存在しなかった娘
静寂が支配する神社の境内で、男は今日も手を合わせていた。
石段に刻み込むように、指先に力を込める。
二人の時間は、あの日で止まっている。
娘を失った、その瞬間で。
遡ることのない砂時計。
落ちきった粒は、もう戻らない。
かつて、その手は、小さな体温を包んでいた。
今は、何も掴めない。
娘のいない家は、もはや家ではなかった。
そこにあるのは、互いの目に映る「欠落」だけだった。
男は、その空白に耐えきれず、外へ逃げた。
見知らぬ女の体温に触れながら、
自分が「父親ではない何か」であることを確かめようとした。
妻もまた、壊れていった。
彼女は別の男を選んだ。
それを知ったとき、怒りは湧かなかった。
ただ、理解してしまった。
——ああ、同じだけ壊れているのだと。
男は、連日のように神社へ通った。
戻してほしいのは、娘のいる未来ではない。
二人が出会う前の、あの季節だった。
手を合わせ、目を閉じる。
「神様。どうか、あの日へ戻してください。
僕と彼女が、出会わなかった世界をください」
それは、憎しみではない。
ただ——
この喪失を、誰にも背負わせたくなかった。
男の祈りが、届いてしまった。
それは奇跡と呼ぶには、あまりに静かだった。
風が変わる。
頬を撫でたのは、若葉の匂いを含んだ、やわらかな春の空気だった。
男は目を開ける。
境内に満ちていたはずの、あの冷たい気配は消えていた。
石段を下りる。
街は、見慣れたはずの姿をしていなかった。
——いや、違う。
見慣れている。
ただし、それは「もっと前の記憶」だった。
左手を見る。
薬指には、何もない。
痕跡すら残っていない。
帰る。
そこにあったのは、殺風景な一人暮らしの部屋だった。
柱に刻まれていたはずの傷も、
床に転がっていた小さな靴も、
すべて、最初からなかった。
外に出る。
雑踏の中で、彼女を見つける。
穏やかな顔で、ひとり歩いている。
その隣には、誰もいない。
男は、しばらくその背中を見つめていた。
——これでいい。
そう思おうとする。
彼女は壊れなかった。
あの子も、生まれなかった。
誰も、傷ついていない。
そのはずだった。
けれど。
男の胸には、何も残っていなかった。
喪失すらない。
共有したはずの痛みもない。
誰の記憶にも存在しないまま、
ただ、自分だけが立っている。
男は、口を開く。
「……これで、よかったんですか」
答えは、どこからも返らなかった。
彼女の背中が、人混みに紛れて消える。
その瞬間、男の視界が揺れた。
こぼれ落ちたものが何だったのか、
彼自身にも、わからなかった。
その手の小ささ。
吸い付くような柔らかさ。
男の心臓が、ありえないほど強く打った。
「パパ……こわい。ここ、さむいよ」
声がした。
見下ろす。
そこにいたのは、
——いるはずのないはずの娘だった。
あの日のままの服。
あの日のままの顔。
男の指を、必死に握っている。
周囲の人間は、誰も振り向かない。
視線が、滑る。
まるで最初から、そこに何もないかのように。
娘は震えていた。
体温がある。
確かに、あるはずなのに。
触れているはずの手から、
冷たい記憶だけが滲み出してくる。
通りの向こうで、女が足を止めた。
かつて妻だった人間。
男と、子供を見る。
一瞬だけ、眉をひそめる。
——知らないものを見る目だった。
そして、すぐに視線を外す。
何事もなかったかのように、歩き去る。
男は動けなかった。
理解が追いつかない。
それでも、ひとつだけわかる。
この子は——
どこにも、存在していない。
「……ごめん」
声にならない。
膝が崩れる。
男はその場に沈み込み、
小さな体を抱き寄せる。
逃げたはずだった。
捨てたはずだった。
それなのに。
腕の中で、震えている。
「パパ……」
呼ばれる。
その呼び方だけが、
世界のどこにも存在しないはずのものだった。
男は、目を閉じる。
「……これは」
言葉が、続かない。
罰なのか。
それとも。
腕の中の重さだけが、
確かにそこにあった。
男は、狂ったように駆け出した。
腕の中の重みが、軽くなっていく。
羽毛のように。
「大丈夫だ……大丈夫だからな……!」
声は、どこにも届かない。
神社へ向かう。
あの場所へ戻れば、まだ間に合うはずだった。
だが、そこにあったのは——
ただの空き地だった。
乾いた風が、通り抜ける。
男は立ち尽くす。
世界には、最初から何もなかったかのように。
「お願いだ……」
振り返る。
人混みの中に、彼女を見つける。
「この子を見てくれ! 君の——」
言い終わる前に、拒絶される。
「やめて! 誰よあんた!」
その声は、鋭く、容赦がなかった。
男の腕の中で、娘が震える。
「パパ……」
指先が、透ける。
小さな手が、すり抜ける。
「こわい……消えちゃうの、やだ……」
涙が落ちる。
地面に届く前に、消える。
男は、もう一度抱きしめる。
力を込める。
それでも、腕の中からこぼれていく。
——間に合わない。
男は、目を閉じた。
「……違う」
声が漏れる。
「違う。そうじゃない」
息を吸う。
そして。
「全部、返す」
誰もいない空に向かって、言った。
「時間も、命も、全部だ」
言葉は、静かだった。
「だから——」
その先は、音にならなかった。
世界が、白く弾ける。
――
次に目を開けたとき。
そこには、あの神社があった。
湿った空気。
古びた木の匂い。
線香の残り香。
石段に、指が食い込んでいる。
男は、動かなかった。
ただ、胸に手を当てる。
そこにあるのは、何もないはずの場所。
それでも——
確かに、重かった。
「……あぁ」
声が、崩れる。
涙が落ちる。
今度は、消えなかった。
男は、その場に崩れ落ちた。
背後で、足音が止まる。
「……あなた」
聞き覚えのある声。
「まだ、ここにいたの」
男は、振り向かなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




