『葵』
*
「陽介さんって、葵さんのことは真島って呼んでますね、そういえば」
私の言葉に、古場さんは、だろ、と言いながら階段の方をちらりと見やった。
陽介さんが降りてくる気配はまだ無い。
「……真島と俺たちは年次混合のグループ授業で知り合ったんだけどな」
古場さんは自分の分の珈琲を淹れながら話し始める。
「その授業担当の教授は、なかなか名前が覚えられないからって、学生ひとり一人に名札を配ってたんだ。その名札のプレートに、学生の大体はフルネームを書いた。苗字だけ書いたやつも二、三人居た。けど、真島だけはそのプレートに名前だけを書いたんだ」
マドラーでカップをかき混ぜながら、
「さて、何故でしょう」
と古場さんが笑った。
古場さんは話を聞かせる相手に問いかけることが多い。これも常連となって気付いた。
「えぇっと……」
――私がその状況だったら、多分、苗字だけを書く。
だけど葵さんは名前だけを書いた。それは何故か。
「プレートの大きさは?」
「『真島葵』。三文字くらいは楽に入るサイズだ。よっぽどデカい字じゃないならな」
「全部で七文字の名前をフルネームで書いたやつも居たぞ」と古場さんはにやにや笑う。――悔しい。しかもその七文字っていうのがどんな名前なのか気になる。
名前で書いたってことは、名前で呼んで欲しかったってことでいいと思う。
じゃあ、名前で呼んで欲しかった理由は?
……思い浮かぶのはやっぱり――、
「名前がすごく気に入っている、とか」
ミステリー好きの古場さんにそんな答えはアリだろうか、と思いながら言ってみる。
すると意外にも、あぁ惜しい、と古場さんはにやにや笑いを引っ込めていた。
「そっちじゃなくて、真島、が、こだわってることの方を考えるんだ」
古場さんの言い方はヒントだったらしい。おかげで閃いた。
なるほど、名前じゃなくて。
初対面で陽介さんが「名前で呼んで」と言ったのに対し、本や漫画の中のような現実味の無い言葉に、私は違和感を覚えた。だけどそれには理由があった。それが「中谷会長」が誰をさすのか混濁するのを避けるためというもの。
そしてプレートに名前だけを書いた葵さんの、その理由は、
「苗字を読み間違えられるのが嫌だった?」
「はい、ご名答」
珈琲を啜りつつ、古場さんはカップを持つ手とは反対の手で指を立てた。