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存在しなかった娘

作者: log_entry01
掲載日:2026/03/17

静寂が支配する神社の境内で、男は今日も手を合わせていた。

石段に刻み込むように、指先に力を込める。


二人の時間は、あの日で止まっている。

娘を失った、その瞬間で。


遡ることのない砂時計。

落ちきった粒は、もう戻らない。


かつて、その手は、小さな体温を包んでいた。

今は、何も掴めない。


娘のいない家は、もはや家ではなかった。

そこにあるのは、互いの目に映る「欠落」だけだった。


男は、その空白に耐えきれず、外へ逃げた。

見知らぬ女の体温に触れながら、

自分が「父親ではない何か」であることを確かめようとした。


妻もまた、壊れていった。

彼女は別の男を選んだ。


それを知ったとき、怒りは湧かなかった。

ただ、理解してしまった。


——ああ、同じだけ壊れているのだと。


男は、連日のように神社へ通った。


戻してほしいのは、娘のいる未来ではない。

二人が出会う前の、あの季節だった。


手を合わせ、目を閉じる。


「神様。どうか、あの日へ戻してください。

 僕と彼女が、出会わなかった世界をください」


それは、憎しみではない。


ただ——

この喪失を、誰にも背負わせたくなかった。



男の祈りが、届いてしまった。


それは奇跡と呼ぶには、あまりに静かだった。


風が変わる。

頬を撫でたのは、若葉の匂いを含んだ、やわらかな春の空気だった。


男は目を開ける。


境内に満ちていたはずの、あの冷たい気配は消えていた。


石段を下りる。


街は、見慣れたはずの姿をしていなかった。

——いや、違う。


見慣れている。

ただし、それは「もっと前の記憶」だった。


左手を見る。


薬指には、何もない。

痕跡すら残っていない。


帰る。


そこにあったのは、殺風景な一人暮らしの部屋だった。

柱に刻まれていたはずの傷も、

床に転がっていた小さな靴も、

すべて、最初からなかった。


外に出る。


雑踏の中で、彼女を見つける。


穏やかな顔で、ひとり歩いている。

その隣には、誰もいない。


男は、しばらくその背中を見つめていた。


——これでいい。


そう思おうとする。


彼女は壊れなかった。

あの子も、生まれなかった。


誰も、傷ついていない。


そのはずだった。


けれど。


男の胸には、何も残っていなかった。


喪失すらない。

共有したはずの痛みもない。


誰の記憶にも存在しないまま、

ただ、自分だけが立っている。


男は、口を開く。


「……これで、よかったんですか」


答えは、どこからも返らなかった。


彼女の背中が、人混みに紛れて消える。


その瞬間、男の視界が揺れた。


こぼれ落ちたものが何だったのか、

彼自身にも、わからなかった。




その手の小ささ。

吸い付くような柔らかさ。


男の心臓が、ありえないほど強く打った。


「パパ……こわい。ここ、さむいよ」


声がした。


見下ろす。


そこにいたのは、

——いるはずのないはずの娘だった。


あの日のままの服。

あの日のままの顔。


男の指を、必死に握っている。


周囲の人間は、誰も振り向かない。

視線が、滑る。


まるで最初から、そこに何もないかのように。


娘は震えていた。


体温がある。

確かに、あるはずなのに。


触れているはずの手から、

冷たい記憶だけが滲み出してくる。


通りの向こうで、女が足を止めた。


かつて妻だった人間。


男と、子供を見る。


一瞬だけ、眉をひそめる。


——知らないものを見る目だった。


そして、すぐに視線を外す。

何事もなかったかのように、歩き去る。


男は動けなかった。


理解が追いつかない。


それでも、ひとつだけわかる。


この子は——

どこにも、存在していない。


「……ごめん」


声にならない。


膝が崩れる。


男はその場に沈み込み、

小さな体を抱き寄せる。


逃げたはずだった。


捨てたはずだった。


それなのに。


腕の中で、震えている。


「パパ……」


呼ばれる。


その呼び方だけが、

世界のどこにも存在しないはずのものだった。


男は、目を閉じる。


「……これは」


言葉が、続かない。


罰なのか。


それとも。


腕の中の重さだけが、

確かにそこにあった。




男は、狂ったように駆け出した。


腕の中の重みが、軽くなっていく。

羽毛のように。


「大丈夫だ……大丈夫だからな……!」


声は、どこにも届かない。


神社へ向かう。

あの場所へ戻れば、まだ間に合うはずだった。


だが、そこにあったのは——

ただの空き地だった。


乾いた風が、通り抜ける。


男は立ち尽くす。


世界には、最初から何もなかったかのように。


「お願いだ……」


振り返る。


人混みの中に、彼女を見つける。


「この子を見てくれ! 君の——」


言い終わる前に、拒絶される。


「やめて! 誰よあんた!」


その声は、鋭く、容赦がなかった。


男の腕の中で、娘が震える。


「パパ……」


指先が、透ける。


小さな手が、すり抜ける。


「こわい……消えちゃうの、やだ……」


涙が落ちる。

地面に届く前に、消える。


男は、もう一度抱きしめる。


力を込める。


それでも、腕の中からこぼれていく。


——間に合わない。


男は、目を閉じた。


「……違う」


声が漏れる。


「違う。そうじゃない」


息を吸う。


そして。


「全部、返す」


誰もいない空に向かって、言った。


「時間も、命も、全部だ」


言葉は、静かだった。


「だから——」


その先は、音にならなかった。


世界が、白く弾ける。


――


次に目を開けたとき。


そこには、あの神社があった。


湿った空気。

古びた木の匂い。

線香の残り香。


石段に、指が食い込んでいる。


男は、動かなかった。


ただ、胸に手を当てる。


そこにあるのは、何もないはずの場所。


それでも——


確かに、重かった。


「……あぁ」


声が、崩れる。


涙が落ちる。


今度は、消えなかった。


男は、その場に崩れ落ちた。


背後で、足音が止まる。


「……あなた」


聞き覚えのある声。


「まだ、ここにいたの」


男は、振り向かなかった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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