花のつぼみを見る子供
いつもなら通らない道を、その日に限って通ったのは私の好奇心の所為だったと言わねばならない。いつの間に無くなったと思っていたそれが、まだ私の中にあったのだと気づかされた。
引力のような何かがはたらいたと言うのならば、私はそれを憎もう。
八つ当たりだとはわかっている。私が勝手に抱いた、恣意的な親近感だったのだから。
晩春の、名残惜しそうに日が残っていた時分に私は、道の真ん中に縮こまった丸い影を見つけた。遠目ではそれが何なのかわからなかった。猫だろうか、と思った。しかしそれが猫だと言うのなら、大き過ぎた。ならば犬か。どちらにしろはっきりとは見えない。もっと近づいて、見てみようかと思ってしまった。
数歩進むごとに、焦点が合うかのように輪郭線が明確に現れていった。ついにあと四、五歩と言った距離になってようやくその正体を私は理解した。
少女だった。暗い色の服を着て、背を円弧のように曲げて目の前を凝視している幼げな少女だった。その双眸の先には陶製の白い鉢植えが置いてあった。植物に明るくない私にはそこに植わっている木が何であるかわからない。濃い赤色のつぼみをつけていた。枝の先々にいくつもついていた。
けれど、私の興味はむしろ少女にあった。どうして、一人でそんなものを見ているのか、と問いたかった。
すぐ隣に立った。振り向くこともせずひたすらに、彼女はつぼみを見つめている。私など視界に入っていないようだ。呼吸するのを忘れているかのように、私は口を固く閉じていた。
何と話しかけようか。数秒の間考えて、こう口火を切ることにした。
「こんにちは」
彼女は肩を少し揺らしだだけで、私の方を向くことはなかった。
「どうして花を見ているのかな」
今度はきちんと私の目を見上げた。虚ろな目を合わせて、彼女は答えた。
「花は見ていませんよ。つぼみを見ています」
ぼさぼさと手入れのなされていないような髪が、動きに合わせてぎこちなく動いた。私は答えてくれたことに驚きと、喜びを抱いた。
砂糖を運ぶ蟻を見るような、好奇の目を彼女に向けていたのは自分でもわかった。ちょうど彼女がつぼみを見る様子と同じだった。未知なものを一心に見たいと言う、本能に似た感情を体現する彼女に、私は若い時の自分を重ねた。
言わば親近感を覚えた。似ていると感じた。
「そうだね。それでは君は、どうしてつぼみを見ているのかな」
「理由なんてありませんよ」
口を全く動かさないで彼女は言った。未だつぼみに目を凝らしていた。それから私が声を掛けることはなかった。しんとした時間の中で、ただ屈んでいる少女を私は見つめ続けた。
そんな日が数日あった。彼女を初めて見た日から、私は帰路にあの道を通ると決めた。小学の頃にした植物の観察のような、因のわからない期待感が胸を渦巻いていた。
少女は私がそこを通る時に必ずいた。そして、私が帰路に戻る時でさえ座ったままだった。日が経つに伴って、つぼみは膨らみを増していた。
日毎に服が違うので家には帰っていようが、些か心配になる。次に会ったら事情を尋ねようかと思った。そうしてあの日、私が最後にあの道を歩いた日に、訊こうと決めたのだ。
たった数日でできた習慣が板につき始めた時だった。日が伸びて引きとめられた太陽が、駄々をこねるように浮かんでいた。
同じ場所に少女はしゃがんでいた。暗い色の服を着ていた。
近寄った時、いつもと違うと思った。言いようのない不安感が私を襲った。
どうかしたのか、少女の目はいっそうに虚ろだった。鉢植えを見て、残念そうに口を曲げていた。私の目も否応無くつぼみに向けられる。
いや、それはつぼみではなかった。花が開いていた。一輪の花が、傘のような花弁を空に向けて見せつけるように咲いていた。たった一つだった。赤と緋を織り交ぜたようなたくさんのつぼみの中で、一つだけ異彩だった。淡い桃色の花。
この花の特徴であるのか、そうでないのか私にはわからなかった。ただ不気味だった。
唐突に、彼女は立ち上がった。
右手を肩よりも上に振り上げて、勢い良く下ろした。
その手は正確に花を捉えた。
花ははたき落とされた。土の茶色が染みのようについた。
一言、少女は言い放った。
「変な花。気持ち悪い」
私は気づくと踵を返していた。胃のあたりから込み上げる不快感に酔ってしまいそうだった。
少女に対し抱いた親近感を、私は投げ捨ててしまいたかった。少しでも自分と彼女を重ねた私自身を、呪いたかった。私は少女と違うと言いたかった。
吐き気を催した。それはあの日以来ずっと続いている。
私が再びあの道を通ることはなかった。あの少女が、どうなったかは知らない。
お読みいただきありがとうございました。