る巫女
日本が大和と呼ばれる以前、遥か昔のものがたり。覇道を突き進んだ崇神天皇の次の世代。後世に垂仁天皇と諡される大王が居た。彼の苦悩は最愛の妻の死から始まった。最近の学説や資料を参考に描く和風ファンタジー。
日本書紀垂仁天皇の段より。
伊勢神宮創始、倭姫の物語です。気楽に楽しんで頂けるとうれしいです。
お兄さまのお顔はお父さまに似ていないな。
穏やかな日差しが二人を包んでいた。
倭姫は並び座る異母兄をちらりとみた。
小柄な彼女に比べ、誉津別は長躯である。しかし武に秀でた他の兄王たちに比べると線が細い。
その細い首には亡き母、狭穂姫が遺した珠の飾り、腕には父から贈られた鉛硝子の腕輪が光る。国産、吉備の石灰硝子が造られるのはのちの事であり、この腕輪も舶来の品である。
誉津別は幼いころより言葉を発することがなかった。心も体に付いていかず、毎日空ばかり眺めていた。
倭姫はこんな話を聞いたことがある。
ある朝のことである。父王と誉津別は大殿で鳥の声を聞いた。
その哀しげな鳴き声に手を伸ばした誉津別の姿に、大王は驚喜した。わずかに咲いた願望がその光景を見せたのかもしれない。息子の口は開き、微かに声を発したように感じた。
王はすぐさま従者を呼び、遠く出雲の地までその鳥を追わせた。
誉津別に対する父王の愛情は、他の王子達に比べて―周りの人々から見ると「妙」としか言いようのない熱を帯びている。
その愛情は不遇の死を遂げた誉津別の母に起因しているのだろう。人々は憐むものも嗤うものもいた。
噂を聞き及んだのか、次第に王は成人した誉津別と距離をとるようになっていった。その気持ちは恥よりも他の子への気遣いであろう。
並び座る二人の後ろ姿を迦具夜は静かに見守っている。
迦具夜は大筒垂根王の娘であり、大王の妃のひとりである。
二人で息子の様子を見に行ってほしい。
夫にはじめて頼まれたのはいつのことだったか。
いつの頃からか倭姫が誘い、それに付き添う形となっていた。
不思議なことがある。
倭姫と誉津別が座ると必ず鳥が集まってくるのである。
大王の子供たちの中でも特にこの二人には不思議な逸話が多い。
(きっと話を切り出せないでいるのでしょう)
「二人とも飽かずに庭を眺めていますね」
「お兄さまとあの鳥を眺めていたの」
倭姫は枝にとまる百舌鳥を指差した。
次の瞬間、弾かれたように百舌鳥は羽ばたいた。
心のもやを払うように百舌鳥の高鳴きが響いた。
「私は、この国を離れます。お兄さまもどうかお元気で」
逡巡したわりに、切り出してみると拍子抜けするほどあっさりとした別れの言葉である。
聞こえているのかいないのか兄の横顔は静けさを保ったままだ。
ふと(お兄さまは狭穂姫に本当に似ておられるのだろう)と倭姫は感じた。
誉津別の名は炎に通じる。
狭穂姫は反乱を起こした実兄と共に炎となった。一粒種の誉津別をのこして。
倭姫が立ち上がると誉津別もつられるように腰をあげた。
そして珠の首飾りをはずすと倭姫の首にかけた。
旅の餞別のつもりだろうか。迦具夜は慌てた。
「それはお母様の大切な形見ですよ」
戯れなら後悔することになろう。
倭姫は微笑みながら言った。
「きっと、これは襷の代わりだと思うの」
迦具夜は、はっとした。
襷とは元来、巫が掛ける布のことである。
倭姫は父に頼まれ、兄を憐れんで訪れていたわけではない。同じ巫として共感し敬愛していたのだろう。
「ありがとうお兄さま。やわらぎ暮した日々には二度と戻れないけど、この地で皆にいただいた想いを大切に受け継いで行くから」
王はまどろみの中にあった。
錦色の小さな蛇が首に巻きついている。
またこの夢だ。
巻きついた蛇は、命を狙う匕首となった。
しかし切っ先は震えるが襲ってこない。
涙の滴が頬を叩いた。
炎の中へ彼女は歩んでいく。
目を覚ますと雨に打たれたように全身汗まみれで濡れていた。
王は深く息を吐き出した。
外は明るい。芽吹き始めた緑が日差しを受けて輝いている。
(私が弱き故に、あれ程までにも追い詰めてしまった)
あの時、届かなかった言葉を呟いた。
「お前の罪ではない・・・」
強き王になろう。それだけを願い、時を重ねたつもりであった。
しかしまだ足りない。決定的な何かが欠けているような気がするのだ。
大王は従者を呼んだ。
「朝議を。五大夫を呼べ」
倭の英雄、武渟川別と彦国茸が並び座し、その後ろに大鹿嶋、物部十千根、大伴武日の三人が控えている。
国を支える彼らへの信頼は厚い。
「先王は聡明闊達な方であった。武を用い国を治らしめ、神に対してはその躬を慎まれた。また灌漑土木を発達させ、田族は恵みを受けることになった。その威は未だに健在である。しかしながら、数多の功を立てた臣に恃み、ただ坐していては再び大乱を招きかねない」
その苦悩を五大夫に一気に吐き出すように言った。
「私は先王と比べ、何が足りぬか。率直に申せ」
この王は臣下によく問われる。老将、武渟川別はそう感じていた。
足りぬとは思わない。二代に仕えた武渟川別には心底思う。ただ、それを伝えても王は納得しないだろう。
老将の言葉を待つように、他の四人は発言を控えている。
白髪頭を掻き、言葉を選びつつ彼は話し始めた。
「先王は覇道を進まれました」
「うむ」
大王は身を乗り出して聞いている。
「私は死を恐れず先陣をきり、身を粉にして闘いぬきました。幸い矢は当たらず、このように老いるまで仕えることが出来ました」
「心から感謝している」
「いえ、私が申し上げたいのは老骨の自慢話ではありません。私は東の地を転戦いたしましたが…」
ちらりと彦国茸を横目で見て言った。
「未だに王の威光の下、平らかにはなりませぬな」
大王は訝しげな顔をした。東国を治めたいとは言っていない。
他国を平定するどころか、内乱までも許した。自らの弱さ、王として足りぬものを率直に聞きたいのだ。
しかし武渟川別は王の内面にその原因を求めない。
「幾度となく戦いに勝利しても民は治まらなかったと申し上げたいのです」
「やまとの武の体現者であるそなたが、先王の覇道は間違っていたと」
武渟川別は、壮年となってなお素直さを持ち続ける主君を好ましく感じた。
「いいえ。武は根幹。誇りと自立の光です。ただ、武だけでは治まらなかった事にはそれなりの理由があるのでしょう」
「そうかもしれぬな」
「東の民は独自の営みを持ち、さまざまな神々を戴いておりました。今、万民を束ねるには人が覇道を重ねるだけでは足りぬものかと存じます」
王は察した。これ以上は軍を司る者として立場上言えぬだろう。
「十千根はどう思うか」
物部を束ねる十千根は倭有数の豪族である。
「恐れながら神の御力を今一度お借りしてはいかがでしょうか」
「つまり?」
「先王が将軍を四方に遣わす前のことです。寒さ暑さが乱れ、疫病がおこり百姓は災いを被りました。そこで茅渟の陶邑、大田田根子をして大物主を祀り、国は治まりました。しかしながら、その後、倭は武を優先しました。今こそ祭祀を重んじてはいかがでしょうか」
隣で聞いていた大伴武日は物部を睨みつけた。倭が神をないがしろにして来たとでも言いたいのか。
大王は目を閉じて聞いていた。
狭穂姫と共に金色に輝く稲穂の海を見たあの日。
重きを置くべきは武ではなく実り。実りは祭祀から生まれる。民は田の族、為政者がもっとも大切にするべきもの。まさしくたからである。
「正直私には分からない。武を用いずに治世が成り立つ世など、人が人である限り泡のように儚き理想であろう。人は理想を持ってなお奪い合うものだ。ただ……」
先代の覇業を継ぐこと。それは神代の時代から試されてきたのではないか。
未だに成らぬのは、己の不徳と断じることは容易い。そこで思考を止めてはならない。
今、自分にしか歩めぬやり方がきっとある。
苦しみながら、それを皆と模索するのも良かろう。
強くあろうとしたことで、結果として愛する者達を失なった。
「偉大なる先王と同じ道を歩んでも追い抜くことは出来まい。よいだろう。ひととき、戈を捨て穂を持とう。心の拠り所であり続けた天照大神を以て民と向かい合おう。まずは我らの決意を、とよ様にお伝えするのだ」
武渟川別は王の言葉を万感の思いで聞いていた。長きにわたり自らの武により倭を支え続けた日々。自らに与えられた役目は全うしたのだ。先王のように覇気で人を圧倒出来ぬが、人の弱さと向き合える王である。
倭は単なる軍事強国では終わらぬだろう。
数日後。
大伴武日は大足彦王子に謁見していた。
王が重要事項を決定するときに子を呼ばないのはいつもの通りだ。公平性とは別の部分で、父なりの考え方があるのだろう。
大足彦は倭姫の実兄である。髭を生やした偉丈夫。八咫剣を履き、精悍な顔付きをしている。
「なるほど。父上は相変わらずお優しいことだ。それにしても、十千根の進言か…」
物部の祖先である饒速日命は、倭王家の祖先である瓊瓊杵尊よりも先に天孫降臨している。
饒速日命は瓊瓊杵尊の兄であるとされている。物部は倭を支える臣という立場であるが、大足彦が警戒するほど内政への影響力を持つ。
「あやつは本当に必要なものが分かっておらぬのです。今、倭は武を必要としています。武は弛まぬ鍛錬と実戦を繰り返しながら研ぎ澄まされるものです。このままでは倭は滅びてしまいます」
大足彦は武日が若干大げさな物言いをする事を知っている。おそらく、いつものように自分を差し置いて父に進言した十千根にやっかみを抱いているのだろう。
「武日。俺の目は常に西を向いている。吉備をおさえたからには出雲、伊都を見据えねばならない。父の本意は理解しているつもりだ。王は西へ進む前に、内政の充実をはかるおつもりだ」
「それなら良いのですが……」
「俺は父のような立派な王を戴くことが出来て嬉しい。結局のところ父は戦がお嫌いなのだ。ただそれだけのこと。父が嫌ならば汚れ仕事は引き受けよう。戦とはもとより忌みごと。俺は俺に向いている仕事を淡々とこなすだけだ。言われずとも戦の準備はつねにしている」
「私は王子にどこまでも付いてまいります」
武日は五大夫の中で最も親しい。小さい頃はよく寝顔にいたずらをしたり、馬になってもらったりしたものだ。
「心配するな武日。俺の世代が倭こそ最強であると証明するであろう……それより」
「はい」
「とよ様にお伺いを立てた結果は?」
武日は青ざめた。十千根憎さのあまり、一番大事なことを伝えそびれていた。
「それが恐ろしい話なのです。倭の神が出ていくことになったのです。倭姫が天照大神をお連れになり、国を離れるそうです」
大足彦は武日のひげを軽く掴むと顔を近づけた。
「それを早く言わんか」
「も、申し訳ありません」
武日の大柄な体がすくみ上がった。
「すると、探りを入れるならあいつか。今日はどこに居るのやら。おい、支度をしろ。あいつのお気に入りを連れていくぞ!」
誉津別の屋敷を出た倭姫は迦具夜と別れ、足早に歩く。
今日はまだまだ会わねばならない人々が大勢居る。
「見つけた」
丁度、衢に差し掛かったところで子供の声がした。と同時に、小さな体が倭姫に飛びついてきた。
「わっ。今から訪れようと思っていたのに」
同じく小柄な倭姫は笑いながら抱きとめようとしたが、勢いに負けて倒れこんでしまった。
「自室でじっとしておれば良いものを。随分探しまわったわ」
大足彦は右手で自分の子、左手で倭姫を抱きかかえて立たせた。
父の傍に控える小碓は美しく、まるで女児のようだ。
大碓は「お願い。行かないで」と目に涙を溜めながらしがみ付いてくる。
小碓は双子の兄をたしなめた。
「大碓、倭姫命は大命を受けたのだ。父上からそう聞いたではないか。見苦しいぞ」
大足彦は笑いながら言った。
「神を宿した巫は禊し、人との交わりを絶ち、暗室を好むと聞いていたがお前は特別のようだな。いつも出歩いていて所在がしれない」
「それはお兄さまの偏見でしょ」
大足彦は倭姫の胸に光る首飾りに気がついた。
「そんな珠を持っていたか?」
「お兄さまに貰ったの」
「どの兄だ」
「誉津別命」
大足彦は顔を顰めた。
「またあいつの所へ行ったのか。碌に話も出来ぬ男に飽きないものだな」
「お兄さまは、ひょっとして妬いているの」
大足彦は思わず吹き出した。
「誰が実の妹に。お前はどの家にも自然に溶け込む。他の母の家でもお構いなしに上がり込んで仲良く飯まで食う。普通は気が引けて出来ぬぞ。そのずうずうしさは一つの才能だな」
基本的に妃たちは別々の家に住む。有力な豪族の娘は結婚後も親元で暮らすことが多い。
倭姫は苦笑した。
「私が食い意地はってるみたい」
倭姫は双子を抱き寄せると囁いた。
「これから、いっぱい遊んであげようと思っていたけど出来そうにないな。何もしてあげられなくてごめんね。二人とも仲良くするんだよ」
泣きじゃくる大碓は「うん」と答えるのが精いっぱいだった。
倭姫は大碓をくすぐり始めた。笑い転げる大碓と共に倭姫も倒れこみ、あっという間に砂だらけになってしまった。
「ほうら。お父さまに、飛びつけ」
言いながら倭姫と大碓が飛びつくと大足彦の服も砂だらけになった。
「おいおい…。仕立てたばかりなんだが…」
数歩下がりつつ小碓は父を見上げた。
「すぐに旅立つ訳でもないでしょう。夕餉にご招待しては如何でしょうか」
三人を優しげな眼差しで見つめつつ、大足彦は同意した。
「稲日も会いたがっていたぞ。お前と違って出歩くのは苦手のようだからな。夕餉は我が家でとれ。詳しい話も聞きたい」
「お兄さまありがとう。じゃあまた後でね」
彼女は足早に去って行った。
その小さな後ろ姿に、大足彦はある疑念を禁じえなかった。
(ずいぶんあっさりしている。生まれ故郷から離れるにしては明るい。まるで自らの意思で出ていくようだ)
八琴は床から微かな光を見つめている。周囲には美しく並べられた竹簡と書から墨の香りが漂っている。そのほとんどは伯父の所有物である。貴重な舶来の書は王家に貸し出しもしている。
体の弱い八琴は寒くなるときまって床に臥せってしまう。そんな時は伯父に願ってこの場所を使わせてもらった。幼い頃からここの蔵書の管理と引き換えに好きなだけ読むことが出来た。
伯父と姉は日が沈んでからずっと話し込んでいる。
「読み書きの出来る采女なら探せば居ると思いますが」
姉の五十琴はすでに大足彦王子と結婚をしているが、豪族の慣例通り親元で暮らしている。病弱な八琴を支え世話してきた。両親は家を遺して他界している。この時代の新生児の平均余命は十五年であり、無事に成人した場合の平均寿命は三十歳前後である。
「従者として随伴する采女が出雲から来る手はずになっているが、予定が大幅に遅れそうなのだ。天照大神の啓示があれば、明日にでも起たねばならぬ」
五十琴には話が見えない。伯父はいつも遠まわしに物を言う。
「その采女が出雲から呼ばれるのは大王の意向なのですよね」
「ああ」
「その者は読み書きが出来るのでしょうか」
「分からぬ。だが、彼の地に読み書きの出来るものがそうそう居るとは思えぬ」
「だったらべつに」
「だからこそだ。物部にとって倭姫の動向は一族の命運に関わる。書簡をもって私に知らせてほしいのだ。一族より適任者を選びたい」
「そう言われましても…」
室の灯がわずかに揺らいだ。
「八琴…」
「ごめんなさい。話が聞こえてしまって…」
十千根は手招いた。
「いや、構わんよ。体の調子はどうだ」
「近頃は暖かくなり、おかげで元気です」
微かな灯に照らされた八琴の目は輝きを帯びていた。
なるほど。五十琴の耳は怒りで赤く染まった。
伯父は彼女が聞き耳を立ててることを承知していて、私ではなく八琴を説得していたのだ。
八琴は十千根を真っすぐに見つめた。
「伯父さま、そのお役目、私ではいけませんか」
五十琴は強い口調で制した。
「駄目です。あなたはもう休みなさい」
十千根は目を瞑り、眉間に皺を寄せながら思案するそぶりを見せた。
「構わんが…」
「伯父さま!」
八琴は居ずまいを正し、五十琴に懇願した。
「お姉さま。私たちの妹も弟も病気で亡くなっております。私も体が弱く、ろくに屋敷から出た事がありません。ずっと心苦しかったのです。お姉さまばかりに負担をかけて…」
聞きながら五十琴は眉ひとつ動かさない。
八琴は熱を帯びた口調で続けた。
「…いいえ、正直に申します。私は長く生きられるとは思っておりません。ずっとこのような機会を待っていたのです。どうか物部のために…私のために願いを聞き届けて頂けませんか」
物部のため、というのは五十琴が倭王家に嫁いだにも関わらず病弱な自分が残っていることへの負い目だろうか。倭では姉妹型一夫多妻婚は珍しい形ではない。もしも八琴が子を産めるほど健康になり、大足彦のもとへ嫁ぐことになったら妹を一生守る決意はしていた。それなのに自ら巣立とうとしている。
十千根は押し黙る五十琴に諭すように言った。
「勘違いしてもらっては困るが、私は何も物部のために動いているのではない。むろん私利私欲のためでもない。代々祀り続けた物部の神のためにのみ、尽くしているのだ」
伯父の都合などどうでもよかった。五十琴には八琴の気持ちも痛いほど分かる。好きな書を捨ててでも外の世界を見たいのだろう。
「もしも八琴の身に何かあれば私は伯父さまを恨みます」
その声は震えていた。
「とよ様は何をお考えなのだろうか」
武日の表情は冴えない。大鹿嶋は隣で武日の愚痴を聞きながら酒を呑んでいる。
倭王家には「とよ」の名をもつ女性が度々登場するが、この時代の「とよ」とは豊鋤入姫命である。
「さらに物部が八琴という娘を姫様のお付きとして差し出したそうだ」
「出雲から呼ぶのではなかったのか」
大鹿嶋はこの件に関しての捉え方が武日とは違う。
(そんな事をしても良いのか)という単純な驚きがあるだけである。ならば他の族からも供を出したいと要望が出るのではないだろうか。
「間に合わなかったようだ。倭姫の状況を大王に書簡で伝える役らしい」
なるほど。物部も考えたものだ。それらしい理由が付けられている。同族から付き人を出すには他の理由がいりそうだ。
「天照大神は笠縫邑で祀り続けたら良いのでは?」
大鹿嶋は首を傾げた。そもそも何故出ていく必要があるのか。
「とよ様が言うには、もっと大三輪の大物主を厚く祀れと。そして天照大神ご本人が出ていくとおっしゃったそうだ」
天照大神が自ら意思を示したのか。それもまた驚くべき話だ。
「国津神を祀れということか」
武日は抑えきれず大声になった。
「大物主は物部に近しい神ではないか。こうなったのも物部の責任だ」
物部がからむといちいちしつこいやつだ。
「まあ落ち着け。確かに物部は大王や我々とは違う祖を持つ。だがそれがどうしたと言うのだ。今来人も大王に仕えるこのご時世になんの文句がある。同じ五大夫として協力してやれないのか」
「そういう問題ではない。物部は臣下としての分を弁えているように見えぬ。私が守らねばならない。大王も姫様も」
大鹿嶋は少し笑った。武日は大王への想いが強すぎるのだろう。
「兵は随伴させぬと聞いたが」
「それも心配なのだ。倭姫を守るためなら我が重装兵をいくらでも拠出するというのに」
武日は豊鋤入姫命が西方を周ったことを思い出していた。
「諸国への配慮があるのだろう。とよ様の時は兵が囲み絹垣で行障を作り進んだ。そうせざるを得ない情勢が有ったな」
「さらに鉄の武器を所持しないらしい」
「ほう…鉄の武器を」
鉄を巡っては長年争いの種になっているのも事実だ。
大鹿嶋は倭のまつりごとが大きな転換点に差し掛かっていることを感じていた。大王が決意されたなら臣下も智恵を出さねばなるまい。
笠縫邑の神殿では豊鋤入姫命と倭姫が八琴と顔合わせをしていた。
緊張で蒼褪めた八琴は身の震えがとまらない。
「八琴と申します。物部十千根の庇護を受け、師は加羅よりの今来人。読み書きと易、詩、礼を学びました。命を掛けてお仕え致します」
豊鋤入姫命は八琴を手招いた。
「はい」
おそるおそる近付く。先ほどから豊鋤入姫命が発する気に圧倒されている。
このような人が居るのか。間違いなく史書に名を残すであろう当代一の巫女であろう。
老いた手が八琴の顔に触れると身の震えが止まった。同時に暖かなものに包まれているような幸せな気持ちが押し寄せてきた。
豊鋤入姫命は優しげな声で言った。
「これはまた聡明な子ですね。旅とはもとより命がけのもの。しかし神に身を捧げた巫者ならともかく、一介の文官にすぎぬそなたが死をもって果たすべき使命など無いのですよ」
隣に座る倭姫は八琴の袖口を掴み、にこりと笑った。
「よろしくね」
なんとも無邪気な笑顔をする方だ。豊鋤入姫のような威は感じられない。家に籠りがちな八琴が倭姫と直接会うのは初めてであるが、屋敷の庭越しに遠くから何度も見た事がある。いつも人の輪の中心に居る方だ。
倭王家については、国の者ならある程度の知識を持っている。日葉酢媛命は三男二女を産んだ。五十瓊敷入彦命、大足彦命、大中姫命、倭姫命、稚城瓊入彦命である。特に長兄、次兄は勇猛果敢で他国にもその名を知られる武人である。倭姫は好き好んで市井に出向き、人々と接する方と聞く。
彼女は掴んだ袖口をまじまじと見つめて言った。
「あまり見かけない服だね」
「これは加羅より運ばれた品です。師から学び修めの証としていただきました」
筆を扱う者のために袖口が狭まっている。
「倭姫命は機織りに興味がおありですか」
「幼いころより母に教えてもらったの。家族の服を私が作ることもあるよ」
そこまで本格的とは思わなかった。たしか天照大神も機織りをされるはずだ。
「倭姫を宜しく頼みますよ。この子はどこか浮世離れしていて心配です」
八琴は生まれてはじめて与えられた使命に胸の高鳴りを感じていた。
珠城宮の桃の花が咲き始めた頃、倭姫は旅立ちを告げた。
父王は娘との別れが現実味を帯びると、自分に言い聞かせるように呟いた。
「天照大神のご意思なら止める事は出来ぬな」
大王は五大夫に訊いた。
「十千根、野見宿禰はまだか」
「出雲からまだ戻りません。また意宇との戦いが始まったようです」
「停戦していたのではなかったのか。どのような状況か述べよ」
野見宿禰にもっとも近しい大鹿嶋が進み出た。
「その件に関しては私が。伊都国と意宇が手を結び挟撃の構えを見せています」
意宇は出雲の東、湖を挟み大きな勢力を持つ。北部の嶋根と手を結び、何度も出雲を脅かしてきた。
「さらに悪いことに越が意宇を援護する動きがあるようです」
越の国は倭に匹敵する力を秘めている。
「越か…。戦はせぬ。ただし威嚇で避けられる戦いも現実としてある。ここは彦坐王にご助力願おうか」
明朝。まだ夜も明けぬ内に三輪山の麓に倭中の者が集まった。暗がりのなか、涙を流し倭姫との別れを惜しんだ。
「みんな。今までありがとう」
倭姫は良く通る明るい声で言った。
大王は倭姫の小さな肩を抱き寄せた。
「別れは新しい出会いの始まりだ。お前の真っ直ぐな光は、ここで別れる者を遥かに上回る数の人々を照らすだろう」
「多くの家族に囲まれ私は幸せでした」
みな思い思いに別れの言葉をかけた。
八琴も五十琴と言葉も無く抱き合った。
やがて三輪山の端から仄かな光が立ち上り人々を包んだ。
「八琴、そろそろ行こう」
「はい」
その小さな手を朝日にかざしつつ道を示した。
「東へ」