彼のやり方
「えーっと、マジマさんだったかな。ちょっといいかな」
真島葵とはあまり接点の無いその人は、真島葵を間違った苗字で呼び止めた。
頭の奥に沸き起こった軽い苛立ちを押さえ、真島葵は足を止め、振り向く。
「何で、」
不快な気持ちが現れてしまっているその顔の、
「……す、か?」
頬を、突然横から伸びてきた指が突いた。
「残念でしたー、彼女は『マシマ』ですよ。竹岡せんせ」
その指は軽やかに笑う声に合わせて、二度三度、頬はむにむにと突き続けられた。
真島葵がそちらに眼を向けると、「な?」と自分に笑いかけているのは、あのグループ授業をとっている先輩の一人だった。もちろん顔は何度も合わせたことがあるし、その際に会話をしたこともある。けど、その時は自分のことを「葵ちゃん」と呼んでいた人物である。
だから、驚いた。
「で、漢字は鳥の点々が山になった方だったよな、真島?」
まるで前からそうだったかのように、自然と苗字で呼んでみせる彼――中谷陽介に。
「そうです、えっと……中谷先輩」
「おっ、ちゃんと覚えてくれてんだな。嬉しい嬉しい」
うんうんと頷く中谷陽介を見ているうち、真島葵の中で驚きや困惑より嬉しさが勝ってきた。
周りの学生で自分のことを「真島」と呼ぶ人などもう居ない。
その現状は自分がそうさせたことだった。望んだことだった。……それでもやはり寂しい気持ちはあったのだ。
真島葵は自分の苗字を決して嫌ってはいなかったのだから。
「そうだったんだ? あー……ごめんね」
二人のやり取りを見ていた竹岡は、本当にすまなそうに苦笑いを浮かべていた。今度からは気をつけるから許してやって、と手を合わせる教授の姿に、真島葵はむしろ恐縮してしまった。
「いえ、あの……真島、です。よろしくお願いします」
言いつつ頭をちょこんと下げると、
「うん。よろしく、真島さん」
と、今度は正しい読みでそう言われた。
言い直された「マシマ」の響きが、その時の真島葵には普段以上に嬉しく思えた。
心が軽く、浮かんだ笑顔は本当のものだった。
そうして笑い合う学生と教授に、そういえばと口を出したのは、未だ横に立つ先輩だった。
「真島って、竹岡先生の担当講義は取ってないんだっけか。毎回の出欠の確認で名前読み上げてたら覚えられてたんだろうけど、字面だけじゃちょっと読みは判別しにくいだろうからな。むしろ竹岡せんせ、接点ほぼ無い新入生の名前よく覚えてましたね」
その言葉に、そうか、と真島葵は目を見開いた。
読み間違えられたことに気を取られ、そちらへの苛立ちしか感じていなかったが、確かにそう言われてみると真島葵の苗字は字面でだけでも覚えられていたのだ。中谷陽介の言葉通り、自分は竹岡と接点などほとんど無いにも関わらず、だ。
それは、ありがたく、嬉しいこととも言えるのではないか。
額をかいた竹岡が、ぼんやりだけど一応全員覚えたんだよ、と笑う。
「今度から読みもちゃんと見ておかないとなぁ。悪かったよ」
「でも、今日でもう真島のことは覚えられたでしょう?」
「そうだね、ばっちり。君たち二人は学年違ったと思うんだけど、サークルでも一緒なの?」
中谷陽介の確認に応え、ついでのようにひょいと訊ねた竹岡に、真島葵は首を振った。
「あ、隅田先生の――」
しかし彼女が続けて説明をするよりも、彼の方が早かった。
中谷陽介はニッと笑うと、
「いやいや、だってほら、可愛い子にはチェックをいれちゃうもんですよ」
真島葵の頭にぽんぽんと軽く手を乗せ、あとまぁ同じ講義取ってますしと付け加えた。
クサい台詞と行動に気恥ずかしさと嬉しさを感じている様子の真島葵を見て、「なるほど、よく分かった」と竹岡が笑った。
そんな雰囲気に乗せられて、
「お眼鏡にかかれて、光栄ですよ」
吹っ切れたように真島葵が笑ったその日以来、中谷陽介は真島葵を苗字で呼ぶようになった。